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生死の間の存在形態 「中有」


中有の成立

前の生命が終わると、その識はすぐに新しい存在として「中有」の状態に入ります。死と中有の関係は秤が低くなったり高くなったりするように、連続して移行するものです。この中有が成立する原因として、自己への愛執、過去の楽しみに執着した習慣、そして善悪の業が挙げられています。

中有においては、眼などの諸根(感覚機能)がすべて揃っており、来世に向かう運命が定まっているため、それに応じた身体の形が現れます。この状態では、天眼のように障害なく見ることができ、神通力を持っているかのように身体が無障害で動きます。

『俱舎論』にも次のように述べられています:「中有の形態は、死の前と生の瞬間の後に生じ、同類の者には見え、神通力のあるものや、業による神通力を持つ者によって観察できる。」

四つの有(存在形態)

『俱舎論』では、四つの有が説明されています。

  1. 中有:死後から次の生の直前まで。

  2. 生有:次の生を迎えた瞬間。

  3. 本有:次の生を受けてから、死の瞬間まで。

  4. 死有:次の死の瞬間。

これらの解説には、一部誤解もありますが、基本的にはこうした段階を踏むことが示されています。

中有の様相

行った業の性質により、中有の様相は異なります。善を積んだ中有は明るい光に包まれており、悪を積んだ中有は暗闇の中で黒い光に包まれます。たとえば『入胎経』には、地獄の中有は燃える丸太のような光、動物の中有は煙のような色、餓鬼の中有は水のような色、人天の中有は金色、色界の中有は鮮やかな白色と表現されています。

中有の移行

欲界・色界から無色界へと生まれる場合、中有が伴わないが、無色界から欲界・色界に生まれる場合、中有が伴う。

中有の寿命

中有の寿命は、通常は最大七日間であり、次の生に必要な縁が揃わなければ別の身体に移り、最大で七七四十九日までこの状態にとどまります。七七日を過ぎても次の生に至らないことはないとされ、経典にはこれを超えて長く存在し続ける中有については記載がありません。


死後成辦中有之理者。如前所說識從何捨,即於彼處無間而成,死與中有,如秤低昂。依二種因,謂我愛已生故,無始樂著戲論已熏習故,善、不善業已熏習故。又此中有,眼等諸根悉皆完具,當生何趣即彼身形,乃至未受生有以來,眼無障礙,猶如天眼,身無障碍,如具神通。《俱舍》亦云:「為當本有形,此謂死以前,生剎那以後,同類淨眼見,具業神通力,根全無障礙,不轉為尋香。」此說中有是同類見,及修所得離過天眼能見。成辦何趣中有,次定不可轉趣餘生。《集論》中說容有轉改。本有者,《俱舍論》中總說四有:死已未生是為中有,當正受生初一剎那是為生有,從此第二剎那乃至死有最後剎那以前是為本有,臨終最後剎那是為死有。此望將來受生之死有,是其本有。有誤解此說為前生身形,又有見說是後形故,說三日半為前生形,次三日半為後生形。此說全無清淨依據,唯增益執。《瑜伽論》說識不住故,於前世身不起欲樂。故有說云:見前世身而生憂苦,亦屬增益。造不善者所得中有,如黑羺光,或陰闇夜。作善中有,如白衣光,或晴明夜,見己同類中有,及見自等所當生處。《入胎經》云:「地獄中有如燒杌木,旁生中有其色如煙,餓鬼中有色相如水,人天中有形如金色,色界中有其色鮮白。」此是顯色差別。從無色沒生下二界則有中有,若從下二生無色者則無中有,於何處沒,即於其處成無色蘊。堪為根據諸教典中,除此而外,未說餘無中有之例。故說上、下無間,皆無中有,亦不應理。經中又說天之中有頭便向上;人之中有橫行而去;諸作惡業所有中有,目向下視倒擲而行,意似通說三惡趣者。《俱舍論》說:人、鬼、畜三,各如自行。壽量者,若未得生緣,極七日住;若得生緣,則無决定。若仍未得則易其身,乃至七七以內而住,於此期內定得生緣,故於此後更無安住。堪依教典悉未說有較彼更久,故說過此更能久住,不應道理。如天中有七日死已,或仍生為彼天中有,或轉成辦人等中有,謂由餘業轉變勢用,能轉中有諸種子故。餘亦如是。

菩提道次第廣論