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無常の財を永遠の徳へ:施しのすゝめ | 「優婆塞戒経 雑品」 現代語抜粋訳

『優婆塞戒経』うばそくかいきょうより抜粋




雜品第十九


財がないから施せない?


善男子!無財之人,自說無財,是義不然。何以故?一切水草,人無不有,雖是國主,不必能施,雖是貧窮,非不能施。何以故?貧窮之人亦有食分,食已洗器,棄蕩滌汁,施應食者,亦得福德。若以塵麨施於蟻子,亦得無量福德果報。天下極貧,誰當無此塵許麨也?誰有一日食三揣麨命不全者?是故諸人應以食半施於乞者。

善男子よ、自分には財がないから施せない、と言う者がいる。しかし、そのような言葉は道理にかなわない。なぜなら、水や草のように、すべての人に平等に備わっているものも存在するからである。
たとえ国を治める王であっても、必ずしも施しを行えるとは限らない。また、貧しい人であっても施しを行えないわけではない。なぜなら、貧しい人にもその身に応じた分だけの食物が手に入るからだ。たとえば、食事の後に器を洗い、その洗い汁を必要とする者に施すだけでも、福徳を得ることができる。塵ほどの量の麨を蟻に施しても、計り知れない福徳の果報がもたらされるのだ。
この世の中で、極貧の人であっても、塵ほどの麨すら持ち合わせていないということはまずないだろう。一日にわずか三揣(ほんの少量)の麨を食べて命をつないでいる者でさえ、それを全うできるものだ。したがって、乞う者が現れたならば、自分の食物の半分を施すべきである。


善男子!極貧之人,誰有赤裸無衣服者?若有衣服,豈無一綖施人繫瘡、一指許財作燈炷耶?善男子!天下之人,誰有貧窮當無身者?如其有身,見他作福,身應往助,歡喜無厭,亦名施主,亦得福德或時有分、或有與等、或有勝者。以是因緣,我受波斯匿王食時,亦呪願王及貧窮人所得福德等無差別。

善男子よ、どれほど貧しく、ぼろをまとう者であっても、傷口を縛るための布切れや、わずかばかりの財は他者に施すことはできるだろう。
善男子よ、どんな貧しい者でも、身体を持っている限り、その身を使って施しを行うことが可能である。たとえば、人が善行を行っているのを見て、心から喜び、その助けに駆けつけることも、立派な「施し」である。このような行為を通じて、その人も施主としての役割を果たし、施しの福徳を得ることができる。その福徳は、一部にとどまらず、場合によっては施しを行った者に勝ることさえある。
そのため、私は波斯匿王ハシノクオウから食事の供養を受けた際、私はこう願ったのだ。「この供養により、貧しい者たちもまた、国王と同じように福徳を得られますように」と。


財貨は無常である


善男子!智人行施,為自他利,知財寶物是無常故,為令眾生生喜心故,為憐愍故,為壞慳故,為不求索後果報故,為欲莊嚴菩提道故。是故菩薩一切施已,不生悔心,不慮財盡,不輕財物,不輕自身,不觀時節,不觀求者,常念乞者如飢思食。

善男子よ、賢明の者は自他の両方を利するために施しを行う。その者は、財貨が無常であることを悟り、人に喜んでもらうため、憐憫の心から、また物惜しみの心を取り除くために、報いを求めず施し、そして、菩提道を荘厳するために施すのである。だからこそ、菩薩たる者は施せるだけ施した後、悔いる心を抱かず、財が尽きることを憂えず、財物と自分自身を軽んじず、施す時節と相手を選ぶこともない。飢えた人が食物を有り難く思うように、財貨を求めに来た人々のことを常に有り難く思うのである。


親近善友,諮受正教,見來求者,心生歡喜,如失火家得出財物,歡喜讚歎,說財多過。施已生喜,如寄善人;復語乞者:『汝今真是我功德因!我今遠離慳貪之心,皆由於汝來乞因緣。』即於求者生親愛心。既施與已,復教乞者如法守護,勤修供養佛、法、僧寶。

善友と親しく交わり、正しい教えを受け、求めに来る者を見て心から喜びを感じる。火事に見舞われた家から幸運にも家財を運び出したかのように喜び、賛美し、財を必要以上に蓄えることの弊害を説く。施しをした後には、信頼できる人に大切な財産を預けたかのように安堵する。そして、求めに来た者にはこう感謝の意を伝えるのだ。「今回、功徳を積むことができたのは、あなたのおかげです。あなたが求めに来てくださったからこそ、私は慳貪の心を離れることができました。」と。その上で、親愛の心をもって接し、施しを終えた後には、相手に対してこう教える。正しい教えに従って財を守り、仏・法・僧の三宝に供養を行うように、と。


善男子!智者施已,不求受者愛念之心,不求名稱免於怖畏,不求善人來見親附,亦不求望天、人果報;觀於二事:一者、以不堅財易於堅財,二者、終不隨順慳悋之心。何以故?如是財物,我若終沒,不隨我去,是故應當自手施與,我今不應隨失生惱,應當隨施生於歡喜。

善男子よ、賢い者は施しを行った後、受け取る者から愛念の心を求めることのなく、名声を得ることや恐怖から逃れることを目的ともしない。また、善人が訪れて親しくすることを望まず、天界や人間界における果報を期待することもない。
彼はこう考える。
「不堅固な財を堅固な財へと換えるために施しを行うのだ。そして、決して慳悋の心に従うことはない。」
なぜなら、これらの財物は、死を迎える時には何一つ持っていくことができないからである。それゆえ、自ら進んで財を人に施すべきなのだ。
こう思うべきである。
「私は今、財貨を失うことに悩むのではなく、施しを行うことでこそ、真の喜びを得るのだ。」


福徳をもたらす喜びの心


善男子!如人買香——塗香、末香、散香、燒香——如是四香,有人觸者、買者、量者,等聞無異而是諸香不失毫釐。修施之德,亦復如是:若多若少,若麁若細,若隨喜心身往佐助,若遙見聞心生歡喜,其心等故,所得果報無有差別。

善男子よ、たとえば塗香、粉香、散香、焼香の四つのお香を買う時、触れた者、買った者、量った者は皆、その香りを嗅ぐことができるが、香り自体が失われることはない。このように、施しの徳もまた同じである。施しの量が多くても少なくても、高価なものであっても些細なものであっても、それを目にして喜ぶ者、喜んで助けに行く者、遠く離れた場所でそれを見聞きし心から喜ぶ者、皆がその喜びを共有する。心の喜びが同じであれば、その結果として受ける福徳にも差が生じることはないのだ。


善男子!若無財物,見他施已心不喜信,疑於福田,是名貧窮;若多財寶,自在無礙,有良福田,內無信心,不能奉施,亦名貧窮。是故智者,隨有多少,任力施與,除布施已,無有能得人、天之樂至無上樂。是故我於契經中說:『智者自觀餘一揣食,自食則生,施他則死,猶應施與,況復多耶?』

善男子よ、仮に自分に財貨がないとしても、他人が施す姿を見て喜ぶことができず、「それで報われるのか」と疑念を抱いているならば、その人は真の意味で貧乏人と言えるであろう。また、もし財貨に恵まれ、経済的に余裕があり、良い福田に恵まれているにもかかわらず、施しによって福を得る真理を信じることができず、施すことをしないのであれば、その人もまた貧乏人であると言えよう。それゆえに賢者は、可能な限り施しを実践するのだ。

施しを行わずして、人間界や天界における快楽、さらには無上の安楽を得ることはできない。だからこそ、私は経典の中でこう述べているのだ。「もし僅かな食物しかなく、それを自分が食べれば生き延び、人に施せば餓死する状況にあっても、賢者は自らの命を捨てて施すことを選ぶ。それが物が充足しているときならば、なおさら施すべきである」と。


永続的な利益を生む出すには


善男子!智者當觀財是無常,是無常故,於無量世失壞秏減,不得利益;雖是無常,而能施作無量利益,云何慳惜不布施也?智者復觀世間,若有持戒、多聞,持戒、多聞因緣力故,乃至獲得阿羅漢果;雖得是果,不能遮斷飢渴等苦——若阿羅漢難得房舍、衣服、飲食、臥具、病藥,皆由先世不施因緣——破戒之人若樂行施,是人雖墮餓鬼、畜生,常得飽滿,無所乏少。

善男子よ、財物は無常である。無常であるがゆえに、時が経つにつれて失われるか、その価値が目減りしてしまい、最終的には利益を生み出すことができないと理解すべきである。しかし一方で、無常でありながら、施すことによって無限の利益を生み出すこともできるのだ。物惜しみをして施さないのは、むしろもったいないことである。

現世において戒律を守り、仏法を多く聴聞する人がいる。その持戒と多聞の徳により阿羅漢の境地に達する者もいるが、それでもなお、飢えや渇きの苦しみを免れることができない場合がある。この事実を観察するべきである。もし、住居や衣食、寝具、医薬品を得ることに苦労する阿羅漢がいるならば、それはすべて彼らが前世で施しを行わなかったことが原因である。

反対に、施しを常に喜んで行っていた者は、たとえたまたま破戒(五戒を破る)し、餓鬼や地獄に堕ちたとしても、常に食べ物に恵まれ、何一つ欠乏することはない。施しの行いがもたらす恩恵は、どのような境遇においても変わらず働き続けるのである。


善男子!除布施已,不得二果:一者、自在,二者、解脫。若持戒人,雖得生天,不修施故,不得上食、微妙瓔珞。若人欲求世間之樂及無上樂,應當樂施。

善男子よ、もし施しを行わなければ、自在と解脱という二つの果を得ることはできない。たとえ持戒の福徳によって天界に生まれることができたとしても、施しを実践していなかったために、最上の衣食を得ることは叶わない。このことを深く観じるべきである。

それゆえ、世俗的な幸福を求める者も、無上の安楽を願う者も、喜びをもって進んで人に施しを行うべきである。施しを通じて、無常なる財物が永続的な利益をもたらし、自身と他者に計り知れない恩恵を与えるからである。


智者當觀生死無邊,受樂亦爾,是故應為斷生死施,不求受樂,復作是觀:雖復富有四天下地,受無量樂,猶不知足,是故我應為無上樂而行布施,不為人、天。何以故?無常故,有邊故。

生死の輪廻は果てしなく続き、世俗の快楽もまた限りなく思える。しかし、真の目的は快楽を得ることではなく、この生死の連鎖を断ち切ることである。たとえ四天下を所有し、無量の快楽を享受したとしても、心が満足することはない。そのため、賢明な者は、人間界や天界の果報を求めてではなく、最上の安楽を目指して施しを行うのである。

なぜなら、人間界や天界の快楽は儚く、不安定であり、必ず終焉を迎える。無常の理を深く理解した者にとって、施しはこの輪廻を超える道であり、永遠の安らぎに至る手段なのである。


雑品之餘


利他をもって自利を為す


若求果施,市易無異。如為身命耕田種作,隨其種子獲其果實;施主施已,亦復如是,隨其所施獲其福報。如受施者,受已得命、色、力、安、辯,施主亦得如是五報。

もし施しが報いを期待して行われるなら、それは施しというよりも取引に過ぎない。しかし、世の理として、田を耕し種を蒔けば、その量に応じた収穫を得るように、施しを行った人もまた、その行為に応じた福報を得る。これは自然の因果の道理である。

施しを受けた者が、命を全うし、容貌を美しくし、力を得て安らぎを享受し、弁舌を巧みにするという五つの利益を得るならば、その施しを行った者もまた、これら五つの報いを受ける。したがって、施しとは報いを求めるための行為ではなく、むしろ他者を利することで自らも利益を得る自然の結果として理解されるべきである。


心が真の功徳を生む


若給妻子、奴婢衣食,恒以憐愍歡喜心與,未來則得無量福德。復觀田倉多有鼠雀,犯暴穀米,恒生憐愍;復作是念:『如是鼠雀,因我得活。』念已歡喜,無觸惱想,當知是人得福無量。

もし妻子や奴婢に衣食を与える際に、ただの義務や習慣ではなく、常に憐憫と喜びの心を込めて行うならば、その行為はやがて計り知れない福徳をもたらすだろう。それは、相手を思いやる心が真の功徳を生むからである。

また、田畑や倉庫を荒らす鼠や雀を見ても、憤りや嫌悪を抱かず、むしろ憐れみの心を持ち、「これらの鼠や雀がこうして命を繋いでいるのは、私の恵みのおかげである」と考え、喜びを感じるならば、その人はさらに大いなる福徳を得るだろう。怒りや恨みを捨てて、すべての生き物に慈悲の心を向けることで、その行為は純粋な功徳へと昇華するのである。


未来の豊かさと安楽を育む


智者深觀一切眾生求財物時,不惜身命,既得財物,能捨施人,當知是人能捨身命。若人慳悋不能捨財,當知是人亦惜身命。若捨身命求得財物以布施者,當知是人是大施主。若人得財貪惜不施,當知即是未來世中貧窮種子。

人間は財物を求める際、しばしば身命を顧みず、それを惜しまずに尽力するものだ。こうして得た財物を他者のために施すことができる人は、その行為によって、身命をも捨てる覚悟があることを示している。そのため、財物を惜しむことなく布施できる者こそ、真に尊敬されるべき立派な施主であると言える。

反対に、もし人が財を惜しみ、他者に施すことができないのであれば、その人は自身の身命をも惜しむ性質を持つと見てよいだろう。特に、身命を賭して得た財を貪り施さない者は、その行為によって未来世に貧窮の種を蒔いてしまう。布施とは、未来の豊かさと安楽を育む最善の行いであることを心に留めるべきである。