空衣がスマホ盗まれたってよ。
スクランブル交差点を見下ろす巨大パネルは四次元の喧騒で街を威圧する。そこから徒歩五分しない裏路地には、フォロワーのまだ少ない東京の洒落たバー紹介アカウントでだけ名前が知られていそうな、小綺麗な小宇宙がしゃんと広がっている。
入店と同時に、バーテンダーは僕にいつもの照葉樹林を差し出す。こんな奇妙な後味のカクテルを好んで頼むのは僕だけなのだ。深淵を覗くような深緑がライトに照らし出され、武骨な氷はドイツの冬ほどにゆっくりと溶けてゆく。
そうして一つ先の席に座る男女二人組の姿を映し出す。女はインスタ目的かテーブルの写真を微笑みというよりは若干凄みのきいた顔で撮影する。
きっと都内の大学生なのであろうその若い女が口を開く。
「空衣さんがテロに巻き込まれたのかと思った」
グラスを滴る雫までも緊張したように感じたのは、テロという単語が彼女の爽やかな金髪にどうしてもそぐわなかったからだ。
「ああまじで空衣らしいというか」
と、老け顔だがやたら酒の値段を気にして一番メジャーな安いカクテルを頼んだことから同じくまだ大学生なのだと推測可能な、よれたTシャツの男がため息まじりに言う。
ほら見てこのツイート、と女子大生が老け男にネコ型のスマホを提示する。
i have no phone now
but i live
i am gut
do not worry
「こりゃあ酷い、空衣これでよく大学入れたなあ」
「空衣さんがグッドのスペルも書けない状況って」
「一応空衣の名誉のために言っとく。ドイツ語じゃgoodじゃなくて gutのスペルであってる。英文にまじっちゃうレベルの混乱だったんだろ」
「ああこれドイツ語かもしれないのか、納得」
スマホ盗まれちゃうなんて災難だったね、でも空衣さんらしい、と女子大生は自分のネコ型のスマホを愛でる。男はひび割れたスマホをじっと見つめている。
「そういえば空衣さん、留学行くのに異様に荷物少なかったよね」
「ひょっとしたら普通の女子大生の国内旅行より軽装だった」
「フランス人は10着しか服を持たないっていうけど、空衣さんは5着しか服を持たない」
渋谷よりも六本木の方が似合いそうなほどオシャレな金髪乙女は、自分と相いれない生態を送るのであろう空衣という人物に対してそんな発言をした。
「あいつそれで本でも出せば」
男は本気を隠した投げやりの表情でそう言う。
「スマホなんていう現代の魔術から解放されて却って幸福度あがっていたりして」
ふたりはそんな結論に至って、グラスを空にした。
僕は目の前の照葉樹林を見つめる。生い茂る森色の和風カクテルから、得体のしれない空衣という人間が浮かび上がってきやしないか。この照葉樹林だって、奇妙な味のくせにやけにスッキリする。人生はこんな具合がちょうどいい。