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照葉樹林〜東京〜

一週間のドイツ旅行から日本に戻ったら、すぐバーに行こうと思っていた。九月の郷愁を慰めたかった。それにドイツのカクテルは僕には強過ぎたのだ。両親の体質から考えてもアルコール分解酵素が少ないに違いない。それどころか非活性型だろう。

「照葉樹林をお願いします」
やはり僕は日本人だった。
照葉樹林は飲みやすく、大地の色をしている。一番にそれを欲した。
繊細ながら大胆な手つきで氷を削り、透明なグラスにグリーンティーリキュールを注ぐ。純粋な深緑だ。そこに烏龍茶を加え、軽やかに混ぜる。透き通っているのに底の見えない、神秘的な深さがあった。光に翳すと氷が反射し、照葉樹林は夜の幻想へと誘う。
惚れ惚れとバーテンダーの一連の動作を見た。
そこは中野ブロードウェイから路地裏に入り、さらに飲み屋街の喧騒を抜けた、中野の静かなバーだ。初めての店だ。僕のバイト先は夏休み期間のため通常より二時間も早く閉店するので、九時開店のこのバーに寄って帰るには最適だった。

照葉樹林の透き通る深緑に見惚れていて、気づかなかった。足元で何か動いていると思ったら、犬がいた。黒い柴犬だ。舌を出して僕を見上げている。
「犬がいるんですか」
思わず笑顔になって聞いた。
「そう、今日はその仔預かってるんだ。共働きの妻も夜遅くなるらしくてさ」
「かわいいですね」
「すごい甘えん坊でしょ。柴犬じゃないみたいに」
黒柴が無防備な笑顔で私の手を舐めてきたので、口元を撫でてやった。胴体と別の生き物のように派手に尻尾を振っている。自分はこのバーに通うことになるかもなと思った。
「黒い柴犬、自分が小学生の頃飼いたかったんです。一番好きなタイプです」
そのバーに惹かれたのは黒柴の存在だけではない。テレビでは見知らぬ戦争映画を流しており、スピーカーからはほどよく気持ちを高揚させる洋楽が聴こえる。カウンター八席しかない小さなバーだ。
入り口付近には、茶色い地球儀が飾られていた。僕はバーテンダーがお通しのスナックを用意してくれている間、茶色い地球儀を見つめた。

「どんな家に住みたい?」
いつだったか、好きな人と理想の家について語り合った。
シロップがかき氷に溶けていく単純さで、彼女の言葉すべてが僕の身体と心に沁みわたる。彼女になら何色に染められても構わない。いつでもそうだ。それでいて刺激があり、飽きることがない。
「でもね、今の部屋気に入っているんだ。この前内装替えたの。壁紙も全部ね」
「全部替えたの?そりゃあすごい。見てみたい」
見てみたい、という言葉は、彼女のプライベートゾーンに踏み込みたいという意味だ。
「壁紙が赤と緑なんだよ。お父さんに『いつ出て行く気なんだ』ってからかわれた」
彼女は笑いながら、スマホで内装を写した写真を見せてくれた。淀みない赤と緑だ。僕は緑が好きで、彼女は赤が好きなので、偶然であれこの最高の補色を全面に使った彼女の選択に、僕は密かに自惚れた。

「……、どういう家がいいの」
僕のことを何と呼んでいいのか迷うような間が開いて、今度は彼女が聞いてきた。
教室で教授が呼ぶように苗字に「さん」付けにするか、下の名前に「ちゃん」で呼べばいいのか、でも僕のセクシュアリティ的に女の子扱いの際立つ呼び方は良くないのかもしれない、と気を回したらしい。けれどもそばにいるのなら、呼び名がなくても通じる。彼女のその「間」に僕の心は和んだ。

「茶色い地球儀が似合う家に暮らしたい。あと砂時計を置きたいなあ」
彼女は目を大きく開けて同意してくれた。信じられないほどの共感具合で、僕の方が驚いた。

茶色い地球儀は、欠かせない。本能的に欲してしまうものだ。日本語ではなくて英語かドイツ語で地名が書かれていたらさらにいいのだけど。
と、思って目を凝らしても、中野のバーの薄暗い店内では、文字まで見えるわけがなかった。

「普段この辺で飲むことが多いの?」
バーでの挨拶代わりの質問を、バーテンダーがした。
「いや、新宿で飲むことが多いですよ」
最初から新宿二丁目、とは言わなかった。セクシュアルマイノリティの集う町の名を、初っ端から持ち出す必要はないだろう。

やがて会話が発展していき、「新宿二丁目」のワードを出すこととなった。そして次から次へと、アッチ系、ゲイバー、レズビアン、ミックス、下半身だのそうした言葉で会話が続いた。
はあ、新宿二丁目がいい。偶に飲む分にはいいけれど、この辺りのバーに頻繁に行くことはできなさそうだ。なぜなら、好きと言えないからだ。好きなものを好きと言えない。
「俺はノンケだからさ」と平然と宣言されて、アッチ系そっち系呼ばわりなのだ。僕は自分のことを一切語れなかった。好きな人のことももちろん。初対面の相手に言う話ではないと知っていても、最初から拒まれている感じを受けるのは息苦しいことだ。適当に話を合わせ、無為な時間を享受しなければ。

バーテンダーはイスに腰掛けて、黒柴を撫でながら話した。議題は性や種に関する障害だった。入店したての一言ずつの挨拶とは違い、饒舌な議論になっていった。
「性同一性障害っていうけどさ、障害者待遇を望むなら障害者手帳を持って来いよって話。それだったら納得するよ。特別扱いしてほしいの? 甘えだよ。身体は女だけど心は男です、って言うなら俺はその人のこと男扱いするだろうね。本人がそう望むなら。でもそれ以上どうしようもないよね」
倍の年齢のバーテンダー相手に、僕はもちろん反論もした。年上だから躊躇うということはなかった。

その一方で、僕は自分に命じておいた。
被害者面するな!

バーテンダーの意見には納得いかない部分が多くあったが、僕自身の意識を振り立たせるには良かった。
けれど彼の話は、話の持っていき方がどこかズレていた。偏見が凝り固まっているのがよくわかった。結局、自分の印象にそぐわないものは排除したいのだろう。
こういう人がいる、そしてそれは世間の大半かもしれない。
思い知らされた。自分はセクシュアリティについて見識のある人間と話しすぎだし考えすぎた。そうではない人と話す息の詰まる時間に慣れる訓練も必要なのだと思った。今いる世界で生きていくつもりならば。

#エッセイ #短編 #セクシュアリティー

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