自分は「ちっぽけ」な存在と思うことで変わる人間関係
自分の意見や考えは80億分の1のちっぽけなもの
2024年世界人口ランキングによれば世界人口は81億1900万人、前年よりも7400万人増加しています。
人口の多いトップは、インドで14億4,170万人、2位中国14億2,520万人、3位アメリカ3億4,180万人・・・・
日本は12位で1億2,260万人、世界人口のおよそ1.5%程を占めています。
人の意見や考えは、本当に千差万別であり一致する方が難しいことでしょう。
人の数だけ意見や考えがあると言っても過言ではありません。
例えば、ラーメンが好きな人がいたとしましょう。
ラーメンは、まずスープの種類で大まかに分類できます。
味噌、塩、醤油、豚骨、鳥白湯等様々です。
麺に関しても、
極細麺、細麺、太麺、極太麺等、太さに違いがあり、
ちぢれ麺やストレート麺等、形状の違いがあります。
トッピングに関しても、
チャーシュー、煮卵、ネギ、メンマ、もやし、なると、コーン、バター等、まだまだ沢山の品数が存在します
ラーメン店は全国におよそ1万8千店程(チェーン店含め)あり、店によっても味が異なります。
これらの組合せを考えれば、無限とも言えるラーメンの味が存在します。
ラーメンの味で真に共感できるのは、奇跡かも知れません。
食においてラーメンと限定しても、真の一致は難しいものです。
ましてや人の意見や考えも同じで、真の一致はそれ以上に難しいのです。
「賛成」や「反対」等の択一での一致は可能ですが、人間関係のように複雑な問題では他人との意見が真意で一致する方が希だと思った方がいいでしょう。(人は二択や三択の一致で、他人と完全一致していると思いがちです)
そう考えれば、自分の意見や考えは、本当に「ちっぽけ」なものです。
「ちっぽけ」とは、選択肢が無数にある中の一つという意味です。
選挙に行かない人が、
「自分の一票で政治は変わらない」との意見を耳にします。
だから選挙に行ってもムダといった考えです。
同じように自分の意見や考えも「ちっぽけ」な一票に過ぎないのです。
ただ、その「ちっぽけ」な一票を入れなければ何も変わりません。
有権者であれば自分も一票ですが、相手も一票です。
自分も「ちっぽけ」ですが、相手も「ちっぽけ」なのです。
時と場所によって人の意見や考えは異なる
場所によって意見や考えが異なる例
日本には死刑制度がありますが、世界はどうでしょう?
2023年において、死刑制度のある国は日本を含め55カ国あります。
事実上死刑制度が廃止となっている国は144カ国で、多くの国で死刑制度が廃止されています。
近隣国で見れば、日本・中国・北朝鮮には死刑制度がありますが、韓国は事実上の廃止となっています。
テレビ等のマスコミ報道で、遺族の方が加害者に対し極刑である死刑を望む声を耳にしますが、制度の廃止国ではその願いは叶いません。
場所が異なることで、人の意見や考えが異なるいい例でしょう。
時によって意見や考えが異なる例
兵庫県知事のパワハラやおねだり騒動が話題となっていますが、昭和の時代はパワハラが言わばあたり前でした。
知事が付箋紙を投げたとか言う話がありましたが、当時は灰皿を投げる上司を見かけたのを思い出します。
サービス残業もあたり前、何よりも愛社精神を持って働くことが、昭和の美的働き方でした。
時代によって、人の意見や考え方は大きく異なります。
何が正しくて、何が正しくないか?
正答がないようにも思えます。
兵庫県知事は、昭和の時代であれば何の問題もなかったかも知れません。
言い換えれば、令和に則した対応や考えでなかったように思えます。
人の意見や考えは、時や場所で変化するものです。
我々は、令和(時)の日本(場所)において、その意見や考えが正しいかを見極め判断する必要があります。
同じことですが、会社には20~60代の人が伴に働いています。
年齢層によっても、意見や考え方等が異なるのは自然なことです。
常識や一般的といった認識が、人によって異なる点を知っていれば、意見の不一致の際に、互いを尊重し回答を導くべきです。
自分の意見や考えに過度な自信を持ってはいけません。
あくまでも選択肢の一つとして述べるのがいいでしょう。
日本の法律を侵す行為や公助良俗に反するもの等、明らかに判断ができるものは別として、特に中高年に言いたいのは、自分の意見や考えが「ちっぽけ」だと思えれば、若い世代との人間関係はうまくいくよう思われます。
日本のSMも時と場所によって考え方等が異なります。
場所的な点でみれば、日本には縄の文化があり、縛りや吊などの緊縛は日本独自のものです。
昭和の時代、Sは絶対的な存在であり、Mはどんな命令にも従い服従することが求められました。
現代において、SとMの関係性は役割の違いであり、Mが満足しなければSをかえる時代です。
「ノラのM」と呼ばれる特定のご主人様を持たないMも存在します。
社会においても、昭和の時代における終身雇用や年功序列は制度的に崩壊しており、会社に縛られることなく、今は自由に転職する時代です。
「愛社精神」という言葉は令和において死語でしょう。
社会もSMも、時の流れによって同じような変遷を遂げているように思われます。