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M譲として下積みが必要だった昭和のSMクラブ

SMが日本の大衆文化となったのは、1960年代後半「SMマガジン」「SMセレクト」等のSM雑誌が次々と刊行され、一般の書店で購入できるようになったことから始まります。

その頃のSM雑誌では、Sが男性でMが女性というのがスタンダードでした。

その傾向は1980年代、VHSビデオが家庭に普及する頃まで続きます。

当時のアートビデオやシネマジックといったビデオ製作メーカーの作品を見ても、S男M女の傾向が強いことが伺えます。

バブル期(1986年~1991年頃)には、店舗型のSMクラブが最盛期となります。

なぜ、昭和のSMクラブで、M譲としての下積みが必要だったのか?

今では、あたり前に存在するM男ですが、当時は今ほどM男は存在しませんでした。

簡単に言えば、女王様のニーズが今より少なかったと言えます。

また、M譲の仕事がハードだったこともあります。

昭和におけるSMの三種の神器は、鞭・蝋燭・浣腸と言われています。

ソフトなプレイが主流の今とは異なり、ガチな責めにも耐えなければなりません。

今でもガチな無店舗型のSMクラブも存在しますが、当時の店舗設備や多様な責めのアイテム、客層等を考慮すればプレイ自体は軟化しているよう思われます。

当時の店舗型のSMクラブの多くは、プレイ状況をスタッフが確認できる「監視部屋」と呼ばれる小部屋がありました。

M譲が危険にさらされないよう配慮されていました。

当時は店に守られていたと言え、今の無店舗型のSMクラブのM譲は、一般にプレイはソフトになったものの、ホテル等の密室で客の相手をすることになります。

今も昔も、高額な報酬を得ることができますが、相応の覚悟が必要な点は変わらないのかもしれません。

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