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石を投げていい人

 ある男が、まだ開墾途中にある原っぱで切株に腰掛けてあれこれと思索にふけっているときだった。
 なにやらにわかに騒がしくなった方へと目をやると、30、40人はくだらないであろう群衆がゾロゾロと男のもとへと向かって来ていた。その中心では女が一人、何人かの男に無理矢理に引きずられている。
 やがて女は、思索にふけっていた男の前に突き出された。
 男が群衆に何事かと訊ねると、女を引きずってきた市民の一人が鼻息を荒くしながら答える。

「先生。この女、姦通していたんです。現場を押さえましたから間違いありません!」

 女は怯えきった様子で「お許しを」と繰り返す。敷布をどうにか巻きつけているだけでほとんど半裸のままであった。
 しかし先生と呼ばれた男は誰にも返事をせず、どういうわけか着ていた絹のローブの両腕と裾をたくし上げ、たるみを結いて動きやすそうな格好になると今度は脚を前後に大きく開いてアキレス腱を伸ばし始めた。
 群衆の中から業を煮やした誰かが声をあげた。

「石打の刑だ! 石で打ち殺せ!」

 次々に賛同があがり、やがて石打コールが藪で囲まれた原っぱにこだまする。

「先生、こういう女は石で打ち殺せって暗黙のルールがあるんです。実際、そうした方が良いって書かれた法だって、世の中にはありますよね?」

 市民たちは男に尊崇の念を抱いていた。姦通を許せない気持ちはあるが、やはり殺害するとなるとどこかに気後れする部分があるのだろう。彼らにとっては彼の承認こそが唯一、後ろめたさを掻き消す手段なのだ。

 問われた男は、黙ったまま切り株の裏へ回り一度そこへしゃがみ込み、何かを掴むと身を起こして彼らに言った。

「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい。あるいは――」

 男は身長の半分ほどある木の棒の、端に近い所を両手で握ると振りかぶるように構えてから叫んだ。

「私を空振りさせる自信があるものが、女に石を投げつけるがよい!」

 人々は目を点にして顔を見合わせた。「何を言ってるんだコイツは」と今にも言い出しそうな雰囲気だ。

 だが他ならぬ彼の言う事ならばと、群衆の一人が石を投げた。女に直撃するかと思われた石は、男が勢いよく振った木の棒で打ち返され、群衆のはるか後方へと飛び去った。

 一人、また一人と石を投げ出す。男もまた、女にぶつかる石を確実に打ち返す。

「どうした! 女を殺すんじゃないのか!?」

 男の咆哮を合図に、群衆はみな力いっぱいに石を投げ始めた。
 大小無数の石ころが風を切って女に襲いかかる。しかし投石の直線的な軌道の脇に構えた男は、目にも留まらぬ速さで木の棒を振り悉く打ち返していく。ときに三つ同時に、ときに目の前で軌道を曲げながら、ときに内角高めギリギリの際どいコースで、休みなく襲いくる石ころだが一つとして女へは届かない。男の棒さばきは完全に神がかっていた。
 水平に弾き返された石が、人の壁をみるみる崩してゆく。やがて原っぱは、低いうめき声が響くばかりになった。

「こんな程度か、お前らの石打ちは!?」

 男の怒号が、人々の累々と横たわる地面を掃いていく。それを追うように、ビュウと一陣の乾いた風が辺りを抜けていった。
「ふん」と鼻を鳴らして男が女へと振り向いた時だった。

「ま、だだ――」

 一人の男が痛みをこらえるようにして、ゆっくりと立ち上がった。

「あ、あんた!」

 目を見開いて声を上げた女の視線を追うようにして、棒を持った男が振りかえる。

「ほう、まだ立つか。だが貴様は、この女に石を投げる資格があるのか!」

 男が棒の先端を突きつけるようにして問いかけると、立ち上がった男は手中にある石を見つめてから、やがて意を決したようにそれを男に突き出し、ほとんど絶叫するように言い放った。

「俺は、ソイツの、夫だぁ!」

 女は咽び泣きながら、ごめんなさいの連呼をはじめる。

「そいつに捧げた全ての愛を、今、すべて! 悲しみに換えてぶっ放す!」
「おもしろい」男は木の棒を構えた。「見極めてやる」

 二人の間に見えない炎が渦を巻く。
 夫は大きく片脚を上げた。大きく振りかぶった石の重みが、肩だけでなく胸の辺りの筋肉まで伝わってくる。女との出会い、交際、結婚、笑顔、様々な思い出が胸を締め付けて、今にも弾けて飛んでいってしまいそうな胸の筋肉を押さえつけているようだった。

「うぉぉぉおおおお!!!」脚を振り下ろす勢いにまかせて、夫の腕から全身全霊の力を込めた石が放たれる――


 木の棒を振り切った形のまま、男は動かない。
 ドサッと、夫の崩れ落ちる音が男の耳に届いた。
 男の額から、一滴の汗が流れ落ちる。

「見事だ」

 見れば、男の持つ棒の中程から先は砕け散っていた。裂けて尖った先端がその衝撃を物語っている。
 土手っ腹に石を食らった女は、白目を剥いて倒れていた。仮に木の棒が掠りもしなければ、そんなものでは済まなかったことだろう。
 男は、力尽きてくずおれている夫に歩み寄った。

「どうする? あの女、まだ生きてるぞ?」

 夫は仰向けに空を眺めながら、まだ整わない呼吸のままで答える。

「不思議だ。今は、先生に勝てたって嬉しさで、胸がいっぱいになってる」

 夫の目尻からボロボロと涙がこぼれだす。

「それでいいのさ」

 男が差し出した手を、夫は寝転んだままガシリと握った。
 途端に、その光景を目の当たりにした群衆たちが歓喜の声をあげ、死力を尽くした二人に万雷の拍手を送りだす。周囲には、あたかも暖かい光が彼らを包んでいるかのような晴れがましい雰囲気が満ち溢れている。
 人々が喜びあう中、一人の少年が男の前へ歩み出て訊ねた。

「先生、僕も石を投げられるようになりたいです」
「なれるさ。だが、私の指導は厳しいぞ?」
「は、はい!」

 少年が満面の笑みで返事をしたのを皮切りに、「俺も私も」と人々が押し寄せていく。


 やがてこの街では、石は血の滲むような努力をした者だけが投げる事を許されるようになり、投石は小悪党ごときに気安くする行為ではなくなった。
 それ故に、姦通した者には石をぶつけて殺すのではなく、意趣をぶつけて社会的に殺す風潮になっていったそうな。


(おわり)

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