課長の宿願(1)
とある企業のオフィス。向かい合わせになった、いかにも会社らしいスチール製のデスクが直線状に並んでいて、その長方形の島みたいになったまとまりが2列ほどできており、ところどころ各々の持ち主が座り、なんらかの業務にいそしんでいる。
ただ窓の側の1台だけは島から切り離されていて、まるで部屋全体を監視でもするみたいな向きに据えられていた。
上位の役職が着くとおぼしきそのデスクには、ハの字眉毛の、見た目から明らかに気弱そうな50代ぐらいの男性が座っていて、島の方のどこか一点をじっと見つめている。
ハの字眉毛は突然、明らかに無理をしているような高音で「鯖木君、ちょっといいかな!」と声を上げた。
名指しされた細面の男性社員は、一瞬「はて?」といった顔をしたものの、すぐに席を立ってハの字眉毛のデスク前へ進んだ。
「お呼びでしょうか?」
「忙しいところ申し訳ないけどね、今から少し、君にパワハラする時間をもらってもいいかな?」
細面が特に表情を変えることもなく、「まあ少しぐらいなら」と応えると、ハの字眉毛は大げさに咳払いをしてから声を荒らげた。
「き、きき、君ねぇ! どうなってるんだね!」
「と、申しますと?」
「報告書だよ、報告書! 私、言ったよね? 特に報告するほどの進捗は有りませんと言った君に、報告書を書いて寄越せと」
「はい。確かに」
「私はね、10枚書けと言ったんだよ、10枚。何も書くこと無いのに」
「そうですね」
「そうですね、じゃないよ!」
ハの字眉毛は机の脇に山積みになっていた紙の束を持ち上げると、怒りにまかせるというよりも重さに耐えきれなくなったように、鯖木の前にドンと叩きつけた。
「なんで500枚も書くんだ!」
「つい筆が滑って」
「お陰でこっちは寝不足だよ! 途中でフェアリーが出てくるわ、主人公が魔界で起こしたベンチャーがユニコーン企業になるわ、最後ヒロインが世界を守るためにアメリカ大統領とドラコン勝負するわ、興奮と感動で一睡もできなかったよ!」
「すいません」
「どうしてくれるんですか!」
そう言い放ったハの字眉毛は、つい丁寧語になってしまったことに気づくと首を傾げながら「です? だす?」などぶつぶつと言っていたのだが、突然ハッとした顔をしてから自信満々で言い直した。
「どうしてくれるんだすか!」
「だすか?」
ハの字眉毛は報告書の内容に興奮を抑えきれないらしく、夢でも見るようなキラキラした目で「この胸のドキドキをどうすれば!」などと悶絶しながらその辺りをうろちょろしはじめた。
鯖木はわずかに徒労感を顔ににじませはしたが、努めて冷静にただし語気は極めて強く、「課長!」と言い放ってハの字眉毛を静止させた。
「な、なんでしょうか?」
「パワハラをしたいのでは?」
「ああ、そうだった」
ハの字は再びパワハラ調を取り戻すべく、「お前な!」と無意味なワンクッションを挟んでから一気呵成にまくし立てる。
「お前、あれだよ、あれ、いつもいつも一生懸命仕事して、私がイチ言ったことをさ、毎度毎度10以上理解して、成功に導いてばっかりじゃないか。しかもその手柄はぜーんぶ、同僚や私のお陰だとばっかり主張して。お前! お前は、お前さんみたいな人間が、高校の時に友達だったらどれだけよかったか! お昼休みに一人、トイレの中で食べる弁当の味がわかるか? お前様にわかるのか!? どうして、どうしてお前殿はもっと早く私の前に現れなかったんだ! ああああ!」
そう言いながらくずおれると、デスクの上に突っ伏してしまった。
鯖木はいくらか不憫にでも思ったのか、やや遠慮がちに「いや課長、それじゃパワハラには」と軌道修正を促す。
ハの字はガバッっと起き上がると、「え? 違うの?」と鳩が豆鉄砲でも食らったような顔をした。
「違いますね」
そう言われたハの字は、いまいちピンとこないといった表情のまま、何か寄る辺を探るような口調で質問を始めた。
「じゃあ、娘がお父さんの衣類はコインランドリーで洗ってきて、って言うのは?」
「パワハラっていうか思春期ですね」
「じゃあ、妻に小遣いの増額ねだったら、空のペットボトル渡されて、2週間は水だけで生きられる、って言われたのは?」
「言うなればDVですね」
「じゃあ、娘が外国人の男を何人も連れ込んで、部屋でなんかやってるのは?」
鯖木は「その」と言い淀んでから、「パワハラでは、ないです」とようやく付け加えた。
ハの字は「じゃあ、じゃあ……」と必死に記憶を手繰っている様子だったが、次第にワナワナと震えだし、ついには目に涙を浮かべながら叫んだ。
「パワハラって、いったいなんなんだよおおおお!」
慟哭とともに両の拳でデスクを叩いたハの字。
いつの間にかその傍らに、書類を携えた女性社員が不敵な笑みを浮かべながら立っていた。
課長の宿願(2)へつづく