曽和さんと大統領との関係を書く日
先週末は、人事・採用の関係者であれば誰もが知っている曽和利光さん率いる株式会社人材研究所と、株式会社パフとの(若手社員を中心とする)懇親会が総勢25名で開催されました。
本日のタイトル画像は、その懇親会での曽和さんの締めの挨拶シーンで、下の写真は最後に撮った参加者全員の集合写真です。
人材研究所の皆さんも、パフの社員たちも、曽和さんと大統領との関係を詳しくは知らないと思いますので、今日の大統領日誌(note)に書き残しておこうと思います。
大統領にとって都合のいいい(曽和さんにとっては都合が悪い?)ことが出てくるかもしれませんが、曽和さん、ご容赦ください(笑)。
曽和さんとの出会い
曽和さんと初めて会ったのは西暦1999年。当時、曽和さんは27歳。パフは創業3年目。曽和さんはリクルートを辞めた(1回目)ばかりのころで、リクルートでの上司だった(現履修データセンター代表の)辻太一朗さんが創業した会社を手伝っていたときでした。
この辻さんを通じて曽和さんと初めて会うわけですが、そもそも辻さんを大統領に紹介してくれたのは、当時リクルートの人事部長だった(現日本バドミントン協会会長で前Jリーグチェアマンの)村井満(通称ムライ)さんでした。
そんなこともあって、出会った当時はムライさんと辻さんと曽和さんとでよく飲んでいました。でも当時の曽和さんは物静かで、頭の良さは感じるものの、強い印象がほとんどなく……。そりゃまあ考えてみれば、一回りも年の離れた人事部長のムライさんや上司の辻さんがいる場で出しゃばるなんてできませんよね(苦笑)。
「つきしま村塾」
曽和さんとの交流が深まったのは、2000年秋の「つきしま村塾」考案の時期(初回開催は年明けの2001年1月)から。発案は大統領だったんですが、これをどういうメンバーやスタイルで実施していくかということは、ムライさん、辻さん、曽和さん、大統領との4人の飲み会のときの議題(酒の肴?)として話し合われたのでした。
ムライさんはリクルートの人事部長という立場上あんまり表に出すわけにはいかないので、「陰の塾頭」(だったかな?)というネーミングで学生への告知の際には実名は出さないようにしていました。辻さんが表の塾頭、曽和さんは副塾頭(書生だと思ってましたが、いま念のため過去のコラムを読んで確かめたら、書生は当時のパフの内定者のタカノリで、曽和さんはいちおう一階級上の立場でしたw)、そして大統領は、いちばん偉そうな主宰という立場でした。
この塾は学生を毎回10数名招いたうえで、2週間に一回のペースで開催していました。パフのセミナールームに座布団を円座に敷き詰め、真ん中に日本酒の一升瓶やつまみを置き、学生も大人も靴を脱いで胡坐をかいて、飲みながら食べながら夜通し語り合う、というイベント(単なる飲み会じゃないかという話もw)。ここでは曽和さんも本領発揮で、いろんなことを熱く語っていました。この「つきしま村塾」を通じて、曽和さんとの距離が急速に縮まっていったのでした。
気がつけばリクルートに出戻っていた曽和さん
それからしばらくしてパフにも多くの若い社員たち(現社長の吉川さんや執行役員の保坂さんたち)が入社してきて、つきしま村塾は、辻さんや曽和さんやムライさんの助けなしに自前で開催することになります。
そして曽和さんは、気がつけばリクルートに出戻っていました(いまふうに言うとアルムナイ採用。仕掛けたのはムライさんでした)。その数年後、曽和さんはリクルートの採用責任者になっていきます。
採用責任者になったあとの曽和さんとは、忘れられない因縁話があります。
パフが(というか社長だった大統領が)ぜひ採用したいと思っていた学生(京都大学の4年生でダイサクという奴)がいました。彼はパフの採用を目的としたインターンシップにも参加していました。当然、大統領は最終面接のあと彼に合格を出します。ダイサクもパフ以外には(大学院への進学を除けば)とくに志望度の高い企業はありませんでした。
ところが、ある日の夜遅く、このダイサクから大統領の携帯に電話がかかってきました。
「クギサキさん、申し訳ありません。実は……いま僕の隣にリクルートの曽和さんがいるんですが…」
いやな予感がしました。
その後、電話に曽和さんが出ます。そして、「クギサキさん、すみません!彼をリクルートにください!」(実際にこういうセリフだったかどうかは忘れましたがw)というではありませんか。
「なんだと・・・許さん!でも、しょうがないから次に会うとき頭を丸めて来れば許してやる」
……と言い返した記憶があります。いまから19年前(2004年春)の話ですが、丸坊主の曽和さんはまだ見ていませんね(笑)。
ライフネット生命の総務部長として現れた曽和さん
内定者を横取りされて以来(それが原因ではありませんが笑)、曽和さんとは会っていませんでした。
が、ある日突然(2008年だったと思います)曽和さんから「実はこのたびリクルートを辞めまして・・・」という連絡をいただき、その後すぐ築地の寿司屋で一献傾けることになりました。
聞けば曽和さんが転職した会社は、創業したばかりのライフネット生命。会社の基礎を、人材や人事制度面から整えるべく総務部長として招かれたのだとのことでした。
生保業界に風穴を開けるべく誕生したライフネット生命には大統領も関心があって、創業者である出口治明さん(現立命館アジア太平洋大学学長)を紹介してもらったのはその直後でした。
出口さんにはその後、パフの学生向けセミナーで何度か講演していただいたり、大統領の音楽ライブにもお越しいただいたり、APUの学長になった今も懇意にしていただいてますが、そもそもは曽和さんに紹介していただいたおかげなんですよね。
そしてついに人材研究所を創業
2011年の秋でした。曽和さんから「実はこのたび会社を作りまして・・・人材研究所という社名なんですが・・・」という連絡をいただき、「え!」とビックリしたことを覚えています。
人材業界(とくに新卒採用)の市場は、リーマンショックや、この年の3月に起きた東日本大震災や、民主党政権によるゴタゴタで、回復途上にあったころでした。
このときから、曽和さんとは同じ業界の経営者仲間としてのお付き合いが本格化していきます。
人材研究所は創業したばかり。パフはリーマンショックから這い上がろうとしていた時期。お互い励まし合いながら交流を深めていきました。
そういえば「ES&志望動機撲滅同盟」を立ち上げたのも曽和さんとでした。
そして、一般社団法人日本採用力検定協会を立ち上げたのも、曽和さんとの飲み会がきっかけでした。
その後の曽和さんの活躍は、みなさんもご存じの通り。パフも曽和さんにはいつも助けてもらってますし、大統領がパフの社長を辞めた今でも、お互いのコラボをさらに深めていきたいとのことで、先日の勉強会や懇親会を社員同士で開催することになったのだと聞いています。
ということで珍しく長々と書いてきましたが、曽和さんと大統領とのお付き合いは今年で丸24年になります。
考えてみれば、人材研究所やパフの若手社員たちがまだヨチヨチ歩き(新入社員はまだ生まれていない!)のころからのお付き合い。これからも、お互いよきパートナーとして刺激し合い、高め合い、世の中の就職や採用をよりよいものにしていってもらえたらと思う大統領でした。
おしまい
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