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異形の匣庭 第二部⑪-1【囲われた火種】

 自分の叫び声で目が覚める事があるんだな、と冷静になってからやっとまともに息を吸うことが出来た。ぽすりと真っ白なシーツに身を沈めると面前に橙色の天井が広がっていて、夕陽が主張するのに丁度良いキャンパスになっていた。古ぼけた蛍光灯と剥き出しの自然が支配する風景から一変し、無機質で温かみのある風景に包まれている。その事実がどれだけ僕を安心させ、どれだけの恐怖の中にいたのかを測る物差しになったかは、震え出した手を見て実感した。
 あの洞窟は一体何だったのか。ある物全てが「良くない物」で、全て生きていた。鎖に繋がれて閉じ込められ、来たるべき時を待つ。表現としてあっているか分からないけど、これ以外の言葉が見つからない。あの狼の見た目に未だ引っ張られているかもしれないけど、まるで
「……保健所」
 声に出して一息吸い、左手をゆっくりと天井に掲げる。痛み止めのおかげなのかぴりりと刺激が走るだけで、血も滲んでいなければ動かせない訳じゃない。ぐるぐると巻かれた包帯がかなり痛々しく映るけれど、生きている証拠だ。
 人里離れた山奥の更に奥深くの洞窟に収監された、人に害を為す者共。きっとどれかに母さんが携わったんだろう。そしてもしかしたら……いや、本当は僕だって……。
 左手の痺れに恐怖を思い出されようとしていたその時、小さい凹凸に爪弾かれながら開く横開きドアの音がして、サイケデリックな装飾に彩られた山男が部屋に入って来た。一瞬身構え、すぐに彼が水沼源五郎なる人物だったと思い出した。
「あ、ゲンさん……」
「おお坊主、目が覚めたか!! っておいおいどうした!? 傷が痛むんか!?」
「え、いや、大丈夫……だと思いますけど」
 手に持った洋服やらフルーツやらをどこに置こうかと部屋を見回し、洋服を落としてしまい、それを拾おうとしてフルーツを落としている。
 がたいのいい男がオロオロとする姿は珍妙な面白さがある。いや、笑っちゃいけないのは分かっているけれど、薬のせいか何なのかとにかく面白い。あたふたするゲンさんとそれを溜息交じりに諫めるセツさん。コンビとしてありそうだ。
 床に落ちた物を全て拾い上げ、取り繕う様に笑うゲンさん。僕も釣られてふふと笑った拍子に脇腹に痛みが走った。
 その瞬間、彼女の微笑と血の滴るナイフがフラッシュバックし、思わず声を上げて毛布を蹴飛ばし逃げようとして、ベッドから落下した。
「おい!」
 荒い足音を立てて僕に駆け寄ってくれているみたいだが、それもまた彼女の足音を彷彿とさせ、喚き散らかし近くにあった物を投げつけた。
「坊主! 落ち着け! 深呼吸しろ深呼吸! ここには何もおらんから、な! 安心していい!」
 ゲンさんの声は耳に届いているがどうしても体が反応してしまう。
「はーっ! はーっ、はーっ!」
 投げる物が無くなると今度は過呼吸を起こし始める程の恐怖が染み付いてしまっていた。意識的に息をゆっくり吸おうとシーツで口を覆うと、今度はそれが彼女のドレスに見えて仕方がない。

 看護師が駆け付けて二十分かそこらでやっと落ち着きを取り戻した僕は(初めに来たのが女性だったので更に悪化し、男性医師に交代して貰ったが)無理言ってゲンさんと二人にして貰った。無論、医師は反対したしゲンさんも日を改めると言ってくれてはいたが、今日中に聞いておかなければならない事が沢山あるし、今一人になりたくない。
 ゲンさんが医師の去り際にセツさんの名前を出したのだが、驚いた顔をして「後で院長を寄らせます」と言って出て行った。セツさんの顔の広さを知るのはもう少し後の話になるけれど、退院するにあたって、院長と思しき人物が彼女に何度も頭を下げているのが印象的だった。
 話を元に戻すとして、二人きりになった病室でシャクシャクとリンゴを齧る音が鳴っていた。音を出しているのは僕じゃない。
「それで……あの洞窟の事だがな、まあ凡その予想は付いてると思うが、あれは簡単に言えばやべえもんを保管してる倉庫だ。お前が出会ったあの女、あれは中世ヨーロッパに居た殺人鬼でな、趣味で子供喰ってたんだが、死んだ時の怨念がナイフに宿ってる。獄中で看守に最後の晩餐に何が良いかって聞かれてな、子供を食わせろって言ったやべえ奴だ。今になっても呪物として残り続ける怨念っつったらまあそう多くは無いな。で、世間一般的に呪物だとか言われる類の物からお前が昼間によく分からない物に分類したあれらだけどな……『忌世穢物(きよえもの)』って呼ばれてる」
「忌世穢物……」
「まあ婆さんの方が詳しいんだが、とにかく女を含む呪物とも一線を画す程の更にやべえ奴になる。普通のが原付なら忌世穢物はスーパーカーってとこか。どの性能に特化してるのかは千差万別だが、範囲か殺傷能力か、とにかく普通のとは比較にならねえ」
 髪の毛の狼に有刺鉄線の人型がそうなんだろう。妖怪の様な古めかしさが無くて、禍々しさだけがあるような。
「本来なら全部払った状態にしてやりてえんだが、あんまり力が強えってんでどうしようもないのが一定数いる。だから解決策が見つかるまであの洞窟に保管してたって訳だな。それで…お前どうやってあそこに入ったんだ?」
 リンゴを更に一口齧って僕の顔を覗き込んで言った。心配もしてくれているのだと表情と声色で分かる。僕は二人と別れてからの脳裏に染み付いた光景を順を追って話した。涙を堪えるのに必死で相当嗚咽が混じってしまったし、しどろもどろになってしまったけれど、ゲンさんは何度か頷くだけで一言も挟まなかった。僕が話終わるとゲンさんはうーんと唸り
「相性か……怖え思いさせちまって悪かった。許してくれとは言えねえが、この通りだ」
 そう言って頭を下げた。僕は謝る必要はない頭を上げてと言ったけれど、頑として頭を上げなかった。そのひと悶着があった後暫くして、セツさんが病室を訪ねて来た。また似たような流れがあり、簡潔に僕の話を説明してもらって今後についての話し合いが始まった。
「これから継はどうしたいですか?」
「どう、って、どういう事ですか?」
「つまり、母親の仕事やそれとは別にやっていた事を知った訳です。アルピニストとしての燈(あかり)。万屋天昇のお手伝いとしての燈……その両方を知った今、あなたの旅の目的は達成された。そう言っても過言ではありません」
 セツさんの言う事は尤もだ。
「それに……あなたを傷つけてしまった。あの家にいる者達がまた悪さをしないとも限らないしあなたを守り切れるか分からない。それが怖いのです。恐らくあなたはこれから幾つもの怪異に出会うでしょうし、それを止める事は出来ない……無視し続けていれば少しずつ薄まるでしょうが、ここにいれば存在が濃くなるばかりです。ベスに貼っていた護符が剥がれたのもそのせいでしょう。ベスだけならまだしも」
 他の名前を口にしようとして言い淀んだが、そこを敢えて掘り下げる必要はない。肝心なのは
「…………よ、要するに僕は……ここにいない方が良いって事、ですか」
「まあ平たく言えばそうなります」
「でも、他に行くとこ無いです。折角ここまで来たのに」
「東京のお家があるでしょう」
「帰りたくないです。だ、だって最初ここにいてもいいって言ってくれたじゃないですか。そのつもりだったのに」
「状況が変わったのです。安全が保障出来ない場所に何の自衛能力も持たない子供を置いておけるのですか? どれだけ平凡で退屈で寂しい場所であろうとも、あなたが一歩踏み出してここに来れたように、東京でも一歩踏み出しさえすれば意義ある場所に変えられるんですよ。あなたにはその力がある。しかし今あの屋敷においてあなたを守れる程の力が私には無いですし、未来を奪う可能性すらある……私は……私は私の孫をむざむざ死なせたくない……また家族を失いたくないのです」
 僕からしたら親を、セツさんからしたら子を亡くしその悲しみは共有出来るはずで、だからこそ家族というワードを出した。どれだけ多くの理由を並べ立てたとして、この説得を聞いて誰が断る事が出来るだろう。
 でもそれはあくまで普通の家族の話であって、妖怪だのに関わっている家族がいれば話が変わって来る。虚実織り交ぜて本質からずらす手法は、僕だって使う手法なんだから。殆ど確信に近いものを持ち尋ねる。
「母さんは……本当はどうやって死んだんですか?」
「……燈は滑落したの、雨が降っていて、足を滑らせて」
 僕の目を見据えて言うが僕には分かる。これは嘘をついている目だ。有無を言わさず嘘を真実にしようとしている目。
「何故嘘をつくんですか。ゲンさん言ってましたよね、山は人を喰うって。畏れを無くしたら山に喰われるんだって。母さんは物や人を大事にしてたはずなのに、どうして山に喰われるんですか? それに母さんはアルピニストだけじゃなくて、今日僕を襲ってきた化け物なんかを退治する仕事をしてたっていうのに……そんなのどうやって信じろっていうんですか! 母さんは山で滑落して死んだんじゃなくて化け物に殺されたんじゃないんですか!? 」
 叫びは洞窟の様に反響こそしなかったが、病室の静寂を取り戻すには十分過ぎた。裏でセツさんが人払いをしていたおかげで看護師が尋ねて来る事も無く、エアコンの駆動音と点滴の滴る音が時を緩やかに刻んでいく。二人は目を合わせるでもなく難しい顔で何かを思案しているが、その沈黙こそが答えであるのと同義だった。しかし結果だけで過程を知らなければ、全てを知らないの同じだ。
 僕は叫んだ拍子に痛んだ傷を押さえながら、二人の挙動を待った。
「継」
 先に口を開いたのはセツさんだった。
「話をする前に二つ約束してくれますか。今から語る話を聞いたら東京に戻ると。そしてもう二度とこの島根の地を踏まないと……約束してくれますか」
「……」
「聞けば納得してくれるはずです。それが私の出来る精一杯の譲歩です。本当ならあなたが寝ている間に警察に連絡しても良かったし、あなたの父親である篤司あつしに連絡しても良かった……でもそうしなかった。もしかすると私は……秘密を抱えたままにしたくなかったのかもしれない。あなたに伝える機会を心の底では望んでいたのかもしれない。継、お願いです。私のわがままを聞いて、東京に戻ると約束してください」
 窓から見える橙と黒の景色のその先に、より深く黒に染まる山々が樹木を微かに揺らしていた。幾羽かの烏が寝床にしているであろうその山に向け、羽を動かしている。
 僕が何も知らないだけで、実はあの烏でさえも化け物の一員なのか。
 いや……知った所で僕に何が出来る訳でもなし、何かしたい訳でもない。きっと死の真相を知りさえすれば僕も諦めが付くだろう。
 そしていつもの生活に戻る。それでいい。
「分かりました……約束します」
「ありがとう」
 言うとセツさんは窓の外に目を移して一つ息を吐き出すと、遠い過去に起きた母の死について語り始めた。


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