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1999年を思い描いたナイチンゲール 『問いかけのサブノート 1999年、私たちの宗教はどうなっているのか?』翻訳
このテキストは、以下の同人誌の4章目となります。公開当初は翻訳と補足のみでしたが、同人誌公開に際して、ナイチンゲールをより理解するための導入部を追加しました。
【導入:ナイチンゲールをより理解するために】
この章では、実務家であるナイチンゲールの多面性を伝えるため、彼女が1873年に雑誌に寄稿した文章、『問いかけのサブノート 1999年、私たちの宗教はどうなっているのだろうか?』(A Sub-note of Interrogation — what will our religion be in 1999 ?)の翻訳を掲載します。
とはいえ、いきなり前情報なしでこの寄稿を読んでも分かりづらいと思います。そこで導入として、彼女がこのようなテキストを書いた背景について、クリミア戦争後のナイチンゲールの活動から照らし出したいと思います。
最初にお断りしておくと、ナイチンゲールの思想についての私の理解はまだ浅く、眼を通せていない資料も膨大にあります。今回、自分が翻訳して紹介するこのテキストについても理解できていない箇所がいくつもあります。
ここまでの1-3章で書いてきた「解説・考察」とは性質が異なり、この4章は私の独自解釈が強い面もあるかもしれません。
それでも、この文章の冒頭があまりにも鮮烈で印象深かったため、本同人誌に掲載することにしました。これまでの「解説」よりも、「私自身が理解を深めるためのテキスト」としてお読みいただければと思います。
先入観なく読みたい方は、そのまま翻訳文章へお進みください。
■死んでいった兵士たちの無念を晴らすための活動へ
ナイチンゲールは、多くの生死にかかわるクリミア戦争に参加し、「ビジネス」(実務)能力の欠如がより多くの死を招くことを体感しました。このようなビジネス能力を重視する見解は、淑女病院勤務時代の報告書や手紙にはあまり見られないものでした。
クリミア戦争後のナイチンゲールに起こった大きな変化は、「看護訓練の現場」から離れたことです。クリミア戦争で大きく体調を崩した影響もあり、残りの寿命を意識した彼女が優先したのは、より多くの命を救うための行動でした。
それは、クリミア戦争で膨大な兵士たちの死を招いた「陸軍医療制度」の改革でした。
戦争から帰国した後、ナイチンゲールはヴィクトリア女王との会談の機会を得ると、その場で陸軍医療制度改革を進めるための調査・提言を行う王立委員会発足を訴えました。
女王はナイチンゲールの説得を受け、行政手続きとして王立委員会を発足させる権限を有する陸軍大臣パンミュア卿とナイチンゲールが会談できる場を設けました。
この会談を通じてナイチンゲールはパンミュア卿との交渉に成功し、王立委員会の立ち上げの約束を得ました。パンミュア卿からは委員候補の選任と、クリミア戦争で生じた問題と改善案についての報告書作成の依頼がありました。
本来、ナイチンゲールはクリミア戦争後に、英国陸軍のために何もする必要はありませんでした。彼女はただの民間人であり、さらにいえばこの時代の女性は議員になることも公務員になることもできませんでした。王立委員会を創設しても、彼女は委員にもなれません。しかし、ナイチンゲールは数千人の兵士たちの死に責任を感じ、政府を変えるために、そして陸軍行政を変えるための行動を始めました。
■「看護訓練」から「命を救う実務家」への転身
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