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【同人誌】なぜナイチンゲールはクリミア戦争で活躍できたのか? 原点としての淑女病院総監職について

※この同人誌は2024年12月冬コミ向けの新刊です。
※メンバーシップ向けの全文公開は、12/22から章ごとに順次着手します。
※「まえがき」全文は、無料公開しています。
※頒布開始は2024年12月コミケ、委託はメロンブックス、電子PDFはBOOTHで行っています。

目次

まえがき
参考文献
第1章 「ナイチンゲール」の始まり 淑女病院総監の業務について
第2章 なぜナイチンゲールはクリミア戦争で活躍できたのか? 「病院総監」職を支えた家政マネジメント経験
第3章 「ビジネス」を好む実務家ナイチンゲール
第4章 未来を思い描いたナイチンゲール翻訳:1999年、私たちの宗教はどうなっているのだろうか?
あとがき

まえがき

■この本について

 本書は「近代看護教育の母」として知られる偉人フロレンス・ナイチンゲール(1820-1910)について、彼女が最初に就業した「淑女病院」での仕事にフォーカスした論考を載せています。私がこの時代に注目するのは、この淑女病院での病院総監での経験が、クリミア戦争、そして後の様々な著作へ繋がる「始まり」と考えるためです。

 私たち現代人が接するナイチンゲールについての情報は、基本的に「偉人」としてのものとなるでしょう。しかし、彼女は最初から「偉人」だったわけではありません。それでは、どの段階で「偉人」と評価される業績をあげていたのでしょうか? 『看護覚え書』や『病院覚え書』などに記載されている衛生知識や死亡率についての考え方を、ナイチンゲールは最初から身につけていたわけではありません。彼女は観察や経験、学習を通じて知見を広げ、本を書く基盤となる知識・情報を身につけていきました。

 愛称「フロー」として家族・親族などに知られたフロレンス・ナイチンゲールが、国民的英雄となり、「いかにして『偉人ナイチンゲール』になったのか」?

 時系列で彼女の足取りを追いかけながら、そのプロセスを理解したいと思います。

■著者について

 この本を書いている久我真樹は、2000年からヴィクトリア朝(1837-1901)を中心に英国のメイドや執事、その主人たる貴族、そして彼らが住む屋敷「カントリーハウス」を趣味で研究しています。

 そんな私がナイチンゲール研究を始めたきっかけは、藤田和日郎先生の漫画『黒博物館 ゴーストアンドレディ』にあります。ナイチンゲールと劇場に取り憑いた幽霊グレイを主人公とした同作を含む『黒博物館』シリーズのガイド本『藤田和日郎 黒博物館 館報 ヴィクトリア朝・闇のアーカイヴ』(講談社)を、私は2023年に出版しました。

 この時、人生で初めてナイチンゲールの全生涯を扱った伝記と様々な研究書を読みました。

 そこで知ったのは、『黒博物館 ゴーストアンドレディ』が史実に基づいて描かれていること、登場人物のほとんどが実在すること、そしてナイチンゲールという人間の面白さでした。この「面白さ」にのめり込み、本を出版した後にナイチンゲールに関する本や資料の読書を続けて研究を広げました。

 そして「好きを共有する」ことが同人活動であると思い、自分の「メイド研究」と結びつける要素を見つけられたので、今回の同人誌を作っています。

■合理的で解決能力があるナイチンゲールの面白さ

 私が好きになったナイチンゲールは、行動的で非常に合理的で問題解決能力も高く、現代的に言えば「仕事ができる人」でした。

 ナイチンゲールは、ロシアとトルコ・英国・フランスの間に生じたクリミア戦争に1854年から1856年まで従軍し、女性の従軍看護師団を率いました。しかし、その活動は看護だけにとどまらず、崩壊していた病院運営にも関与しました。

 戦地クリミアから離れたトルコの地スクタリにあった大きな病院に配属されたナイチンゲールは、そこで陸軍軍医組織が数十年ぶりの巨大な戦争に機能していない状況を目の当たりにしました。
 現場では医療物資や食量が不足し、患者は満足な手当も受けられず、十分な衣服さえ身につけていませんでした。病室は清掃も行き届かず、寝具もきちんと洗濯されず、病棟の洗面所なども汚物で溢れかえっていました。

 そうした不潔で非衛生的な環境の中、満足な食事も与えられない兵士たちの環境を、ナイチンゲールは構造的に変えようと行動しました。
 彼女は看護を行う前に病人用の食事の提供、清潔な寝具や衣類の提供のための洗濯場と人員の確保、清掃道具の調達と清掃、そして身の回りの品々を満足に持たずに収容させた兵士たちのためにシャツや食器などを手配しました。

 このような病院運営の正常化に向けてナイチンゲールが動けたのは、陸軍戦時大臣(当時は陸軍大臣と陸軍戦時大臣がおり、予算周りを担う方が戦時大臣=長官)シドニー・ハーバートによって派遣され、かつ彼とは友人であるという後ろ盾がありました。軍医たちは必ずしも従いませんでしたが、ナイチンゲールは特別な存在でした。

 さらにナイチンゲールは、最も不足した物資を自力で調達する資金を持ちました。彼女自身が富裕層の生まれであることに加えて、対ロシアの機運を作り出す一翼を担った新聞『タイムズ』へ読者が寄付した支援金「タイムズ基金」の支援を受けられたからです。

 こうした現場の様々な課題を、自分の管轄が意図せずに主体的に解決していった能力に加えて、ナイチンゲールが卓越していたのは「改善提案」と「文書に残す」報告能力でした。

 ナイチンゲールが戦時大臣ハーバートに送った「手紙=ビジネス文書」には、現地の病院運営の課題と改善提案が含まれていました。

 私はこの手紙を読んで、「課題を列挙し、その解決のための提案を行うのはすごい」と素直に思いました。

 同時に、その手紙の書き方にも驚きました。19世紀の人であるナイチンゲールは、文書を構造的に書き、わかりやすく連番の見出しをつけるなど工夫をしているのです。

 以下に、そうした手紙の一つを引用します。非常に細かい点も含みますが、当時の陸軍兵士たちが置かれた状況を知るのに役立ちます。手紙の宛先は本国にいるハーバートです。

1855年1月8日付 
 もはやお世辞を言ったり、ただ赤面して事をうやむやに済ます場合ではないと思います。この嘆かわしい実情について逐一ご承知になりたければ、昇進などということと無縁な者からお聞きになるほかないでしょう……。
 ここ一ヶ月の間に、私が提供した物資、物品についておよその見積もりをしておきます。いずれも軍医さん方の要請によるものでした。

 12月17日以来、私たちは3,400人の病人を受け入れました。こうした新来の患者のためにどれだけのことをしたか、私自身の担当の病棟を除いてはまだはっきりしていません。

1. 結論として言えるのは、ベッド、パン、肉、水、燃料以外のものの支給はまったくないということです。

 肉は調理場の大きな銅鍋でいっしょくたに煮込むだけで、ちょうりというほどのことはされていませんし、私の補助的な台所以外では湯を沸かすこともできないのです。私の日程表をごらんになれば、私がどういう品々を自分で調達したか、お分かりになると思います。

 私は当地の三番目の病院である宮殿病院のための調達を続行することを拒否したところです。あの病院からの要請は、最初の頃から数えますと、シャツ類を含めて1,200品目以上にも上りました。現在こちらにストックのない物品をお目にかけ、かつ最近私に対してなされた要請のコピーをお送りします。

2. アルマを前にして、全軍が装備を残して下船するように命ぜられたというのは驚くべきことですが、このことはいまのところ、まったく見落とされています。実際、私は目下英国軍の服装係を引き受けていると言ってもいいくらいです。バラクラーヴァ(前線の補給港)でふたたび乗船して当地の病院に送られた傷病兵は、ほとんど半裸に近い状態でした。

 ですからここから退院するとき、彼らはシャツにおよばず病院で着ていたものや、ナイフ、フォークの類まで持っていってしまいます。無理もない話なのですが。回復期にあるとしてアビドスに送られた兵士たちにしても、病院で着ていたものをそっくりそのまま着ていきました。そうしなければ裸で出ていくほかないのですから。

 そんなわけで、患者の病衣はいまでは一着もストックがなくなってしまったので、代用品として椅子端部ルールからトルコ人の着る寝巻きを取り寄せたほどです。弊社病院のために何かを調達するのは篩(ふるい)に水を注ぐようなものです。軍のために本国から衣服が送られてきて裸同様の兵士に着せ、装備を再交付しない限り、この状態は続くでしょう。

 私は最近、軍服のズボンと装備一切の支給を要請しました。いまのところはまだ、軍靴が送られてきたという話は聞いていませんが、兵士たちは裸足に近い状態で入院します。

 歴史上例のないほどひどい戦争ですから、調達官も気の毒といえば気の毒です。思いもしなかった要求をあちこちから突きつけられるのですから。でも役人としての四角四面の良心を捨てるくらいなら何百人もの人命が失われるのを見る方がまだましだと言わんばかりの官僚に対しては、私はなんら同情を感じません。

3. 医薬品と軍需品が同じ船に乗せられることがあると、医薬品までバラクラーヴァに行ってしまい、それっきり行方不明になって、少なくとも差し当たっては入手できないということがよくあります。

4. 現在の病院の(看護・雑用を行う)雑役兵制度はどうしようもありません。フランス軍はこの目的のために、雑役兵に特別な訓練を施しています。フランス軍の場合は、いったん雑役兵となった者はあくまでも雑役兵なのです。こういう制度をいまからつくるわけにもいきません。しかし負傷した雑役兵のうちの有能な者が全快した時にクリミアの戦線に送り返されないなら、そして連隊長が十人を看護兵として(若年者ばかり選ぶのでなく、しっかりした性格のものを選んで欲しいものです)

(『ナイティンゲール その生涯と思想1』pp.299-300)

 ここまでが手紙の前半です。課題としては「物資の不足・調理の品質の低さ」と「兵員が着る衣服の不足(入院用と軍服など)」と、それを引き起こしている「お役所仕事で物資を適切に手配・管理できない調達官の人員・能力不足、」「医薬品が送られても届かない手配の不備」、そして「病院で雑用を行う男性の雑用兵の能力不足」を指摘しています。

 これに対して、手紙の後半では解決案を、同じく連番で情報を区切りながら列挙します。この手紙も長いので、ここでは簡潔に書きます。
 以下の見出しの連番はナイチンゲールの記載に準じます。

1. 有能な調達官たちの派遣。
2. 関係者をリードするリーダーシップを持つ主任調達官の派遣。
3. もっと多くの軍医。
4. 主任調達官を補佐する人員を1名から3名に増員すること。
5. 病院付き下士官に「退役軍人や働き盛りの有能な人材を選任すること」、そのために「給与を引き上げること」。指揮系統も軍医への直属にする。雑役兵を統率させる。
6.  雑役兵の給与、食事の質を向上させること。

 この文書の結びが、ナイチンゲールらしいものです。

 私は集中化の原則にもとづいて、ここの諸病院の組織的再編に関する試案を書き上げました。この計画が実施されれば、各部門が調和を保ちつつ円滑に機能すると思います。

 ただし戦争の参加が絶頂に達している現況では、こうした大幅な改革は不可能と思われますので、この案を提出することは一応差し控えることにしました。

 代案として、現在の運営の形を全面的に崩すことなしにその範囲内で内側から改善を行いうるような試案の概要を書いてみます。

(『ナイティンゲール その生涯と思想1』pp.299-300)

 この1月8日付の手紙の後、28日付でもより詳細な改善案の試案をナイチンゲールは送付しました。
 重要な点は、これらの問題をナイチンゲールが報告する能力と問題を解決する手段の提示ができ、実際に対応したことです。
 ここに挙げたのは一例に過ぎません。看護に限らず、様々な領域でナイチンゲールは問題解決に取り組みました。
 「患者の手当てをする看護をしていたのでは?」と思っていた私の思い込みは崩れ去りました。当時のナイチンゲールにとって「看護」は最も優先度が低い業務となりました。彼女は彼女にしかできない、「看護のための環境構築」にエネルギーを注いだのです。

■ナイチンゲールの病院経営スキル

 クリミア戦争でのナイチンゲールの活動を見ていると、私は「看護教育の母」としての業績を中心にナイチンゲールの活動を理解することは難しいと考えました。この時期のナイチンゲールの活動範囲は「看護の枠」を大きく超えたもので、「看護」を離れた方が理解しやすいからです。

 クリミア戦争で発揮されたのはナイチンゲールの「病院経営スキル」でした。そしてそのスキルに求められる多くの経験を、ナイチンゲールはクリミア戦争の直前に「病院総監」として就業した「淑女病院」で積み重ねていました。

 この同人誌ではまず、クリミア戦争におけるナイチンゲールの活躍を理解する「源流」として、「淑女病院の病院総監職」の業務を解説します。

 私は家事使用人の業務を研究する立場から「業務を整理し、分類する」経験を積んできています。様々にある使用人の職種が、実際にはどのような業務を行なっていたのかを、研究書や当時の業務マニュアル本、そして実際に働いた使用人の自伝から抽出し、分類してきました。本業での経験としても、会社の業務プロセスを改善するためのITシステム導入なども行ってきました。

 これらの点から、私は「業務」に強い関心があります。

 ナイチンゲールの経験したこと、そしてその有能さを、業務という形で理解できるように整理する。それが第1章で行うことです。

■最初の就業でなぜ病院経営をできたのか? 家政マネジメントの影響の考察

 クリミア戦争で役立った淑女病院での病院総監の仕事は、ナイチンゲールにとって初めての就業でした。なぜ業務経験を持たないナイチンゲールが、いきなり最初の仕事で「病院経営」を行えたのでしょうか?
 そこで私が考えた理由が、19世紀の中流階級以上の女性たちに望まれた「家政マネジメント」の経験です。当時の富裕層の屋敷は非常に大きく、十名以上の家事使用人を必要とする場合もありました。屋敷に住む雇用主の女性(女主人)たちは、家事のために自ら手を動かさず、使用人に適切な指示を与え、マネジメントし、家政を運用させました。

 ナイチンゲールには、この「家政マネジメント経験があったのではないか」と私は仮説を持ちました。

 クリミア戦争時のナイチンゲールが責任を持った業務となる「清掃」、「寝具・衣類の洗濯」、「スタッフのマネジメント」、「採用・解雇の人事」、「様々な物資の管理と帳簿記載、そして「配布と調達」の仕事は、女主人の代行者として家政を統括した使用人職「ハウスキーパー」の業務そのものなのです。

 そこから、これまでの家事使用人研究と今のナイチンゲール研究を組み合わせました。

 第2章ではこの仮説を論証するため、第1章で列挙した病院総監の業務と家事使用人としてのハウスキーパー職の重なりを示します。その上で、ナイチンゲールが実家で「家政マネジメント」を経験していたかも踏まえ、「家政をマネジメント」経験が「病院経営業務」に活用できたかどうかを検討します。

 あわせて、クリミア戦争でナイチンゲールと行動を共にした「中流階級の女性たち」にもフォーカスして、その仕事ぶりを見ていきます。

■実務家としてのナイチンゲール

 続く第3章では、ここまで論じてきたナイチンゲールの「実務家」としての側面について、彼女が残した実務的な手紙を取り上げることで紹介します。
 上流階級に生まれたナイチンゲールは、実務に程遠いという印象が私にはありましたが、実際の彼女は合理的で慎重で、実務的な人物でした。
 そうした彼女を象徴するのが、手紙の中で使われたキーワード「ビジネス」(実務)です。ナイチンゲールは相手が「ビジネス的かどうか」について一定の基準を持ち、そうではない対象に対しては批判的でした。
 その批判の矛先は、合理的ではない陸軍にも向かいました。

■「命を救う実務家」としてのナイチンゲールの根幹

 最後の第4章では、第1-3章で明確にしてきた「実務家ナイチンゲール」とはまったく異なる側面に光を当てます。

 ナイチンゲールは17歳の時に「神の声」を聞くなど、信仰深い人物でもあり、宗教に関する論考を記してもいます。ただ、彼女の信仰は「神の奇跡を信じる」「神秘主義的な神がかり」といった概念とは程遠く、徹底した合理性を備えていました。

 そんな彼女がどのように「神」と「世界」を捉えていたのかを知る資料として、1873年に彼女が雑誌『フレイザーズマガジン』に寄稿したコラムを全文翻訳します。

 このコラムの翻訳の前段階として、ナイチンゲールをどのように捉えるのかを再確認する論考を行います。

 ナイチンゲールが世に出ていくきっかけは看護に始まり、その生涯も看護教育への貢献で終わっています。しかしその人生の長い間、彼女は「命をより広い範囲で救うための活動」に費やしました。

 「看護」視点だけではその本質を捉えきれないナイチンゲールについて、どのような言葉がふさわしいのか? そんなナイチンゲールを理解するための試みを行います。

 補助線として、クリミア戦争後のナイチンゲールについても触れます。彼女は支援者たちが集めた「看護訓練学校創設のための巨額の基金」があったにもかかわらず、すぐに学校を創設しませんでした。

 ナイチンゲールが優先したのは、クリミア戦争で地獄と言える状況を作り上げた陸軍軍医制度を改革する王立委員会発足と、そのシステムの問題点と改善提案をまとめた報告書の作成でした。この活動の本質について、理解を深めたく思います。

■本書で扱わないこと

 本書のタイトルは「なぜナイチンゲールはクリミア戦争で活躍できたのか?」としました。ところが、これまでに述べてきたことを深掘りしすぎたことから、「クリミア戦争でのナイチンゲールの業務範囲」を解説するに至りませんでした。

 このため、その発表は次の機会とします(上下巻的な形に)。

■ナイチンゲール年表

 本書内で言及するナイチンゲールを知る上で参考になる簡単な年表を載せておきます。1820年に生まれ、1910年に亡くなるのでその生涯は90年と非常に長いものですが、私の主な関心はクリミア戦争に前後する時代のナイチンゲールとなります。

1820年 フロレンス・ナイチンゲールが生まれる。
1837年 神の声を聞く。しかし、何をすべきかは示されず。
1845年 看護の道を志し、病院勤務希望を家族に伝えるも強い反対。
1850年 ドイツ・カイゼルスヴェルトで2週間の看護研修。
1851年 ドイツ・カイゼルスヴェルトで3ヶ月の看護訓練。
1853年 パリで看護研修。「淑女病院」の病院総監職に着任。
1854年 クリミア戦争へ従軍(10月)、現地到着(11月)。
1855年 従軍継続。セヴァストポリ要塞が9月に陥落。軍医長官ホールとの対立激化。
1856年 帰国。女王に謁見し、陸軍医療制度改革の王立委員会創設を提案。
1857年 王立委員会発足。その準備、報告書作成。
1858年 『病院覚え書』初版出版。
1859年 『看護覚え書』初版出版。
1860年 ナイチンゲール看護師訓練学校を設立。

 この同人誌の存在意義を端的に言えば、「フロー」だったフロレンス・ナイチンゲールが「歴史的偉人ナイチンゲール」になっていく姿を追いかけることにあります。

 寄り道も多いですが、この「旅」にお付き合いいただければ幸いです。

参考文献

■ナイチンゲールの主要伝記

 ナイチンゲール研究では必ず参照される最も信頼性が高い伝記は、エドワード・ティアス・クック卿の『ナイティンゲール その生涯と思想』(中村妙子・訳、時空出版、1993年。原書は1913年刊)です。

 もう一冊、信頼される資料がセシル・ウーダム=スミスの1950年刊行『フロレンス・ナイチンゲールの生涯』(武山満智子/小南 吉彦・訳、現代社、1981年)です。この本はクック卿がアクセスできなかった、ナイチンゲールの姉パースの配偶者ハリー・ヴァーニー卿の屋敷クレイドンに保管された文書を用いており、内容に一定の差があります。

 クック版は「公式」的な伝記で綺麗な話に終始するのに対し、ウーダム=スミス版は家族との確執を克明に描いており、同じ伝記かと思うぐらいに内容の差があります。ただ、ウーダム=スミスもクック版をベースとして参照しています。

 日本で出版されているほとんどの伝記はこれらの本に依拠しており、「新事実」を読みたい場合は、それ以外の資料に目を通す必要があります。

■淑女病院の業務報告書

 ナイチンゲールの病院経営業務を把握するための主要資料として、彼女が淑女病院の運営委員会(女性委員からなる貴婦人委員会)へ提出した四半期ごとの業務報告書を用います。1853年8月12日に淑女病院へ着任して1854年8月まで勤務した間、彼女は4回の報告書をまとめました。報告書の記載日付は以下のとおりです。

・1回目:1853年11月14日
・2回目:1854年2月20日
・3回目:1854年5月15日
・4回目:1854年8月7日

 4回目の8月の報告が最後の報告となり、その2ヶ月後の10月にナイチンゲールはクリミア戦争へ従軍することとなります。

 ナイチンゲールが作成したこれらの報告書は前述の「屋敷クレイドン」に保管された文書であり、クック版にはなく、ウーダム=スミス版に詳細な記載があるものです。

 この報告書は1970年に出版され、日本語でも『看護小論集』(現代社、2003年)に全ての四半期報告書が掲載されています。本章ではこちらを参照します。

■『ナイチンゲール全集』(『Collected Works of Florence Nightingale』)

 ナイチンゲールの最新研究資料として、リン・マクドナルド編纂の『Collected Works of Florence Nightingale』(『ナイチンゲール全集』。日本語版はありません)を用います。

 この全集は、約150点のナイチンゲールによる印刷文献と、1万点を超える本人の手紙・手稿などを集めた手稿文献を、マクドナルドが20年をかけて集めたものです。

 これら文献は世界200箇所以上の図書館・文書館に分散しており、それらの調査を通じてマクドナルドが集めたもので、全16巻・約1.6万ページに及びます。

 クック版、ウーダム=スミス版の伝記では言及がない資料を膨大に含み、その注釈も最新研究にも届くものであり、現在のナイチンゲール研究では必須の資料となるものです。

 この資料のうち本書では4冊を用います。

 淑女病院勤務については12巻「The Nightingale School」を参照し、当時の手紙を中心に掲載します。特にこの全集の「淑女病院」についての詳細な情報は、現在日本で刊行されている本には詳細な記載がないため、初めて目にする方も多いかと思います。

 クリミア戦争時の記述は14巻「The Crimean War」から、戦後については15巻「Florence nightingale on wars and the war office」から、宗教考察は3巻「Florence Nightingale’s Theology: Essays, Letters and Journal Notes」を参照します。

■上述以外の主要資料(書名アルファベット、五十音順)

『Angels and citizens : British women as military nurses, 1854-1914』Anne Summers、Routledge & Kegan Paul、1944年-
『Beyond Nightingale: Nursing on the Crimean War Battlefields』Carol Helmstadter、Manchester University Press、2019年
『Florence Nightingale: Letters from the Crimea 1854-1856』Sue M. Goldie編集、Manchester University Press、1997年
『Florence Nightingale: The Woman and Her Legend』』Mark Bostridge、Penguin、2020年
『Florence Nightingale and the Medical Men: Working Together for Health Care Reform』Lynn McDonald、McGill-Queen's University Press、2022年
『Nightingale’s Nuns and the Crimean War』Terry Tastard、Bloomsbury Academic、2022年
『英国の病院と医療: 二百年のあゆみ』B・エイベル・スミス、多田羅浩三/大和田建太郎・訳、保健同人社、1981年
『実像のナイチンゲール』リン・マクドナルド、現代社、2015年
『真理の探究: 抜粋と注解』フロレンス・ナイチンゲール、マイケル D.カラブリア・編、竹内喜/菱沼裕子・訳、小林章夫・監訳、うぶすな書院、2005年
『ダーウィンの時代 科学と宗教』松永俊男、名古屋大学出版会、1996年
『統計学者としてのナイチンゲール』多尾清子、医学書院、1991年
『よみがえる天才9 ナイチンゲール』金井一薫、筑摩書房、2023年

■家事使用人・家政マニュアル

『An Encyclopedia of Domestic Economy』Thomas Webster、Mrs. William Parkes、Longman, Brown, Green, and Longmans、1844年
『英国メイドの世界』久我真樹、講談社、2010年
『英国メイドの暮らし VOL.1』久我真樹、同人誌、2021年
『英国メイドの暮らし VOL.2』久我真樹、同人誌、2022年

■noteで公開中の論考 

 今回、私はナイチンゲールの同人誌を初めて作ります。ただ、2022年からナイチンゲールについての解説・考察はnoteで公開しており、無料で読むことができます。

 今回はその中から、主に以下の2つのコラムが強い関連性を持ちますので、併せてお読みいただければと思います。

第1章 「ナイチンゲール」の始まり 淑女病院総監の業務について

第2章 なぜナイチンゲールはクリミア戦争で活躍できたのか? 「病院総監」職を支えた家政マネジメント経験

第3章 「ビジネス」を好む実務家ナイチンゲール

第4章 未来を思い描いたナイチンゲール翻訳:1999年、私たちの宗教はどうなっているのだろうか?

あとがき


正誤表

・同人誌(紙)印刷後に発見した修正事項となります。申し訳ありません。
・2024/12/28確認時点。

第1章

p.44
誤:分前夫妻
正:ブンゼン夫妻

p.47
誤:このb法院の価値を
正:この病院の価値を

p.,53
誤:1年=12ヶ月で計算:月25シリング x 12ヶ月= 300シリング=15ポンド。
正:1年=12ヶ月で計算:月25シリング x 12ヶ月= 300シリング=15ポンド。
→「を」が余分。

第2章

p.78
誤:■ナイチンゲールが尊敬したマザー・クレア
正:■ナイチンゲールが尊敬したマザー・ムーア

第3章

p.91
誤:使用人は、自分たちが委員会の使用人であることを入社時に認識する。
正:使用人は、自分たちが委員会の使用人であることを就業時に認識する。
→言い回しの修正。

p.99 
誤:ナイチンゲールは様々な著作を残しています。そのうちの多くは実体験に裏打ちされたものであり、特にクリミア戦争での経験は様
正:ナイチンゲールは様々な著作を残しています。そのうちの多くは実体験に裏打ちされたものであり、特にクリミア戦争での経験は様々な項目に反映されました。
→文章の欠落の追加。

4章

p.107
誤:時計のような機会には、考案(contrivance)とデザインが必要である。
正:時計のような機械には、考案(contrivance)とデザインが必要である。

p.110
誤:しかし、1999 年以前、あるいは 1899 年以前であっても、偉大な革命が起こった可能性を示す兆候はまったくありません。
正:しかし、1999 年以前、あるいは 1899 年以前であっても、偉大な革命が起こった可能性を示す兆候はまったくない。
→「まったくない」(ナイチンゲール本文は「です・ます」調を用いない)

p.125
誤:宗教は、多くの迷信を批判によって取り除き、宗教の活力、真実、美しさを阻害する無数の寄生虫を退治し、歴史的または伝統的なゴミ、あるいはむしろ歴史的でないもの、誤訳、追記、その他諸々を取り除き、宗教から多くの醜い腫瘍を取り除きました。
正:宗教は、多くの迷信を批判によって取り除き、宗教の活力、真実、美しさを阻害する無数の寄生虫を退治し、歴史的または伝統的なゴミ、あるいはむしろ歴史的でないもの、誤訳、追記、その他諸々を取り除き、宗教から多くの醜い腫瘍を取り除いた。
→「取り除いた」(同じ上)


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久我真樹
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