劇団四季『ゴースト&レディ』舞台登場の人物・モデルの紹介
はじめに
劇団四季『ゴースト&レディ』の配信を見ていた時、従軍記者ジョン・ハワード・ラッセルの写真と、ジョン・ホールの肖像画をタイムラインに投下したところ、意外と反応がありました。ホールの方には「実在の人物とは」という反応もいただきました。
そこで登場人物の紹介(写真・肖像画があれば掲載)をしてみます。順番はメインキャストを先に、あとは順不同です。
基本、原作は実在の人物だけでほとんど構成されており、舞台もわずかな例外を除き、実在人物を軸としています。
一部の人物については、以前に書いたテキストを再掲載しています。
フロレンス・ナイチンゲール(1820-1910)
有名すぎるので、写真だけで。史実では斧を持ったり、金槌を持ったりして倉庫を襲撃しない(倉庫襲撃の風説が流布されたのは史実)。
藤田先生が最も参考にされた伝記は、セシル・ウーダム=スミス版だと考えられる。最も信頼されてどの伝記からも参照されるクック版は、公式すぎて綺麗なエピソードが多く、家族間のドロドロした関係性が巧みに除去されている。
ウーダム=スミス版は、クックが用いることができなかった資料も用いており、クック版の次に信頼される伝記で、読み物としても面白くなっている。上下巻あるものの、上巻を読めば、クリミア戦争までの人生は十分。今は古本で価格高騰しているかもなので、図書館で借りればよいかと。
ロンドンにナイチンゲール博物館があるので、その訪問記はこちらに。
グレイ(グレイマン、灰色の男)
王立ドルーリー・レーン劇場にいた幽霊。19世紀に劇場の改修工事を行なった際に、隠された場所から若者の白骨死体が見つかったという話があり、それがグレイの元になった人物と考えられている。この若者はアン女王(在位:1702〜1707年)の時代の人で、遺体の刺し傷と残された匕首から、女優の元愛人に殺されたのだろうと推測された。
現在、この劇場ではバックステージツアーを行なっており、グレイの話が結構聞ける。ただ、グレイについては「一冊本が書ける」レベルの情報がなく(数ページ)、藤田和日郎先生がここまでキャラクターとしての存在感を広げたのはすごいことだと。
以下、訪問した時の記録。
余談ながら、王立ドルーリー・レーン劇場には他にも幽霊たちがいる。漫画の巻末参考文献記載の中では、この本が詳しい。
ジョン・ホール(1795-1866)
実在の人物。クリミア戦争時、英国陸軍の軍医を統括する軍医長官(Primary Medical Officer)を務めていた。漫画や劇で描かれていることはだいたいあっている。
上流階級・富裕な人間ではないので大学は出ておらず、ロンドンのガイズ病院とセント・トーマス病院で医学を学び、医学博士号を取得するのは1845年にセント・アンドリュース大学に在学してとなる。この辺もエリートではない外科医としての道筋があらわれている。
簡単に経歴を。
ロンドンのガイズ病院とセント・トーマス病院で医学を学ぶ。
1815年(20歳頃)、ナポレオン戦争に従軍。軍歴はここから。
主要な任地(それ以外の年は英国内)
ジャマイカ(1818-1827、1829-1832)
アイルランド(1835-1836)
スペインとジブラルタル(1836?-1839)
西インド諸島(1841-1844)
ルーシー・キャンベルと結婚。
アイルランド(1844)
南アフリカ(1847-1851)
インド(1851-54)
クリミア(1854-1856)
1856年にK.C.B.(バス勲章、ナイト称号)を受勲。
1857年1月に退役
脳卒中で半身不随となり、余生はヨーロッパで過ごす。
1866年1月イタリア・ピサで逝去
以下、いろいろとクリミア戦争とその後に逸話がある。
外科手術時の麻酔はNGとする。気つけ的な意味があると。
後の政府の委員会では、医師たちがホールに抱く「絶対的恐怖心」が印象的だったとの証言も出る。医師の昇進にも強い影響を及ぼし、強い支配力を及ぼした。
多くの死者を出し、衛生委員会が来るまで死者を出し続けたスクタリ兵舎病院を「運用前に」視察した際、何も問題ないと言及。
その後、病院物資の不足についても「問題ない」として、そのために部下の軍医たちも物資要求をできない(これは本国のアンドリュー・スミス軍医総監も共犯と言える)
負傷兵をクリミアからスクタリまで運ぶ船「エイボン号」で、船に乗せられた兵士が長く放置される不祥事が発覚。その責任者だった軍医ローソンともとも、陸軍総司令官ラグラン卿の叱責を受けるも、ローソンを温存し、フロー病院の病院長に任じる。
衛生委員会の派遣を知ると、その直前に「保健委員会」と言う形ばかりの委員会を立ち上げ、自分たちは活動をしていたと主張。
フローと人事権をめぐる対立があり、話を通さずにことを進めること幾度。フローの下を出て行った看護師を受け入れ、対立を助長。
部下のフィッツジェラルドに、フローを誹謗する「極秘報告書」を作成させ、関係者に送付して評判を下げようと画策する。なお、「極秘報告書」だけれどもフローも読んでいた。
原作でも舞台でも最終決戦としてフローをクリミアに呼ぶ。呼ぶこと自体は、史実では輸送部隊からの要請だったが、受け入れに際しては補給を行わないなど嫌がらせを行う。
現地の病院を見ていたアイルランドの修道女(ブリッジマン尼僧長が統率)の一団が帰国すると、フローに病院引き継ぎを依頼。しかし引き継ぎに時間を要させたり、前任者と比べて状況がひどいと嘘の報告もする。
戦後、衛生委員会のサザーランド博士と、パンフレットを用いたバトル。衛生委員会の活躍が喧伝されると大したことがない、自分たちがやっていたなどと主張したパンフレットを出版。これにサザーランド博士も反論するパンフレットを出版し、応戦。
まだあるもののいろいろと長いので、そのうち独立した1ページにする予定。
フローとの人事の揉めごとは以下にまとめている。
なお、伝記を確認する限りではフローとクリミア戦争時に一度も会っていないと思われる。戦後も直接は一度も会っていない可能性が高い。
ホールとフローの間の直接対決の記録としては、人事をめぐって交わした手紙がいくつか残っている。この「手紙」というのは現代でいうところの「ビジネスメール」で、当時の仕事や命令は「手紙」を通じて行われていた。
追記:本当にやばいジョン・ホール
上記のエピソードの書き漏れがあったので、いくつか。
本国での勤務中、ある陸軍基地で将校が兵士を鞭打ちで負傷させ、死に至らしめる事件発生(鞭打ち自体は当時は珍しいわけではない)。この兵士の治療と検死をホールが担当するも、死亡診断書には鞭打ちによる致死ではないと記載。
フローがクリミアで5月に倒れた後、主治医を派遣。しかしホールとその主治医がフローをスクタリに送り返すために手配した船が、実は英国への直行便と直前に判明。フローの仲間たちが急遽、別の船を手配して難を逃れる。
一番邪悪なこと:軍医官僚としての無能で数千人以上は殺している
病院運営の不備
フローが利用することになったスクタリの兵舎病院が不適当な環境だったにもかかわらず、病院としての利用を意思決定。過密になる前に一度訪問している時は「問題ない」と報告。洗面所の不備の報告もあったが、対応した記録がない。
これが病院での死に関して、最も致命的な判断(放置)。
補給物資調達・配布の不備
壊血病が蔓延しているときに、治療薬となるライムジュースの提供を適切に調達・配布できず。
現状認識が遅く、1855年1月の危機的状況でも「壊血病の症状が何人かに現れたが、今のところ、この病気は兵士の間であまり進行していない」として、兵士を危機的状況に追いやる。本国の軍医総監からは1854年11月に送ったと連絡があったが、到着を確かめず。
ライムジュース20,000ポンドが1854年12月10日に軍隊に到着。貯蔵されている事実は、1855年1月24日にラグラン卿自身が初めて発見し、1月29日に配給の一部とする一般命令が出される。
同様に、劇的に寒いクリミアの冬に備えて毛布も1854年11月に送付されており、補給港バラクラヴァに到着していた。しかし、この毛布にも配慮せず、在庫を放置。バラクラヴァ近くの駐屯地で兵士たちは寒さに凍える事態となる。
死亡率を現実より低い数字で、ラグラン総司令官に報告
フローが戦後に検証した際、ホールが報告していた死亡率は「死亡者 * 病院の滞在者」。この計算では集計都度に「滞在者」が計算されるので、4週期間で見ると、母数の「病院の滞在者」が4回計算されて、母数が膨れ上がり死亡率が劇的に低く出る。
デオン・ド・ボーモン(1728-1810)
こちらも有名人。本名は長い「シャルル=ジュヌヴィエーヴ=ルイ・オーギュスト・アンドレ・ティモテ・デオン・ド・ボーモン」。当時の著名人で、肖像画も色々と残っている。
史実のデオンは若い頃から女性に見える外見をしていた。剣士としての腕を磨きながらも法学を修めて弁護士として活動し、当時の状況を経済・政治・歴史の観点で考察した論文が評判となり、上流階級のサロンで歓迎された。当初は歴史・文学の王室検閲官に任命され、文官となる。
1755年には女装してヴェルサイユ宮殿の舞踏会に参加し、同年からフランス国王ルイ十五世のために秘密工作員を束ねたとされるコンティ侯爵の配下となり、断絶していたロシアとの秘密外交使節に加わってロシア皇后エリザヴェータに近づいた。フランスに有利になる外交のための影響力を行使したとされ、後日、女性として皇后に近づいたとも語っている。
帰国後は王室竜騎兵隊の一隊長となり、再び外交の舞台に立つ際には、英国との和平交渉を行うニヴェルネ公爵の秘書としてロンドンに派遣され、1763年に締結されるパリ条約に関する英国の機密文書を入手し、外交交渉に貢献し、批准書を持ち帰る役目を果たした。
この一連の功績でデオンは聖ルイ勲章を叙勲され、「シュヴァリエ・デオン」(騎士デオン)と呼ばれるようになる。
パリ条約はフランスにとって海外植民地を放棄する屈辱的な内容だったたため、ルイ十五世は英国内での秘密工作員による情報収集を行わせ、デオンも英国駐在大使、全権大使となりながら、スパイ活動を手助けした。デオンは贅沢な暮らしをして、英国でも上流階級の人々と交流しました。華奢で美しい容姿はロンドンでも評判になる。
後任の全権大使ゲルシーが着任した際にも全権大使の称号を使うことを主張し、帰国を拒否してゲルシーとの間にトラブルが生じた。デオンは保持する秘密文書の返還交渉を行い、国王に秘密年金を要望するに至ります。さらにゲルシーを批判するために、彼や高官の貴族たちとの書簡を含めた暴露文書を出版する。
しかし、この出版が名誉毀損としてトラブルを生み、名誉毀損裁判で有罪となると、女装して身を隠した。
デオンを暗殺しようとする事件もあったものの、本国の支援者によって再び国王から有用性が認められ、英国の政治情勢を伝える役割を与えられる。この時、デオンは自分が女性であると主張したという。
紆余曲折ありながらも後を継いだルイ十六世との間に機密文書を巡る交渉が成立し、再び年金と過去の行いの免責を得たものの、自身の申告に基づき、女性の服装をするように要求された。フランスに戻り、ヴェルサイユ宮殿に出るとき、マリー・アントワネットの衣装を製作したベルタンが彼のドレスを作ったとも。公の場での軍服着用は拒否され、勝手に着用したために投獄もされた。
派手な暮らしをしたデオンは常に借金をしており、フランスからの年金も何度も打ち切られ、英国の債務者監獄に収容されることもあった。
英国に再び渡ってからは金を得る手段として女装した姿でフェンシングの公開試合を行い、賞金を得たが、重傷を負ってからはひっそりと生き、貧困の中で亡くなる。晩年を共に過ごして看取った友人のメアリー・コールは、デオンが死んだ時に、初めて男性だと知ったという。
日本ではこの本が最も詳しい資料本かと。
男装・女装を同時にしたイラストも。
ウィリアム・ハワード・ラッセル(1820-1907)
『タイムズ』の特派員として戦地に赴き、同紙で最初のフルタイムの戦場特派員となる。戦争報道の歴史で最初に挙げられるほど、ラッセルは革命的影響を与えた代表的な存在にもなった。
戦場での出来事が大きな時間差をあけずに本国に伝えられるようになり、兵士たちが置かれた苦境を伝えた報道内容は、強く国民・世論に影響を与え、時の内閣たちも無視し得なかった。
英国軍が直面した軍制度の機能不全を報じたラッセルは、その後も戦地の悲惨な兵士の状況を伝え続け、首脳部を攻撃した。
そして医療環境の悲惨さと看護師を必要とする報道(この報道はラッセルではなく、『タイムズ』特派員トマス・チーナリ)によって、『タイムズ』基金の立ち上げによる義援金の募集、フローが率いる看護師団の派遣、同時期の調査団派遣とその報告に基づく衛生・補給環境の改善、さらにはクリミア戦争後の軍政改革への道を開くものとなった。
絶え間ない戦争報道は、戦争を主導する内閣の能力への疑念を抱かせ、1855年にはアバディーン首相の辞任にも至っている。この一連の政争で、シドニー・ハーバートも戦時担当大臣を辞任している。
ラッセルは叩き上げの人物として知られ、記者として将校や兵士たちへと近づき、彼らの生の声を伝えたとされる。取材手法の根幹はアイルランドでの選挙報道にあるとの指摘もある。ラッセルは選挙での衝突と負傷事件を踏まえ、各陣営関係者が地元の病院に来るとして張り付き、そこでインタビューを行うことで人気を得た。
一方、クリミア戦争で軍の兵たちの配置などを報道した際には『タイムズ』へ報道規制の働きかけがあった。軍首脳部からすれば、自らの不都合な状況を伝える報道を行うとして、取材妨害もなされた。この時の総司令官サー・ウィリアム・コドリントンは、軍部検閲制度の導入を進めた。
従軍記者としてのラッセルはクリミア戦争だけではなく、インドでのセポイの反乱、アメリカの南北戦争、オーストリア・プロシア戦争、フランス・プロシア戦争ほか、多くの戦争報道に従事した。
こうした活動を通じて各国から多くの勲章を得て、後には英国からもナイトの称号を授かる。『陸海軍新聞』を創刊したり、後に国王エドワード七世となる皇太子の友人・私設秘書にもなったりと王室に近い立場となった。
ラッセルはこの本が詳しいかと。
ジョン・サザランド(1808-1891)
衛生委員会の一人として着任した医師。衛生委員会はサザランド、ローリンソンの他にもう一名のへクター・ギャビンの三名で主要メンバーだった。病院の衛生改革についてはサザランドと同行した構成員たちが主導して早々に結果を出し、短期間で前線へ赴いている。
あまり原作でも舞台でも目立たないが、クリミア戦争で出会ったフローの衛生改革の取り組みをその生涯を通じて支えた、最重要のパートナーのひとりとなる(もうひとりが統計学者ウィリアム・ファー)。
サザランドは医師として経歴を始めたが、衛生局の検査官として公衆衛生に従事した。コレラの調査や、死者の埋葬に関する調査団を率いるなどに従事し、埋葬に関する法律の施行にも携わった。国際衛生会議の代表にも選出され、その貢献でフランスから勲章を得ていた。
首相パーマストンがクリミアへ衛生委員会を派遣する際にサザランドの名前を挙げるなど、その能力が知られた人物だった。クリミア戦争ではフローと交流を深めつつ、調査結果の報告をヴィクトリア女王に行った。
フローとの交流が生涯にわたって続き、主治医にもなった。クリミア戦争後はフローの最も近くにいる仲間として、軍改革を行う王立委員会に所属し、様々な課題に関する提言・報告書をフローと一緒に作成し、陸軍兵舎・病院の改善を実現した。長く軍の衛生改善に従事し、軍医学校の改善にも寄与した。
フローから見るとうっかりしている点があり、時にフローはかんしゃくを起こしてサザランドを非難するところもあったが、夫妻でフローと交流があり、長い時間を共同した。私室にこもってフローが活動できたのも、その多くはサザランドがいたからだった。
ダンカン・メンジーズ(1803-1875)
彼も実在の人物。スクタリ病院の初期の責任者で、フローにとって最初から衝突した軍医の現場責任者となる。
『タイムズ』が伝えた病院での物資不足を聞いたスタッフォード下院議員は、何が必要かの問い合わせを行った。この時に返事を書いたメンジーズは「すべてが十分な供給を受けて、何も必要はない」と答えた。民間の力を借りることは軍医たちの面子を潰すことに加え、不足があっても言い出せなかったのは、その環境を作り上げたホールの顔を潰すことにもなったからとされる
ミュージカルの歌「助けはいらない」の中で、「ここではなんの問題もない すべてがとても順調だ」というフレーズは、この史実を反映している。
補足しておくと、現場の軍医たちが援助を拒む要因になったジョン・ホールの報告は、1854年10月20日にアンドリュー・スミス軍医総監に送られたものに明確に記されている。
フローはスクタリの病院では、メンジーズから掃除の許可を得ることから始める。そこから洗濯の品質が低い問題を解決するため、家を借りて洗濯用ボイラーを設置する段になると、彼の許可を得て工兵の力を借りた。12月に負傷者があふれ返って医療崩壊が発生すると、メンジーズはやむなく看護師団の協力を受け入れる許可を出した。
後任となった病院長カミング(漫画には出てくるが、舞台には出てこない)との間で、どこまで責任を負うべきかが不明確で適切に動けなかった。
デヴィッド・フィッツジェラルド(不明)
フィッツも実在の人物。
クリミア戦争の英国陸軍主任調達官で、フローに強い抵抗を示した軍医側の人間で、直接的に女性看護師のシステムとフローの行動を批判する文書を陸軍省に極秘で送付していた。
フローと対立する立場にあった看護師デイビスや、アイルランドのローマ・カトリックのシスター、ブリッジマン尼僧長を評価する姿勢を示し、支援していた。
これは、フローへの対抗意識だけではなく、フィッツジェラルドがアイルランド出身のローマ・カトリックで、同じ出身・宗派だったことも関係していると思われる。
なお、彼が極秘に陸軍省へ報告したフローに対する批判文章は、フローの手に渡っており、フローはそれを読んで憤慨している。こうした情報が外部に流出し当人の手に渡るのも、フローが陸軍内部に強いコネクションを有していたことを示すものとなる。
シドニー・ハーバード(1810-1861)
ローマ滞在中に知り合い、病院看護に携わりたいとしたフローを応援する友人となった。シドニーは妻と共に慈善活動に従事し、自らの地所に教会を建て、貧しい人々のための保養所と病院の設立を進めているところだった。
シドニーは伯爵家の生まれのエリートで、後に初代男爵の爵位を授かる。若い頃から政治家として経歴を重ねていた。クリミア戦争時には戦時大臣として、フローをリーダーとする女性看護師団の派遣を主導し、軍の苦境を救うと同時に、フローが叶えたい「看護師学校創設」という夢を理解し、応援していた。
大臣としての責任は、兵員の衣食住や医療体制にもあり、その指示も出してもいたが、補給物資の確保は大蔵省の管轄にあり、予算を出し渋るために動きが悪かった。また、現地の兵站部トップに「予算をいくらでも使って良いということを、理解させることができなかった」とも述べていた。
シドニーは、クリミア戦争中の政変(ローバック委員会)で戦時大臣を辞した後も内閣に影響力を行使し、フローの相談相手として支援を続けた。
フローがクリミアにいる間に、英国でフローが戦後に看護学校を開けるようにする基金を立ち上げる委員会を発足させ、その名誉書記となった。創立集会でシドニーはブレースブリッジ夫妻の貢献を伝えると共に、フローの献身を語る兵士の手紙を読み上げ、多くの人々に強い印象を与えた。その基金創立の知らせは前線に伝わり、兵士・軍医たちからも多くの募金が集まった。
二人の協力関係はクリミア戦争後が本番となり、戦争で問題になった軍の兵士たちが衛生・医療環境を改善するため、シドニーは前方を、フローは後方を担当し、多くの障害を取り除いて改善に向かって動き続けた。
やがてシドニーは陸軍大臣となり、これからというところで早逝する。彼の死をナイチンゲールは嘆き、作中にあるように少なからず自責の念を持っていたとされるが、煮え切らないシドニーの態度を巡ってフローが彼を評価していなかったとの話もある。
フローによる過大な仕事への圧力が彼を殺したとする説もあるが、腎臓疾患(食生活が起因か)が死因となっている。
エリザベス・ハーバート(1822-1911)
フローの友人となった女性。幼い頃からシドニー・ハーバートと知り合いで、24歳で彼と結婚する。政治に関心があり、夫の秘書を務めてもいた。
信仰心にも篤く、貧しい環境で道徳的に危険な状態になり得る人々への支援にも関心が強かった。そうした背景から、同じように活動する友人フローを積極的に応援した。友人が理事長を務める病院経営のポストを推薦したり、戦争時も文通相手として物的・精神的支援を行ったりした。
フローと働くシドニーを、時にはフロー以上に励ましていた。
若い頃は英国国教会のマニング大司教の影響を受けていたが(フローもエリザベスを介してマニングの知人となる)、マニングがローマ・カトリックに改宗すると動揺した。夫の死から数年後、エリザベスはローマ・カトリックに改宗して、周囲との関係を断つことになった(マニングの改宗を含めた当時の宗教事情はこちらの解説を)。
【非実在】アレックス・モートン
モデルは、フローにプロポーズしたリチャード・モンクトン・ミルンズと、衛生委員会の委員となり、建築の専門家として加わったロバート・ローリンソンと思われる。
リチャード・モンクトン・ミルンズ(1809-1885)
ミルンズは政治家・作家。後に男爵となる。若き日からナイチンゲール一家と交流があり、フローにプロポーズした。断られた後も友人であり続ける。
フローが宗教的思索を書いた原稿を彼に預け、感想を求めるといった交流もあった。彼も慈善活動や社会改善に関わり、若年犯罪者を成人と別の鑑別所に送るようにするなど、その更生を支援した。ナイチンゲール基金の設立会合では、フローを讃える演説を行った。
ロバート・ローリンソン(1810-1898)
衛生委員として派遣された主要人物のひとり。土木技師として経歴を始め、公衆衛生検査官に任命されるなど、ローリンソンまた公衆衛生の専門家として活躍していた。その実績から、クリミアに派遣された衛生委員会のメンバーとなる。
クリミア戦争でのフローとの縁が生まれたことで、戦後のフローによる様々な改革の中でも軍の衛生環境や世の中の病院設計などの改善に協力した。
土木技師としての活躍が大きく、地方自治体の主任技術検査官となってからは上下水道整備や道路開発などの都市開発計画の提案と実現、建築士や測量士向けのガイドラインの作成など、大きな影響を及ぼした。
衛生委員会でローリンソンを派遣したパーマストンとの縁も続き、1863年には南北戦争の影響で、綿花供給が止まったランカシャー州の失業問題への救済活動に派遣され、公共工事による失業対策などを提案した。また、河川の工業汚染を防ぐ王立委員会の委員長職や、ダブリンでの英国衛生学会大会の会長、土木学会の会長を担っていった。
【非実在】エイミー
エリザベス・ハーバートの姪。原作には不在で、伝記にも出てこない架空のキャラクター。
調べてみると、エリザベスには兄Charles Henry Wyndham A'Courtがおり、息子と娘がそれぞれ2人いた。ただ彼が結婚したのは1854年=クリミア戦争従軍の年なので、エイミーとは合致しない。
なお、彼の息子は第一次大戦の『タイムズ』従軍記者として有名になったと記載があるので、その辺ではいろいろと受け継がれている。
ボブ(ロバート・ロビンソン)
原作では『タイムズ』記者ラッセルが、兵士が置かれた窮状を報じた時に出会った少年。作中、フローの看護によって回復へ向かった。鼓手として従軍した。彼はグレイやデオンの姿を見ることができた。
史実のロバートは軽装歩兵隊に所属した12歳の少年(1842〜43年生まれと思われる)、鼓手だった。負傷入院し、回復した後は、原作にも舞台にも登場しないナイチンゲールの同行者チャールズ・ブレースブリッジのメッセンジャーとして活動し、クリミアにも同行した。夜間はフローに同行し、ランプを持ったともいう。
フローに身を捧げるため軍務と楽器を捨てたと語るほど慕い、フローも彼との思い出を文章を残した(未確認)。
※訂正2024/11/18 上記12歳・「フローに身を捧げるため軍務と楽器を捨てたと語るほど慕い」は「トマス」という少年で、彼もクリミアに随行しました(クック版1巻p.342 原作ではこのトマスとボブをミックス)。混同していました。
英国のナショナル・ポートレート・ギャラリーでは後述するボブが載っている絵画について「Robert Robinson (active 1857), Drummer; page to Florence Nightingale」と、鼓手と記載しています。
帰国後はフローの支援で大学で農業を学び、その後、貴族の領地管理人となった。交流は続き、ナイチンゲールは姉の夫となったヴァーニー卿に就職の斡旋を頼んでいる手紙もある(1879年)。その後の手紙(1885年)には、農場を手に入れたと記してある。
1888年には、ボブのためにナイチンゲールがサインした小切手もあるとのこと。これは英国公文書館に保管。
ナイチンゲールの遺言では、175ポンド遺贈されることになっているなど、その関わりは生涯続いた。
マザー・ムーア(1814-1874)
メアリー・クレア・ムーア(本名はジョージナ・ムーア)。アイルランドに生まれ、カトリックの修道院「慈悲の姉妹童貞会」がロンドンに拠点として設けたバーモンジー修道院の初代院長となる。
クリミア戦争時のナイチンゲールを理想化して描いた絵画では、ナイチンゲールの左側にいる修道女の姿として描かれている。
当時の英国は英国国教会や非国教会プロテスタントが中心であり、1829年のカトリック解放令によって、ようやく表立った宗教活動ができるようになったばかりだった(詳細は以下)。
クリミア戦争の際、彼女はナイチンゲールよりも早く出立してフランスにて準備を進めていたが、様々な政治的理由でこの地で合流をすべく待った(パリでの待機中に病院見学を行い、手術器具も入手したという)。
ナイチンゲールが現地で最も信頼した人物の一人で、帰国後には真っ先に先に帰国した彼女の修道院へ立ち寄っている。クリミア戦争の後も長く交流は続いた。
彼女がクリミアを去る時、ナイチンゲールは次の手紙を書いている。
なお、クック版の伝記でも、ナイチンゲールが自らの成功の多くは「バーモンジーの修道院長に多くを負うており、クリミアにおける実験は彼女の助力がなかったら失敗に終わったろうと記している」(『ナイティンゲール その生涯と思想1』p.337)と紹介されている。
クリミア戦争後の手紙では本を借りっぱなしになっていることを詫び得ている。こうした本の中にはカトリックの聖人のものも含まれており、クック版ではキリスト教神秘主義の章で、マザー・ムーアから借りた本をナイチンゲールが喜んで読んでいたと記している(『ナイティンゲール その生涯と思想3』p.140)。
【非実在】シャーロット・シドンズ
グレイが幽霊になる前に愛した、ドルーリー・レーン王立劇場の看板女優。シェイクスピアの劇を演じていた。劇場に通い詰めたグレイが、偶然、彼女にぶつかったことを縁に酒の飲み比べをして、そこから深く付き合うようになった。
サラ・シドンズ(1755-1831)
モデルは、18世紀に活躍した悲劇女優のサラ・シドンズと思われる。シドンズは当時の悲劇女優として最も賞賛され、その後も、英国の演劇史上最高の女優とも評価されている。地方巡業の演劇で活躍し、そこから貴族のサロンに舞台を変えた。
記録に残る最初の役は1766年に演じたシェイクスピア『テンペスト』の空気の妖精アリエルで、所属した劇団にいたウィリアム・シドンズと出会い、後に結婚する。
彼女が中央へ赴くのは、彼女の演技を見たブルース男爵とその連れ後ヘンリエッタとの出会いがきっかけで、ロンドンのドルーリー・レーンの劇団で起用される運びとなる。
ロンドンの舞台では『ヴェニスの商人』のポーシャ(富豪の娘)を演じたが、劇場の大きさが合わなかったことや、出産後だったことで力を発揮できず、不向きな喜劇でも苦しみ、この劇団を離れている。
再びロンドン各地の劇場を舞台とする中で、悲劇役者としての才能が発揮され、強い支持を得て、再びロンドンに返り咲き、シェイクスピアの様々な劇を演じ、1782年にはドルーリー・レーン王立劇場に凱旋した。最高に評価された演技は、『マクベス』のマクベス夫人だったという。
なお、フロレンス・ナイチンゲールの著作『真理の探究』では、このサラ・シドンズを知っており、「素晴らしい才能」として、歴史的な天才たちと並べて言及している。
家族
ウィリアム・エドワード・ナイチンゲール(1794-1874)
フローの父で、鉱山を持つ叔父から財産を相続し、上流階級として「労働しない」生活をしていた。フローは父が何事も成していないと批判し、工場長か何かをやっていればとも書き残しているが、フローに数学を含めた高い教育を施し、多くの人々との交流の機会を作り、妻よりも早くフローの自立を認めた点では、「フローを世に送り出した」ことが最大の功績とされる。
フローの慈善活動や病院看護を嫌い、否定する発言をしていたが、フローの活動に対して同情をするようになり、独立のための生活費を渡す年金分与を妻に断りなく進めた。ただ、社交中心の生活で浪費を積み重ねるフランシスやフローを追い込むパースとの関わりを早期に諦めており、フローも父と母が理解しあっていないことを見抜いていた。
フランシス・ナイチンゲール(1789-1890)
フローの母で、フローが看護師の道へ進むのを妨げた最大の要因となる。当時の上流階級の親としてその価値観と行動は普通のことで、むしろそこから外れようとしたフローが特異だったと言えるが、フローへの干渉が異常とも言えるほど強く、執着した。
フローが貧しい人々の暮らしに関心を持ち、その救済へ進もうとしたきっかけは、母フランシスが自身の住むカントリーハウスの近辺の村人たちのために行った慈善活動にあり、本来的には優しい面もあったが、娘たちの結婚を願い、多くの名士たちと関わる社交界での成功が価値観の中心にあり、自分の思ったことを邪魔されると感情を損ね、頑固で無分別になった。
鷹揚に振る舞う反面、浪費癖もあったともいう。
フランシス・パルセノープ・ナイチンゲール(1819-1890)
フローの姉で、パースと呼ばれた。若い頃から妹と同じ教育を受けながらも、分かり合えなかった。
社交界に生きようとしない異質な価値観を持つフローを理解できない一方で、多くの立派な人々に高く評価される才能に満ち溢れたフローに対して崇拝の念を抱き、身近に置こうと執着した。
両親に甘やかされた点もあり、フローが自立しようとすると精神的均衡を欠き、病に陥ることを繰り返し、その世話のためにフローを束縛した。
ウーダム=スミス版の伝記では、フローが家を出る覚悟を決める決定機が記されている。
この後、様々な悶着がある中、父ウィリアムが姉妹が一緒にいることが問題を悪化させることを受け入れ、妻と姉の反対を押し切り、妹なるフローが家の外に出て自立するだけの年金を与えることを決定した。
この後、姉妹の関係は以前ほどではなくなった。
パースはクリミア戦争中にはフローの英国での窓口として活動し、フローを支援したいとする多くの人々や負傷兵の家族への対応や寄付品の収集など、熱心なサポートを行なった。
ただ戦後は母ともどもフローが行いたいことへの無理解は続き、それでも近くにいる行動をした結果、今度はフローが深刻なストレスを抱え、近くにいることが不健康を招くとして遠ざけられた。
その後、パースがハリー・ヴァーニー准男爵と結婚したことで母も満足したとされ、本人も結婚後は文筆の才能を発揮した。ヴァーニーは政治家として、クリミア戦争後のフローを助ける一人となる。
家族との対立はこちらにまとめています。
ここに書いたようなことはある程度まで伝記に書いてあるので(ウーダム=スミス版の方)、ご興味がある方は是非。
そして、未読の方は是非原作を。原作を読み終えた方は、以下のテキストなどを。
このテキストが、舞台観劇や配信視聴の参考になれば幸いです。