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ナイチンゲールがクリミア戦争で【劇的に】死亡率を下げたという誤認と、衛生委員会派遣への寄与について
ナイチンゲール研究の第一人者による戦時中「死亡率改善」をめぐる誤認の指摘
はじめに
私はナイチンゲールの研究をしており、その中で以前、ナイチンゲールが「英軍倉庫を襲撃し、薬箱を斧で壊した」という逸話が流通して、それが虚構にもかかわらず史実として広まっていることが気になり、調査をしました。
このような「実際にナイチンゲールがしていないことを、していたとされてしまう」ことについて私が気にかけているのは、研究者リン・マクドナルドの影響によるものです。マクドナルドは、ナイチンゲールが長い生涯の中で残した約15,000通という膨大な手紙や本人手稿など(全集1巻で言及)を、全16巻の『ナイチンゲール全集』として編纂しました。
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マクドナルドは「ナイチンゲールの本当の姿を伝えること」に際して、膨大な資料に基づく様々な著作をしており、日本ではその著作の一つが『実像のナイチンゲール』として出版されています。
ナイチンゲールは誤った情報・研究による攻撃を受ける点もあり、様々な論説への批判や世の中で流布する「誤認」に対して、マクドナルドは「全集」という「ナイチンゲール本人が言ったこと」に基づき、反論する武器とする環境を作り上げました。
そして本人は、今もThe Nightingale Societyで、研究所やメディアで生じる事実誤認に対して、指摘を行い続けています。
ナイチンゲール研究者リン・マクドナルドによる「ナイチンゲールがしたこと、しなかったこと」の指摘
マクドナルドは著書『Florence Nightingale and the Medical Men: Working Together for Health Care Reform』で、今回題材とする「クリミア戦争の病院での劇的な死亡率低下」について、ナイチンゲールの支持者・非支持者の主張に様々な誤認や数字の誇張があると、詳細なテキストを書いていますので、引用します。
ナイチンゲールがしたこと、しなかったこと
問題を複雑にしているのは、ナイチンゲールが戦時中の英国人の死者を減らしたことで、常に不当な評価を受けてきたことである。というのも、ナイチンゲールはそのような主張をしたことはなく、衛生委員会と補給委員会の功績を認めていたからである。さらに、献身的な看護、栄養状態の改善、清潔な寝具と衣服が望ましいとして「達成できたこと」を誇張することは、本当に重要な事柄を見逃している。
下水道や排水溝の大規模な再設計、水道から死んだ馬を除去すること、排水溝から荷車に積まれた糞便を除去すること、これらすべてに専門の技術者と十分に監督された労働力が関与していなければ、どのような標準的な患者ケアも死亡率を大幅に削減できなかった。
改善の原因を間違って決めつけることは、科学的に間違っているだけでなく、将来の誤った政策につながりかねない。
戦争中の回想録の中には、ナイチンゲールの仕事の効果を誇張するものもある。スクタリでパン屋を経営していたアメリカ人宣教師の回想録によれば、次のようになる。
「ミス・ナイチンゲールはすぐにその病院を変えた。当初から、彼女は部隊を夜警に分け、看護師や看護助手が一晩中、廊下や病棟を歩いていた。夜はもはや孤独ではなかった。あらゆる望みが満たされ、あらゆる痛みが、可能であれば和らげられた。死亡率がすぐに変わったのは、間違いなく、同情と女性の優しい心遣いの道徳的効果によるものだろう。私は、おそらく酒に酔った外科医による残忍な治療の例をいくつか見たことがあったが、ミス・ナイチンゲールが来てからはそのようなことはなかった」
多くある誤りのひとつとして、「児童書」についての誤りも指摘します。
ナイチンゲールの友人であるサミュエル・グリッドリー・ハウとジュリア・ウォード・ハウの娘によって書かれた児童書は、60%という誤った死亡率を用い、「数ヶ月のうちに」1%に減少させたのはナイチンゲール「と彼女の献身的な一団」の功績としている。
「兵士たちの傷はしばしば手当てさえされず、死ぬために運ばれてきた。しかし、フローレンス・ナイチンゲールは懸命に働いたので、病院はやがて清潔になり、兵士たちは死なずに元気になった」
さらに「アメリカの代表的看護史」にも及ぶとの指摘もあります。
15版まで出版されたアメリカの代表的な看護史には、ナイチンゲールは看護の功績を認めてはいないものの、衛生面の改善とともに、死亡率の減少に「看護ケア」が貢献したとの主張が加えられている。
「彼女は2ヵ月で、病院を効率的に管理された施設に変えた。6ヵ月後には死亡率を2%に下げ、ほとんどの外科医の尊敬を勝ち得た。彼女の衛生改善と患者への優れた看護の提供のおかげで、ナイチンゲール女史は1855年2月には1000人当たり427人だった死亡率を、1855年6月には222人まで減少させた。彼女は科学的な方法でデータを収集し、統計学者として熟練し、事実の証拠を最も生々しい方法で提示した」
数字の不一致に注意。2パーセントは1,000人につき22.2人となる。また、2%まで減少するのに要した時間はもっと長かった。
他にも支持者による数字の誇張について、マクドナルドは取り上げますが、数が多いので、詳細は原文をお読みください。
日本における死亡率激減をナイチンゲールの功績とする誤認
さて、このマクドナルドのテキストを覚えていた私は、「倉庫襲撃・斧で薬箱破壊」の逸話(not 史実)と同様に、この「ナイチンゲールが病院を衛生的にすることで、【劇的に】死亡率を下げた」についての誤認が、日本でもあることを、あるRTされたTwitter投稿を見て気づきました。
この誤認はかなり普及しているようで、簡単に見つけることができます。
たとえば、Googleで「ナイチンゲール 死亡率」で検索をすると、表示される検索結果1位のURLのPDFから抽出されて表示されるテキストでは、ナイチンゲールの功績としています。
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この検索結果の一番上に出てくるテキストは、関西医療大学のPDFからその内容を抽出したものです。
その後、彼女は野戦病院 おける悲惨な衛生環境の改善を訴え、献身的に改革を進め、 死亡率を僅か半年で40%から2%まで激減させました。2016/07/12
検索結果2位には国の統計局の記載情報が出てきますが、こちらも同様の誤りをしています。
ナイチンゲールは、イギリス政府によって看護師団のリーダーとしてクリミア戦争(ロシアとトルコの間の戦争で、イギリスはフランスとともにトルコに味方してロシアと戦った)に派遣されると野戦病院で骨身を削って看護活動に励み、病院内の衛生状況を改善することで傷病兵の死亡率を劇的に引き下げました。
それに続く3-4位も同様の誤認をしています。Google検索は「正しい結果」を上位に表示していません。
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また、「斧」の事例のようにTwitterもまた情報が拡散される場所でもあり、一定の広がりを示したRT数が多い投稿を探したところ、以下の投稿で1,128RT、8,494いいねもありました。
それまでの看護師は「どうせ汚れるのだから」と、汚れた服を替えようとしなかった。しかしナイチンゲールは服だけでなく患者のシーツも、汚れたらすぐ清潔なシーツに取り換え、「どうせなら患者に衛生的な環境を」と努力を続けた。その結果、死亡率が劇的に下がった。
午後11:02 · 2022年2月18日
日本のネット上の「ナイチンゲール」のイメージに「狂的要素」を強めたイメージを広めた、人気ソーシャルゲーム『Fate/Grand Order』(FGO)にもこの誤認を見ることができます(私はサービス開始から遊んでいます)。
同作品は歴史上の人物(英雄や偉人、神話や物語など伝承の人物)を召喚するのですが、ここにナイチンゲールが登場します。
下記は私のプレイ画面からのキャプチャですが、「プロフィール3」のエピソードとして、死亡率への言及があります。
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医療や看護への不理解から来る不衛生や多数の全時代的規則が横行し、地獄の様相と化した戦時医療の改革を努めるべく、彼女は奮起する。一時は「戦時医院での死亡率が跳ね上がった」ものの活動を続け、清潔な衛生と正しい看護を徹底し、惜しみなく私財をなげうって物資を揃え、成果を導いた。40%近かった死亡率を5%までに抑えてみせたのである。
「ナイチンゲールがクリミアで看護団を率いて、病院を衛生的な環境にして死亡率を劇的に下げた」という話が様々な経路で、日本(のネット空間)でも広まっていることがわかるでしょう。
「劇的に死亡率を下げたのは衛生委員会」と報告したのはナイチンゲール本人である
ここまで「ナイチンゲールが劇的に死亡率を下げたことは事実誤認」としてきましたが、その論拠を示します。
それは「劇的な死亡率の低下(「40%近かった死亡率を5%まで)」という数字を示して後世に伝えているのは、ナイチンゲール本人だからです。
クリミア戦争後、戦時中の医療体制不備と改善案をまとめた王立委員会報告書の中でナイチンゲールはこれらの病院での死亡率を列挙し、その上で「衛生委員会が劇的に死亡率を下げた」と主張しました。
本人が、「自分の功績」として主張していないのです。
以下は、ナイチンゲールが書いた王立委員会のための報告書からの抜粋です。ナイチンゲール自身がこの数字を列挙して、衛生委員会の貢献を述べています。
Q. 22.{10,003} 病院での死亡率の主な原因は何ですか。
衛生面の欠陥です。
(中略)
統計によると、死亡率は12月の17.9%から、1月は32.1%、2月は42.7%に上昇した。この増加の原因は、衛生状態の欠陥以外に何があろうか。
1.衛生上の欠陥は、1855年3月6日に到着したばかりの衛生委員会によって初めて克服された。
(中略)
クーラリでは、1855年2月、すべての病院の中で最悪で、その月に病院で治療された全症例の死亡率は52%だった! スクタリとクーラリでは、2月に治療した症例の死亡率はほぼ43%だった!
言い換えれば、もしクーラリの死亡率がこのまま続いていたら、2ヵ月で入院中の軍隊は一掃されていたであろうし、もしスクタリとクーラリの死亡率が2月のまま続いていたら、3ヵ月で入院中の兵員は全滅していたであろう。
治療した症例と死亡率を表で比較すると、患者の増加の2倍以上の割合で死亡率が上昇していることがわかる。つまり、患者の数が50%増えたとき、死亡率は以前の2倍になった。
この言葉を繰り返す。倍増したのは死亡者の絶対数ではない。患者数に占める死亡者の割合が15.5%から約32%になったのである。しかし、患者数が横ばいになった2月も、死亡率は3分の1ずつ上昇を続けた!
再び、治療数が4分の1減少すると、死亡率は15分の1程度にまで減少した。これは、衛生委員会によってスクタリの衛生状態が改善された後のことである。死亡率の減少の半分はこの改善によるものであり、残りの半分は過密状態の解消と入院患者の状態の改善によるものである。
(中略)
もし排水設備に何も手を打たなければ、患者が増えるたびに、次の患者のために排水設備はより悪い状態になる。
病棟の壁に何も手を加えなければ、患者の呼吸や呼気によって病棟は汚染され、次の患者のためにさらに多くの有機物が含まれることになる。
換気を何もしなければ、病院の雰囲気はますます致命的になる。
これがスクタリで起こったことである。
3週間という単位で見てみよう。
3月17日までの3週間で、クーラリとスクタリでは、治療例に対する死亡例の割合が31.5%に減少した。
4月7日までの3週間では、クーラリとスクタリで14.5%。
4月28日までの3週間では、全病院で10.7%。
5月19日までに5.2%。
6月30日までに2.2%となった。
各病院の病人数、つまり開始時と終了時の病人数の平均は、この間に3800人から1400人に、治療数は1600人から1200人に減少した。つまり、死亡率が31.5%から2.2%に低下した一方、治療期間は49日から24日に短縮した。
クリミア戦争当時のナイチンゲールは統計を駆使していない・衛生の重要性を戦後ほど強く認識していなかった
ナイチンゲールは病院看護活動を通じて、患者本人を清潔にするための努力を惜しまず、衣類やシーツの洗濯リソースの確保、不衛生な病室や病院内の清掃を行い続け、病院食などの物資も供給しました。
にもかかわらず、死亡率は【劇的に】下がりませんでした。むしろ、症状が劇的に悪い患者を大勢迎え入れるようになると、死亡率は上昇しました。
私たち現代人は「ナイチンゲールが衛生活動に従事し、病院建築・設計にも関与した」ことを知っています。統計を駆使して統計学者として名前が知られていることも。
しかしそれはあくまでも「クリミア戦争後」のことであり、「クリミア戦争中」のナイチンゲールは、戦後に主張したような段階に至っていません。それだけのデータに接する機会も役割も権限も、彼女にはなかったのです(戦争中、適切な死因の記録を取るべきとの提案をしており、検死の機会を軍医に作ろうともしましたので、視点や意欲はありました)。
私たち現代人はまた、「衛生的な環境にすれば、死亡率が下がる」という知識を備えています。それは病原菌の存在を知っているからです。そして、ナイチンゲールが病院看護を通じて、患者や病院を衛生的にしようと努めているのだから「死亡率は劇的に下がる」と思いがちです。
ところが、クリミア戦争の病院で起こった事実は違いました。一定の死亡を防いだのは確実ですが、本人申告にあるように、看護をしている最中(1855年2月)にも死亡率は上昇していったのです。
この言葉を繰り返す。倍増したのは死亡者の絶対数ではない。患者数に占める死亡者の割合が15.5%から約32%になったのである。しかし、患者数が横ばいになった2月も、死亡率は3分の1ずつ上昇を続けた!
最終的にクリミア戦争で「劇的に死亡率を下げる」改善をもたらした(とナイチンゲールが数字を添えて報告した)のは、病院の構造(上下水道・壁・天井・換気など)の改善を含めた衛生活動に従事した「衛生委員会の着任による活動」以降でした。
先ほどのマクドナルドの言葉を再掲します。
下水道や排水溝の大規模な再設計、水道から死んだ馬を除去すること、排水溝から荷車に積まれた糞便を除去すること、これらすべてに専門の技術者と十分に監督された労働力が関与していなければ、どのような標準的な患者ケアも死亡率を大幅に削減できなかった。
改善の原因を間違って決めつけることは、科学的に間違っているだけでなく、将来の誤った政策につながりかねない。
ナイチンゲールも当初は「衛生活動」が主要因と認識していなかった
ここには、因果の逆転があります。
ナイチンゲールがのちの時代に強く主張する「衛生環境改善」を実行に移す衛生委員会が派遣されて死亡率が激減した」ことから、「衛生委員会の派遣はナイチンゲールの功績である」と考えそうですが、実際はナイチンゲールは衛生委員会の活動結果を分析して、(のちの時代に強く)衛生環境改善を主張するようになったと見るべきでしょう。
なぜならば、当時の軍医たちだけではなくナイチンゲールも、当初は病院に送られてくる患者の質が、補給状況や気象環境、病院輸送システムなどの改善で死亡率が低下したと考えていたからです。
しかし、クリミア戦争後に報告書をまとめるために統計データを読み進める中で、ナイチンゲールは「衛生委員会の活動による衛生環境改善の効果」だと報告書に記載する判断を行い、そこを起点に、その後の長い人生で病院建築や、換気を通じた衛生活動を主張していくことになります。
その根拠のひとつとされるのが、報告書の執筆途中までナイチンゲールは「死亡率が劇的に下がったのは、補給状況が改善して、兵士たちが健康になっていったから」だと考えていたとする手紙が見つかっていることです(以下リンク先に出典記載)。
こうした「補給状況の改善」よりも「衛生委員会の活動」の大きさを評価する考えに変わったのは、「戦後になって」協働した統計学者ウィリアム・ファーの影響とされています。
膨大な数字を集め、分析をする中で、「衛生委員会による病院を抜本的に衛生にする活動が死亡率を下げた主要因だった」と把握するに至ったのです。
誰が死亡率激減を「ナイチンゲールの功績」として伝えたのか?
先述の「斧で薬箱破壊という史実ではない逸話」については、それを掲載する児童向け伝記があることから、私はこうした「劇的に死亡率を下げた」とする事実誤認の入り口が、児童向けの伝記にあるのではないかと当初考えました。
児童向け伝記は、基本的にエピソードを象徴的なものとして簡素化し、児童でもわかりやすく伝えることを主眼としています。そのため、「ナイチンゲールが『献身的な病院看護』を通じて、患者と病院を衛生的にし、死亡率を劇的に下げた」というストーリーを選び、「衛生委員会」の存在を消しているのではないかと疑念を持ちました。
「死亡率を劇的に下げたのは衛生委員会」としてしまうと、「では、ナイチンゲールの看護の意味は?」と存在意義を問われたり、「看護で命を救ったナイチンゲールの伝説イメージ」を弱めることになるからです。
実際のナイチンゲールは、看護や物資の確保を通じて、非人道的環境に置かれた患者救済のための看護や衣食住環境の提供、そして人間らしくあろうとさせる「ケア」に従事しており、劇的では無いにせよ、死なずに済んだ命を救いました。また、患者が過ごしやすくなるよう、読書室やカフェを提供するなど、様々な機会も提供しました(解決した事象は以下に整理)。
こうした点から、私は決して「衛生委員会の活躍」がナイチンゲールの膨大な貢献を消すとは思いません。
また、ナイチンゲール本人が「衛生委員会の功績」としているものを彼女の功績にするのは不適切だと考えています。
しかし、一般へのイメージ普及ならばともかく、普通に考えれば医療関係者や統計局までが「児童向け伝記」を根拠にしているはずがありません。そこでナイチンゲールの理解に欠かせない「主要伝記」に記載があるのではないかと考えました。
主要伝記における「死亡率」「衛生委員会」記述検証
「伝記」の出典となりえる「信頼できるナイチンゲールの伝記」は2冊のみ
ナイチンゲールをめぐるほとんどの伝記は、公式伝記サー・エドワード・クックの『ナイチンゲール その生涯と思想』(原書:1913年)と、その後にクックが参照し得なかったナイチンゲール親族の資料(クレイドン資料など)も利用したセシル・ウーダム=スミスの『フロレンス・ナイチンゲールの生涯』(1950年)の2つだけです。
クック版は非常に上品で礼儀正しく、ナイチンゲールにとっての綺麗な話を中心に編集されたものです。全集を編纂したリン・マクドナルドも、その全集1巻目の冒頭で、次のように評価しています。
ここで、ナイチンゲールの伝記としては現在でも最高のものであるエドワード・クックの『フローレンス・ナイチンゲールの生涯』全2巻(1913年)にかなり依存していることをお断りしておきたい。
(中略)
クックの『生涯』は、精神性から政治に至るまで、あらゆることを扱った最も包括的なものである。ナイチンゲール自身の資料の抜粋が圧倒的に多く、その判断は限りなく正しいと私は思う(重要ではないが、年代に関する誤りや、その他いくつかの誤りもあるが、適切な部分についてはそれを指摘する)。それから1世紀近くが経ち、より多くの資料が入手できるようになった今、私が同意できない点はほとんどない。
一方、ウーダム=スミス版はナイチンゲールの姉パースが嫁いで行ったヴァーニー家の屋敷クレイドンに残る、クックが利用できなかった資料を利用するなど、新しい情報もあります。
また、クックが礼儀正しさの中で隠していた結果に対する評価(インドでの失敗や、様々な登場人物に対するネガティブ評価などの複雑さや)を盛り込んでいます。ヴァーニー家の協力者がパースに対して辛辣であったため、ナイチンゲールの姉(と母)に対する評価が特に厳しいです。
私は当初クック版しか読んでいなかったのですが、あとでウーダム=スミス版を読んで、その編集・情報の切り取り方の違いに愕然としました。
1950年に初版が出版され、1986年に再版されたセシル・ウーダム=スミスの受賞歴のある伝記『フローレンス・ナイチンゲール』も時折使用したが、この伝記には多数の、時には重大な誤りが含まれている。
これ以外に、世の中のナイチンゲールイメージへ大きな影響を与えたとされるのがリットン・ストレイチーによる「偶像破壊」と呼ばれた有名な人物伝『ナイチンゲール』です(初版1918年。日本では以下の『ヴィクトリア朝偉人伝』所収)。
ただ、この本はクックの伝記に依拠しており、「クック版の解釈」といえるものであるため、その情報の内容や精度の史実的な正確性は、クック版に劣ります。あくまでも「人物(そしてヴィクトリア朝という時代)」に対する優れた「批評」として書かれたものであり、「伝記」としての正確性を重視したものではないことに注意が必要です。
「周囲の人間を支配し、自分の意のままに操り、シドニー・ハーバートなどを消耗させて死に至らしめた」とする「冷酷なナイチンゲール」イメージ(偶像破壊)は、彼によって広められたものです。
マクドナルドは、次のように評価し、この本が後に与えた影響も指摘しています。
1918年、リットン・ストレイシーは『ヴィクトリア朝偉人伝』で象徴的なエッセイを発表したが、それは敵対的というよりむしろ気まぐれなもので、ナイチンゲールの仕事を学術的に分析したものではなかった。
1970年代に流行したヴィクトリア朝のヒーローやヒロインに対する否定的な見方や、より具体的にはポストモダニズムも、ナイチンゲールに対する新たな、そして敵対的な扱いを助長したのだろう。
例えば、ナイチンゲールは「独裁的で、神経症的で、要求が多く、強迫観念が強く、病的」であり、「かわいそうなシドニー・ハーバートをほとんど痴呆に近い状態に追い込んだ」 と評された。ストレイチー自身は、ナイチンゲールが「冷酷でなければ」シドニー・ハーバートが「死ぬことはなかった」と何の根拠もなく断言しており、この指摘は後の作家たちによって、これまた根拠なくしばしば引用された。
この点で、「ストレイチー版」の伝記のみを典拠したナイチンゲールのエピソードを「史実」とする言説には、注意が必要です。
それでは死亡率の話に戻ります。この主要な3冊から、「死亡率」「衛生委員会」の記述を見ていきます。
クック版
スクタリの病院の衛生状態の改善
そうした改革の結果、スクタリの諸病院における死亡率が急速度で低下したことを、フローレンスは1857年、勅撰委員会に報告している。
「スクタリ病院の衛生状態は、過剰な収容者数、換気の劣悪さ、排水状態の不潔さという点で、1855年3月半ばまでに私が見た民間のどの病院のそれと比べても、いえ、大都市の最もひどい地域の最も貧しい家と比べても劣るものでした。しかし当時着手した修理が終わったとき(6月)には、上記の点についてはどの病院も、世界でも珍しいくらいすぐれたものとなったと私は思いました——もちろん本来の構造そのものの欠点はどうしようもありませんでしたが」
フローレンスが後にシャフツベリー卿に語ったように、イギリス陸軍を救ったのはこの「衛生委員会」であった。
これに続けて、正確な数字は別の箇所に記載されています。
1855年の春、フローレンスはクリミアの諸病院へ訪問するためにしばらくスクタリをあとにした。スクタリの状況は、いまでは以前に比べていちじるしく改善されていた。衛生面の工事は完了していたし、病院の設備も格段に整っていた。
(中略)
死亡率もかつては1000人に420人だったのが220人に減少していた。
上記「死亡率もかつては1000人に420人だったのが220人に減少していた。が、死亡率42%から2.2%へ減少したとする数字の根拠となります(1000人当たり死亡率を好んで使うため、このような表記が多いです)。
このテキストを見る限り、適切に「衛生委員会の活動の結果、死亡率が激減した」という情報が盛り込まれています。
ウーダム=スミス版
スミス版は死亡率が上昇している様子を、何度か本文で伝えていますので、そこを含めて引用します。
こうして兵舎病院の方ではさまざまの改善が行なわれていたにもかかわらず、まだ軍のどこかに致命的な欠陥があった。病院は清潔になり、便所の流れも良くなり食事も改善されたが、それでも死亡率はまだ増え続けていた。惨状はまさに次の局面に入ろうとしていたのである。兵士たちも、そもそも入院とする原因となった疾病のためではなく、病院内で罹患した疫病のために死んでいった。
(中略)
雪はやみ、英軍が野営をしているセバストポリ前方の荒涼とした台地にも、微かな暖気が訪れるようになった。病院護送船から下ろされてくる兵士の数も横ばいになった。病人の比率は依然として絶望的に高く悲惨を極めたが、まずは膠着状態だった。
ところが兵舎病院では死亡者数がますます増えていった。
このように「ナイチンゲールによって病院環境が改善した」ことと、「入院患者が劇的に増えているわけではなく、運び込まれる患者の数も膠着した状況」にもかかわらず、死亡率が上昇したことが示されています。
対して、政府は衛生委員会を派遣します。
二月末、パンミュア卿(陸軍大臣)はスクタリ及びクリミアにおける病院と野営地の衛生状態を調査するために衛生委員会を派遣した。この委員会は、パーマストン卿(首相)の義理の息子であり女史の旧来の友人でもあるシャフツベリー卿の提案にもとづいて設けられたものである。
(中略)
ナイチンゲールは、「英陸軍を救った」のはこの委員会であると語っている。
(中略)
効果はてきめんで、ついに死亡率も低下し始めた。
ウーダム=スミス版では、別の箇所で数字を記載しています。「」内は報告書から引用されたナイチンゲール本人の言葉です。ここでの数字は「病気による死亡率の減少」ですが、これまでみてきた数字ではありません。
「クリミア戦争における死亡者数は、その大半がスクタリ陸軍病院の恐るべき状況を原因とするものである。それは各連隊毎の死亡者数が、その連帯が不幸にしてこれら悪疫の巣に送り込まねばならなかった兵士の数に、まさに比例しているという事実で証明されるだろう
(中略)
クリミア戦争の最初の7ヶ月間の軍隊内での死亡率は、病気によるものだけで年60パーセントにも及んだが、最後の6ヶ月間における病気による死亡率は、本国の健康な近衛隊のそれとほぼ等しく、また本国駐在の全部隊における死亡率のわずか3分の2になった」
この突然出てきた死亡率60%はウーダム=スミスのミスではなく、ナイチンゲール本人のミスだと、マクドナルドは指摘しています。
ナイチンゲール自身は、公表された表にはないが、少なくとも3つの報告書で、英国の最初の死亡率を誇張している。1857年から58年にかけての王室委員会に対する証拠の中で、彼女はこう述べている。
「クリミア作戦の最初の7ヶ月間に、疾病だけで年間60パーセントの割合で軍隊の死亡率がありました。この死亡率は、ロンドンの人口における大疫病の死亡率を上回り、コレラの死亡率よりも高い比率でした」。
長い報告書(『英国陸軍保険覚え書』(1858))の序文で、彼女はナポレオンとの半島戦争における「莫大な」死亡率を、クリミアにおけるこれまでの8ヶ月間の60パーセントに比べれば「小さな問題」として紹介している。この誤りは、1861年8月のシドニー・ハーバートの死後、彼女がシドニー・ハーバートへの賛辞を述べた際にも、現れている。
60パーセントという数字は、戦争中最悪の月である1855年1月のクーラリという病院の「病人数」に対する死亡者数という指標を誤って計算したことによる。正しくは52%であり、症例あたりの死亡率は46.6%であった21。
どの病院でも死亡率が高かったのは明らかだが、6カ月以上の全病院の平均が60パーセントというのは、過剰と言わざるを得ない。
ストレイチー版
クック版を参照したストレイチー版は、ある意味、多くの人のナイチンゲール・イメージを変えた伝記でもありますが、ここでは衛生委員会の活躍がまったく記されていません。つまり、「劇的な死亡率の低下は、ナイチンゲールの功績」であるように読める内容なのです。
1855年5月、半年間の苦闘の末、ナイチンゲールはスクタリ野戦病院の状況を、多少の満足感を持って眺められるようになった。自分に課せられた重積に押しつぶされずに生き長らえただけでも祝福すべきだろうが、それ以上のことを成しとげたのだ。驚くほどの改善を成しとげたのだ。
病院内の混乱と逼迫は終わりを告げた。秩序と清潔さが病室を支配し、必要な物品類は迅速かつ豊富に支給され、さまざまな工事が行われ、病院内の衛生状態は著しく改善された。数字を一つあげて比較すれば、その驚くべき変化は一目瞭然だろう。患者の死亡率が、42%から2.2%に下がったのである。
この点から、少なくとも1918年に執筆されたリットン・ストレイチーの伝記が、「ナイチンゲールが劇的に死亡率を下げた」とする誤解を広げていった代表的な伝記と言えるでしょう。
それ以外の伝記
ここに取り上げた伝記以外にも、ナイチンゲールが生きている間も含めて多くの伝記が書かれており、そこでも同様の誤認がありました。
先述したマクドナルドが取り上げた「ナイチンゲールの友人であるサミュエル・グリッドリー・ハウとジュリア・ウォード・ハウの娘によって書かれた児童書」も、ネットで見つかりました。
著者はLAURA E. RICHARDS、タイトルは『FLORENCE NIGHTINGALE THE ANGEL OF THE CRIMEA』で、1909年にアメリカで出版されました。内容は以下の通りで、上述の通り、死亡率の減少と、それが衛生委員会ではなく、彼女と看護師の寄与とされています。
When Miss Nightingale arrived at Scutari, the death rate in the Barrack Hospital was sixty per cent; within a few months it was reduced to one per cent; and this, under heaven, was accomplished by her and her devoted band of nurses. Do you wonder that she was called "The Angel of the Crimea?"
気になったので、以前「倉庫襲撃」の話を調べた際に出てきた、日本の1901年出版の伝記にパクられた1894年出版の偉人伝での記載も見てみました。
すると先の本より出版年が古いこちらでも、死亡率激減と、それがナイチンゲールによるものだとする記載があります。死亡率の数字はこちらの方が正確です。
With a death-rate of forty-two, when her task was done it was found that the mortality had been reduce to two per cent.
42%あった死亡率は、彼女が任務を終えた時、2%に減少していることが判明した。
余談ですが、LAURA E. RICHARDSの本にも「倉庫襲撃」に近しいエピソードがあります。ただ、そこでは会議の承認が必要なことを理由にする役人に対して、会議開催を迫り、メンバーを集めて実施させて物資を供出させるという、前回取り上げられなかったエピソードが載っています(後日追記予定)。
【4】「衛生委員会」の派遣はナイチンゲールの功績か?
ここまで、「衛生委員会」の功績がナイチンゲールのものとなっているという、ナイチンゲール本人が意図していない評価の広がりと、その根拠とされる主要な伝記の記述について語ってきました。
この過程で、もう一つ検証を必要とするテーマに気づきました。
それが「死亡率を【劇的に】低下させたのは衛生委員会だとわかった」「しかし、その派遣はナイチンゲールの要請(または影響)である」とする、「ナイチンゲール評価・貢献論」です。
いくつかみた児童書では、この評価の記述が分かれています。
検証範囲を明確にするため、ここでは「衛生委員会がクリミア戦争にやってきたのは、ナイチンゲールが(衛生環境に懸念を持ち)、派遣要請を行なった」とする「直接影響論」と、「ナイチンゲールの現地からの様々な報告(衛生環境の問題指摘)に影響を受けて、政府が派遣した」とする「間接影響論」に分けて見ていきます。
「ナイチンゲールが派遣に寄与した」とする直接影響論
先ほどの「死亡率」の話と同様、クック版と、ウーダム・スミス版での記述を確認しました。
クック版
クック版では、衛生委員会派遣について記述する際、ナイチンゲールの意向を示唆する歴史家キングレークの指摘に言及します(ナイチンゲールの同時代人でクリミア戦争に関する歴史書を執筆。ナイチンゲールと面識あり)。
アバディーン卿の内閣の総辞職後、内閣が再構成されてパンミュア卿が陸相となったとき、フローレンスのこの教訓(※)は忠実に体され、ジョン・サザランド博士、ヘクター・ギャヴィン博士、それに土木技師のロバート・ローリンソンの三人の委員からなる衛生委員会が全権を与えられて東方に派遣された。彼らは1855年2月29日に司令を受け、3日後に出帆した。
「この指令の語調は一風変わっていた」とキングレークは書いている。「女性の意向が大いに働いているという印象を受けた。命令口調はメイドにはっぱをかける家政婦のそれに似ていた。」
しかし本国ではっぱをかけていたのはシャフツベリー卿だった。彼は三人の委員を委嘱することをパンミュア卿に迫り、彼らへの指令の文案をみずから考えた。衛生委員会の義務はそこに、フローレンス自身でもこれ以上行き届いたものか書けなかったろうと思われるような明快さで記されていた。
「現地に到着したら、必要なすべてのことを迅速に実施するよう努力されたい。命令を下すだけで足れりとすることなく、直接に自分自身で監督するか、委託した人々によって工事が速やかに開始されるよう促し、完成まで日々怠りなく監視することを心がけていただきたい」。
※衛生委員会が来る前に、ナイチンゲールと共に派遣されたカミング・マクスウェル調査委員会による改善提案・勧告が反映されなかったことから、実行権限を持つことが必要だとナイチンゲールが考えていたとするクックの主張のこと(同書p.294)。
この記述を読む限り、クックは「キングレークはナイチンゲールの影響を示唆している」が、直接的に主導したのは「シャフツベリー卿」であると記しています。
ウーダム=スミス版
次に、ウーダム=スミス版を読むと、歴史家キングレークが示唆したとするナイチンゲールの関与が、「事実」に置き換わっていることに気付きます。
二月末、パンミュア卿(陸軍大臣)はスクタリ及びクリミアにおける病院と野営地の衛生状態を調査するために衛生委員会を派遣した。この委員会は、パーマストン卿(首相)の義理の息子であり女史の旧来の友人でもあるシャフツベリー卿の提案にもとづいて設けられたものである。
しかし、女史の名前は出ていなかったが、この委員会に与えられた通達書の文面にみなぎる緊迫感と明快さと気迫とは、まぎれもなく彼女のものであった。
なお、ストレイチー版では衛生委員会による死亡率改善貢献の記述がないので、この点については記載がありません。
参考までに、別の伝記で読んだ記述について記載しておきます。
彼女は旧友のアシュレイ卿(シャフツベリー卿)に手紙を書いて何が必要なのかを正確に訴えた。アシュレイ卿は行政上の全権を持つ衛生三人委員団を派遣することでこの要請に応えた。これらの調査団は内閣の権威において、軍医務局を越えており、フローレンスの言に基づいて病院改革に着手した。
しかし、このハーメリンクの主張に、明確な出典記述はありません。
研究者による「直接的影響=派遣要請の否定」
結論を先に書くと、ナイチンゲールによる「衛生問題を解決する衛生委員会の直接的な派遣要請」は、研究者たちによって否定されています。
まず、日本語で読める唯一といえるこの「衛生委員会派遣」問題に言及している資料、ヒュー・スモールの言及を引用します。
ナイチンゲールの伝記作者たちは、彼女がこの衛生委員団の派遣を要請したとたびたび主張している。この主張を彼女自身は何度も否定している
(中略)
クリミア衛生委員団を発足させた真の立役者は、尊大なやり方で公衆衛生をすすめようとして当時イギリスじゅうで嫌われていた人物、落目の自称衛生改革者、エドウィン・チャドウィックであった。
残念ながら「ナイチンゲールの伝記作者たちは、彼女がこの衛生委員団の派遣を要請したとたびたび主張している。この主張を彼女自身は何度も否定している」というテキストの出典記載がないので、「死亡率激減」のように、本人の言葉でこの言説を否定し切るに至っていません。
しかし、この後に、興味深い記述を根拠を添えてしているので引用を続けますが、その前に上記引用文にも出てくるシャッフツベリー卿について補足しておきます。卿は英国政府の公衆衛生改革の取り組みを主導する英国本国の「衛生委員会」委員でした(委員は意思決定を行う3人からなる最上位メンバー)。
この委員会立ち上げを起案し、実質的に社会へ公衆衛生の波を起こしたのがスモールの文章で名前の挙がったエドウィン・チャドウィックでした。
1853年には、ナイチンゲールも治療に参加した大規模なコレラがロンドンで流行し、公衆衛生への意識が高まっていました。こうした「衛生」の重要性を理解していたのが、チャドウィックを起用した政治家シャッフツベリー卿であり、またクリミア戦争時に首相となったパーマストン卿でした。
話を戻すと、スモールは、パーマストン首相が陸軍大臣パンミュア卿に対して、クリミア戦争時の病院の高い死亡率には衛生上の問題があること、そしてそれを改善する指示を送っていたことを指摘しました。
これが、ナイチンゲールの「直接的影響説」を否定するものであり、かつシャフツベリー卿ではなくパーマストン首相がトリガーだったとするスモールの主張です。
パーマストン(首相)は陸軍大臣に、ナイチンゲールの病院の問題を解決するためにチャドウィックがもっとも信頼していた専門家を派遣するよう指示する手紙を書いた。手紙からは、パーマストンがそこでの新種の問題、下院の「セバストポリ・レポート」ではまったく言及されていなかった問題にきわめてよく通じていたことがわかる。ナイチンゲールが東方に赴任して三ヶ月後、パーマストンは陸軍大臣パンミュア宛にこう書いている。
確かなことは、傷病兵の医学的な治療の善し悪しとは全く別に、コンスタンティノープルやスクタリなどにあるわが軍の病院の衛生状態を緊急に改善する必要があることだ。
適度な換気が疎かにされていたり、他のいろいろな衛生上の配慮に考えがおよんでいないのか、もしくは実行されていないようだ。
かつて衛生委員会につらなっており、衛生問題の仕事を何度もしてもらったことのある二人の非常に有能で行動的な人物がいる。サザランド博士とグレンジャー博士だ。二人をすぐにコンスタンティノープル、その後スクタリ、バラクラヴァ、野営地へと送り、 傷病兵の医学的な治療にはまったく干渉せずに、二人の経験から思いつく、病院の建物と野営地の衛生改善の手はずを整え、ただちに効果が出るよう、全力で当たってもらいたい。これで多くの命が救われるはずだ。
ナイチンゲールはこのクリミアへの衛生委員会派遣が、シャッフツベリー卿の功績だと考えて褒め称えていましたが、シャッフツベリー卿よりも早く行動して指示を出したのは、シャッフツベリー卿ではなくパーマストン首相だったのです。
次に、ナイチンゲールの影響を論じた資料としては、リン・マクドナルドの全集を利用して「最初に書かれた」とされるボストリッジによる『ナイチンゲール』の伝記を取り上げます。ボストリッジは、次のように、影響を否定しています。
フローレンスは、長期的には衛生委員会がイギリス軍を救ったと信じていた。しかし、この信念も、委員会がスクタリに到着した後に彼女が委員会の仕事に協力したという事実も、彼女が個人的に委員会の規約を起草したとか、そもそも委員会を派遣させるために特別な影響力を行使したという意味にとらえるべきではない。
A.W.キングレイクは、1863年から1887年にかけて8巻からなる大著『クリミア侵攻』を出版し、フローレンスは「クリミア人死亡率」の真の原因について「まったく......暗中模索している」と見なしていた。
しかし、現存するナイチンゲール文書には、この説を裏付けるものは何一つなく、結果的に純粋に憶測の域を出ないままである。
これと無関係ではない考え方は、古い世代の歴史家の間で広まっていたが、今日でも一般的な歴史記述の中に見られる。これは明らかに違う。彼女が自分の仕事について主張したのは、ハーバート夫妻に宛てた手紙の中で個人的にだけで、公には決してしなかったことだが、『私たちはこの病院を4ヶ月間引っ張り通しましたが、私たちがいなければ、病院は行き詰まっていたでしょう』ということだけだった」。この結論において、彼女は間違いなく正しかった。
『ナイチンゲール全集』を編纂したリン・マクドナルドも、この点に関しては、複数の書籍で「ナイチンゲールによる派遣説を否定しています。
次のパーマストン政府によって任命された衛生委員会は、すぐにカミング・マクスウェル委員会を駆逐した。最も重要なことは、単に視察するだけでなく、行動する権限が与えられたことである。
パーマストン卿の娘婿であったシャフツベリー卿は、進歩的な衛生官ヘクター・ギャビン(1815-55)の影響もあって、この委員会の任命運動を行った。この委員会はすべて民間人で構成された。ジョン・サザーランド医師とヘクター・ギャビン医師(彼は着任直後に事故死)、そして当時保健総局にいた土木技師のロバート・ローリンソン(1810-98)である。英国における公衆衛生活動の先駆者であるリバプールから3人の衛生検査官が同行した。
委員会は1885年3月5日未明にスクタリに到着し、早速作業に取り掛かった。サザーランド博士はその後、1855年8月まで東部に滞在し、衛生改善を監督した。委員会の任務は、病院を視察し、是正が必要な取り決めを地元当局に伝え、病棟の数を減らし、安全と健康を確保するために必要な清掃、消毒、建築を行い、作業の開始と終了までの日々の監督を「あなた方自身または我々の代理人によって即座に」行うことであった。委員たちは、輸送手段、港、クリミアのキャンプの状況を視察することになっていた。
歴史家のアレクサンダー・キングレイクは、少なくともナイチンゲールが(委員会の行動)規約を書いたと考えていたが、その証拠はない。
別の資料でも、次のように述べています。
1855年3月に派遣された衛生委員会の活動は、後に一般的に合意されるように、クリミア戦争中の死亡率を低下させるために、病院と収容所を清潔にすることで最も貢献した。ナイチンゲールは、この委員会の責任者ジョン・サザーランド博士との長い協力関係が非常に重要であったため、彼はすでに紹介した。二人目のメンバー、土木技師のロバート(後のサー・ロバート)・ローリンソン(1810-1898)も、ナイチンゲールの水の専門家として、大切な同僚となった。
しかし、そもそも衛生委員会の設立に尽力したのは、もう一人の医師ヘクター・ギャビンだった。彼は公衆衛生の専門家で、英国の衛生委員会(1848年設立)の書記を務めた。彼はシャフツベリー卿と面識があり、シャフツベリー卿は都合よく首相パーマストン卿の姻戚関係にあった。パーマストンとシャフツベリーはともに、汚染された水や空気が病気につながる因果関係を理解していた。
シャフツベリーは陸軍大臣パンミュア卿に、民間の衛生専門家を派遣するよう働きかけた。サザーランド博士は、ハンプシャーのナイチンゲール家の隣人でもあった首相のパーマストン卿から、総司令官ラグラン卿に驚くべき手紙を届けた。
この手紙には、パーマストンの「衛生学」に対する理解だけでなく、軍人でもない委員たちが陸軍のヒエラルキーから受けるであろう抵抗に対する彼の十分な認識が示されている。
「病院、港湾、野営地をこれまでよりも不健康な状態にしないために派遣した衛生委員会主任のサザーランド博士から、このような話を聞くことができます。もちろん、彼らは医務官や港の手配を担当する者、収容所の清掃を担当する者たちから反対され、妨害されるだろう。彼らの使命は嘲笑され、彼らの勧告や指示は、あなたの権限を厳格に行使しない限り、脇に置かれるでしょう。
しかし、その権限とは、彼らがどのような配置の変更を勧告しようとも、即座に正確に実行に移すことであり、何百人、いや何千人もの兵士の健康と生命にかかわる問題である。
軍人であれ医学者であれ、毎日の差し迫った業務で時間ばかりを奪われる将校が、これらの委員が長年にわたって行動と思考を捧げてきた事柄に注意を向け、時間を割くことができるとは到底思えない。このようなことに熟練した人々の介入が緊急に必要なのである。
スクタリの病院は疫病の温床と化しており、太陽の光が感じられ始める前に適切な予防措置を講じなければ、あなた方のキャンプは猛烈な疫病の巣窟と化すであろう」
スモールによる「パーマストンの影響」と、マクドナルドによる「ヘクター・ギャビン医師」の影響については、それぞれの出典資料を読むことで、時系列がわかっています。
■1855年2月12日
パーマストンが内閣の会議で、衛生委員会の派遣を決定。
以下は、パーマストン卿の自筆による覚書であり、国内およびクリミアにおける軍政の改善策として、2月12日に開催された内閣の決定を盛り込んだものである。
クリミアにおけるより良い秩序を確立するための措置に関する覚書
クリミアにおける秩序の確立に向けた措置
(中略)
(2) ラグラン卿には、宿営地に存在する汚物を除去するため、コンスタンチノープルから清掃人部隊を直ちに派遣するよう指示が送られた。
(3) 衛生委員会が派遣され、収容所を良好な状態に保つために必要な措置をラグラン卿に提案し、彼らの注意は病院の衛生状態にも向けられる。
■1855年2月14-15日
シャッフツベリー卿がパンミュアに衛生委員会の話をする。
2月14日
(前略)クリミア病院の衛生対策についてパンミュア卿に面会を試みるが、すべて無駄に終わる。「博愛家」はいつも退屈だ。
2月15日
(前略)パンミュアは、衛生委員会が全権を持ってスクタリとバラクラヴァに派遣され、病院を浄化し、輸送船を換気をし、何千もの人々が傷ではなく赤痢や下痢で死んでいるという空気の悪さと予防可能な災難の結果に対して、命を救うために科学ができることをすべて行うという私の計画を聞いた。
主よ、私は再びあなたを祝福します。そして、この仕事を喜ばしい結果に導いてください。
任命された委員は、公衆衛生委員会のサザーランド博士、後にクリミアで事故死したヘクター・ギャビン博士、土木技師のロウリンソン氏、主任検査官のノーランズ氏、3人の副検査官、そして1人の技師助手であった。
これを見る限りは、パーマストンが先になっています。
しかし「訪問してきたヘクター・ギャヴィンがシャフツベリー卿に衛生委員会の派遣を提案した」と、シャフツベリー卿による記述もあります。
これはマクドナルドが参照したテキスト『Hector Gavin, MD, FRCSE (1815–1855) – his life, his work for the Sanitary Movement, and his accidental death in the Crimea』で出典を添えて紹介されています。
ある日、クリミアでの不始末により興奮と憤りが最高潮に達したとき、西インド諸島で3年間コレラの予防と治療を担当する政府委員を務めていたヘクター・ギャビン博士が、 シャフツベリー卿のもとを訪れ、同じ病気に関して衛生局で取り組んだことについて語った。そして、当然のことながら、会話は東洋の勇敢な兵士たちを襲ったコレラの惨状へと移った。この面談の際に、東洋における衛生委員会の構想がシャフツベリー卿の心に浮かんだ。
後に不慮の事故で亡くなった善良で親切なヘクター・ギャビン医師が、衛生委員会を私に提案した。私はパンミュアにそのような委員会の設置を強く勧めた。彼は同意し、私に指示書を作成するよう求めた。私はそうした。
後者については引用文献が「Shaftesbury Papers」とのみあり、この会談があった日付が明示されていません。
ただ、シャフツベリー卿の言葉に基けば、1855年2月12日のパーマストン首相による内閣の会議での「衛生委員会派遣の意思決定」の前に、義理の息子という立場で関係性も良好なシャフツベリー卿が、ヘクター・ギャヴィンの提案を首相に伝えた可能性を考慮すべきとも思われます。
この一連の経緯を書いているシャフツベリー卿の日記では、「2月8日 そして私は内閣大臣になるチャンスを手に入れた! パーマストンがランカスター公領と内閣の席を私に提案したのだ!」との記述があるぐらいに、信頼されていたからです(話はたち消えに。『The life and work of the seventh Earl of Shaftesbury, K.G.』)。
このギャヴィンとの面会日付が分かれば、時系列は明確になるでしょう。
ナイチンゲールは間接的に影響したのか?
最後に、ナイチンゲールが衛生委員会派遣に間接的影響を与えたのかを考察します。しかしこの件は「読み取り」が難しいものです。
日本のナイチンゲール研究の第一人者と言える金井一薫氏は次のように記しています。
加えてナイチンゲールは、感染拡大を防ぐためには抜本的な対策が必要であると考え、本国の戦時大臣をはじめとして、政府筋の高官に手紙で実情を訴え、具体策を提言し続けました。
その成果があって、1855年3月に、本国から衛生委員会が派遣されて徹底した衛生環境の改善がなされました。
様々な児童向け自伝でも、「ナイチンゲールの報告があったから、衛生委員会が派遣された」とする間接的影響を表現しています。
しかし、私は少なくとも「直接的な衛生状況の懸念を強く伝えてはいなかった」とする見解、つまり「大きな影響を与えていない」説をとります。ナイチンゲールによる「病院改善提案」はあったものの、そこに「衛生委員会という衛生上の課題解決につながる委員会派遣」を引き起こすだけの「強い衛生上の改善提案」を見出せないからです。
第一に、前述したようにナイチンゲールは、衛生上の重要性をクリミア戦争後に至っても、一定のデータ分析で数字を見るまで、非常に優先度の高い事項だとの見解を示していませんでした。病院の衛生・換気を重視し、徹底的に主張するのは戦後です。
第二に、本当に病院全体の衛生上の懸念が重要だとすれば、ナイチンゲールは公的に報告する機会にもその情報を記載していたはずですが、記載していません。
この報告書は、政府がナイチンゲールの派遣と同時期に派遣していた、クリミア戦争最初の調査委員会(カミング医師、スペンス医師、マクスウェル弁護士の3名を委員とする調査団)によるもので、衛生委員会派遣前の段階で調査報告書を提出しており、そこにナイチンゲールも寄稿しているのです。
死者が増えているはずの1855年2月20日付でナイチンゲールが記載した報告書では、基本的に物資の補給の話と洗濯の話しかしておらず、病院の衛生環境が危機的であるという報告が確認できません(『Report upon the state of the hospitals of the British army in the Crimea and Scutari, together with an appendix.』)。
第三に、ナイチンゲールは当時の戦時担当大臣だったシドニー・ハーバートに様々な病院改革の提案を行い、いくつかを実現しましたが、衛生委員会派遣につながる報告があるならば、衛生委員会派遣前の手紙に、衛生改革提案が含まれているはずです。
しかし、1855年1月の手紙に記された、非常に具体的な多方面に及ぶ組織改善の提案の中身は次のようなもので、衛生環境についての強い言及はありません。含まれていても、一部です。
クック版の伝記にはこの時期の「提言」がいくつも記されています。長いので要約します。
■入院中の兵士の給金改善に関する提案
■イギリス人墓地の建設
■看護制度改革のための提案(1月8日付の手紙)
1.病院運営に必要な物資不足(支給がない)
2.入院兵の所持品の欠如とその供給
3.補給品の流通不備
4.看護を担う雑役兵制度の不備
上記に対して、必要なもの
1.有能な調達官達
2.関係部署をまとめるリーダーシップある主任調達官
3.軍医をもっと。
4.主任監査官を補佐する監査官を3名。
5.人員は働き盛りの派遣と、病院規則を戦時向けに。
6.雑役兵の賃金・食料改善。
■調達局についての改善課題(1月28日付の手紙。上記に続く)
1.食料の供給
2.調度と医療の供給
3.日常的な手順の円滑な運営
■軍医のための医学所設立・検死による死亡の統計記録を(2月22日付)
1.スクタリに医学の教習所を設立し、手術技能の向上を。
2.検死をしっかり行うこと。
3.病院の統計記録が整っていない・ない(直接提案はないが、検死を行うことで統計記録が残ることを提案しているニュアンス)。
統計的な観点は1855年1月4日の手紙にも記述があります。
私たちは、(1)病院にあるベッド数、(2)空きベッド数、(3)入院患者数を正確に把握すべきであると。
とはいえ、ナイチンゲールを擁護すれば、先述した 1855年1月8日付の手紙の冒頭で、病院全体の危機的状況についての警告は送っています(それが衛生状態だけの話ではないにしても。クック版では割愛しているか)。
私信。
陸軍の大部分(健全な兵員は2,000人もいないと聞いている)が入院しつつあり、そのため何千人もの命が危険にさらされています。
また公務員たちの将来が一人の人間(たとえば、あなた戦時大臣)の個人的利害に左右される軍務において、これら現場の者が革新者として行動することで、自らの将来を危うくする行動をすることは期待できません。
この手紙は、ここにいる最高の人たちから依頼されて書いたものであることを付け加えておきます。この手紙は、女性的な憐憫の情から書かれたものではありません。
今この瞬間、私たちの上に立ちはだかっている恐ろしい非常事態に対して、何の備えもなされていないと考え、しかし、もし自分たちがそれを代弁するならば、自分たちの破滅以外には何も得るものはないだろうと考える、経験豊かな男たちによるよく吟味された結論なのです。
この手紙が導くかもしれない行動をしながら、この手紙を自分の胸にしまっておくようお願いします。
調査委員会は何もしていません。おそらくその権限は調査に限られていたのでしょう。カミングは何もしていない。ウィリアム・ポーレット卿も何もしていません。ストラットフォード卿(大使)は政治に没頭しており、事情を知りません。ウィリアム・ポーレット卿は事情を知っていますが、部分的です。メンジーズは知っているが語ろうとしません。
医官たちは、もし裏切るようなことがあれば、「個人的にも専門家としても不利になるような報告」をすることになるでしょう。ウィリアム・ポーレット卿と新しい医局長のフォレスト医師は必死です。
あなたの公務員として、私がもっと前に報告すべきだったとおっしゃるでしょう。しかし、私はスパイになりたくなかったのです。静かに救済策がもたらされるのであれば、それに越したことはないと思っていましたし、委員会が救済策をもたらすものと思っていたのです。
しかし、事態は2ヵ月前よりも悪化しており、2ヵ月後には今よりも悪化するでしょう。
この時、ナイチンゲールは12月後半にやってきた看護団・第2陣に苦しめられており、その苦情・対応相談も業務の高い比重を占めていたことも留意が必要です。
また、2月19日付の手紙では死亡者数が減少しているとの記述もあります。
この数日間で、患者の健康状態は著しく改善した。2月の最初の8日間には、スクタリの病院だけで506人を埋葬したが、9日目には72人を埋葬した。この24時間で、(この病院の2100人のうち)わずか10人、(ボスポラス海峡の病院全体のうち)わずか30人しか亡くなっていない。パーセントにも満たない。しかし、医療関係者の発熱は増加の一途をたどっている。何人か帰国させなければならない。
2月26日の手紙でシドニー・ハーバートに愚痴っていますが、やはり「病院運営全体」の話であって、「衛生改革」の記述はありません。
フランスは病人のために13,000のベッドを用意し、莫大な準備をしています。私は土曜日にセラリオ岬にある彼らの新しい小屋を視察しましたが、そこには1,080人の兵士がおり、監察総監のミシェル・レヴィは絶大な権力と知性を持つ人物でした。火曜日には彼らの病院を視察することになっています。フランス人は前線クリミアに回復兵を送り返していません。
私はいつも不平を言っているようです。しかし、我々の手配はすべてエリザベス朝時代のままです。もうすぐ夏が来て、冬が来たときのように嘆くことになるでしょう。
誰が想像できたでしょう? 暑い日がやってくるのです。
カミングは、その遅さ、役人としての視野の狭さ、臆病さゆえに、責任と改善を迫られるかもしれません。ウィリアム・ポーレット卿は、紳士として、軍人として高く評価できる人物ではありますが、ここでの公務に関しては、まったく改善不可能な人物です。彼は自分自身を水から出た魚のように感じており、あらゆる新しい困難や、それを彼の前に持ち出す可能性のある人々から身を縮めています。何かするとすれば、AかBの提案によるもので、その瞬間は彼の「不活発の力」を克服します。絶望の淵に立たされた彼は、物資の調達などの困難や医療スタッフのことは脇に置き、些細な軍事的詳細や大使館との噂話に没頭します。この建物の周りの道路や兵舎や兵舎も、相変わらず悲惨な状態です。
ご親切なお手紙にとても感謝しています。
なお、衛生委員会の派遣に決定的役割を果たしたパーマストン首相はナイチンゲールの住む屋敷の近所に住んでおり、社交上の交流がありました。また、シャッフツベリー卿ともナイチンゲールは交流しており、看護や病院運営の知識を欲したナイチンゲールは、彼から政府報告書などをもらっていたという話もあります。
これらの個人的なつながりを鑑みれば、ナイチンゲールが二人に対して「衛生上の懸念があり、それを解決する委員会を派遣してほしい」と要望すれば、すぐに実現したことでしょう。しかし、前述したように、ナイチンゲールが公式に影響を与えた記述は見つかっていません。
ここでもう一度、「最も信頼される」クック版の自伝に立ち戻ると、彼がそうと読めるテキストを記述していました。
死亡率の低下
主としてフローレンス自身の努力と助言の結果である一連の改革によって、この恐るべき死亡率はぐっと下がった。
ナイチンゲールの報告が影響を与えたかについて整理すると。
・衛生上の懸念の報告が衛生委員会を呼んだ:確認できず。
・病院運営の問題点報告と改革提案が、改善を生んだ:確認できる
・上記報告と提案が衛生委員会を呼ぶ判断を生んだ:確認できず
というところになります。
あくまでも今時点では私の能力で明確な資料を見つけられておらず、また後になって研究者が今までなかった手紙などを見つけることもあるかもしれませんが、今時点では上記のような結論となります。
私個人としては、ナイチンゲールの報告による派遣への影響があるとすれば、リン・マクドナルドが明確に指摘するはずです。しかし、それがないということも、上記結論に至った理由の一つとなります。
まとめ
ナイチンゲールは、その生涯も長く、資料も膨大であり、活動領域も広大であるため、様々な評価をされる著名人です。
そうした中、実際に彼女が行ったこと、行っていないことについて、明確にされないまま受け入れられているものもあります。
リン・マクドナルドは、ナイチンゲールの著書『Notes on Nursing: What It Is, and What It Is Not』(『看護覚え書』)に基づき、「What It Is, and What It Is Not」として、「ナイチンゲールがしたこと/しなかったこと」とするテキストを書いていますし、今も、ナイチンゲールの事実に基づく評価の確立に努めています。
そうした資料の恩恵を受ける立場として、日本における、「ナイチンゲールがしたこと/しなかったこと」という情報整理に、本テキストが役立つことができれば幸いです。
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