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【調査1/3】ナイチンゲールは斧を持って英軍倉庫を襲撃したのか? マルクスが記事にした「襲撃」


エピソードと、彼女の行動原理に基づく疑問

ネットなどでは「ナイチンゲールが屈強な男性を率いて、現場に物資を開放しない英軍物資倉庫を襲撃し、(斧で叩き壊して)配布した」というエピソードが喧伝され、「看護のためには手段を選ばない彼女の側面」として流布しています。

しかし、このエピソード(襲撃+斧)について、様々な研究者が語る資料本や、彼らが参照する信頼できる伝記などを読んでも、まったく載っていません。ナイチンゲールの1万以上の手稿などを収集・整理した第一人者たる研究者リン・マクドナルドが直近で書いた(和書出ている本と違います)「ナイチンゲールの業績のしていること/していないこと」の真偽を検証するテキストにも載っていません。

史実なのか、あるいはどこ起点で広まったのかを確認できていません。

個人的にも、ナイチンゲールのそれまでの行動や手紙を通じて、彼女の価値基準を読んでいると、彼女の行動と矛盾するエピソードです。彼女は非常に理性的で自制的で、敵を作るような襲撃という行動をするように見えないのです。

軍医との関係を優先する立場

クリミア戦争の現地着任後、彼女はすぐ看護を始めていません。現場の軍医との協調を優先し、きちんと環境が整うことを目の前の患者よりも優先したともいえました。その行動は部下の批判も呼びましたが、彼女の行動は常に抑制されたものでした。

軍医とは絶対に対立せず、徹底的に協調した彼女の行動原理に、「倉庫襲撃」は反するのです。

私がこれまでナイチンゲールについて書いたテキストも、以下参考までに載せておきます。

厳密な物資管理と、豊富な物資・資金源

ナイチンゲールは資材管理を非常に厳密に行なっており、その記録も残っており、物資に慎重でした。その記録は厳しすぎ、反発を生むほどです。

また、ナイチンゲールは自身の資金や『タイムズ』が運営する基金(マクドナルドが責任者)の支援などを得ており、物資を調達できる予算も手段も持っていました。なかには、軍が用意できなかった患者用の膨大な物資を代わって調達もしていたのです。この点で、襲撃する理由がありません。

セシル・ウーダム=スミス版の伝記では次のように、自前で調達できるサイクルが出来上がっていることがわかります。

毎日、彼女は(陸軍)調達局の倉庫で、どの滋養食が不足しており、どんな物資が欠乏しているか、請求されたもので未支給のものは何かを念入りに確かめた。それが終わるとマクドナルド氏はコンスタンチノープルに出かけて商品を購入し、それは彼女の倉庫に収納されて、移管からの正式の書類による請求があると支給された。

便箋や鉛筆などの類は別として、全物品は、きちんと署名をした正式の請求書がなければ絶対に支給されなかったので、医師たちの疑念は徐々に晴れ、嫉妬も薄らいできた、とマクドナルド氏はルーバック委員会で証言している。

『フロレンス・ナイチンゲールの生涯』上巻pp.243-244

彼女の敵対者も攻撃材料に使わず

ナイチンゲールは多く敵を作り、クリミア戦争の最中にも様々な誹謗中傷を受けました。しかし、その誹謗中傷を扱うテキストの中で、彼女が軍の倉庫を襲撃したと言う「国に対する叛逆として、攻撃にできる材料」への言及はありません。

クリミア戦争末期には、軍医の物資管理者(主任調達官フィッツジェラルド)が関係者向けに書いた「極秘報告書」でも、誹謗中傷されました。

しかしここでも、物資の扱いについて「自分たちのために必要以上に使った」などの様々な捏造を含んだ攻撃を受けたものの、このエピソードには一切触れられていません。

エピソードの流布について

この点から個人的にはこのエピソードの根拠は何なのかと疑問に思っているところで、以下のnoteで調査をしている方の記事を見つけました。

"フローレンス・ナイチンゲールが薬箱を斧で壊した逸話の原典をどうしても探したいのでなにか情報があり次第ここに書くというnote"

このテキストでは「襲撃の話」だけではなく、「ナイチンゲールが斧を使って薬庫の扉を壊したという逸話」の方を細かく徹底検証しています。

そもそもの「物資確保をめぐる軍とナイチンゲールの間の緊張」について、先ほどのnoteの考察では、ナイチンゲールの公式伝記(クック版)での紹介として、「ナイチンゲールが届いた荷物配布の遅れにいらだち、強制的に開封するよう命じたというエピソード」と「そしてそれがローバック委員会(1855年1月以降の検証委員会)で取り上げられた」という記述を取り上げ、そこからの派生かと推測しています。

ただ、この記述の段階では「現場での荷物の開封を求める対立」であり、「襲撃という結果」に至っていません。

「襲撃」を報じたカール・マルクス

この記事を読んでから数ヶ月後の先週、たまたま読んでいた『超人ナイチンゲール』の中で同様の「ナイチンゲールが倉庫を襲撃した」と言うエピソードの紹介がありました。

そこではこのエピソードが新聞『New York Daily Tribune』1855年4月14日付で、カール・マルクスが新聞に寄稿したものと記されていました。そして参考文献として、『ナイチンゲールはなぜ戦地クリミアに赴いたのか (ナイチンゲールの越境6:戦争) 』p.40が挙げられていました。

マルクスはクリミア戦争についての記事を何度も書いている。『ニューヨーク・デイリー・トリビューン』紙に1855年4月14日に掲載された記事では、ナイチンゲールについて次のように記している。
必要な補給品が目と鼻の先の倉庫にあるのに、その場には誰一人、自分の責任で緊急の必要に応じ、しきたりを破って行動する気概のある者はいなかった。それをあえてやった人物が、ミス・ナイチンゲールだ。彼女は必要なものが倉庫にあることを確認すると、何人かの屈強な男を連れて、女王陛下の倉庫に押し入り、強奪した!

『ナイチンゲールはなぜ戦地クリミアに赴いたのか (ナイチンゲールの越境6:戦争) 』p.40

「斧で襲撃した」ではないものの、「人を連れて強奪した」となっております。この話をマルクスがどこから伝え聞いたのでしょうか?(後述するマルクスの4/14の原文では「と伝えられている!」と伝聞で書いている)。

残念ながら『ナイチンゲールはなぜ戦地クリミアに赴いたのか (ナイチンゲールの越境6:戦争) 』には、さらにそのテキストが何を参照して書いたのかの情報がありませんでした。

幸いにもカール・マルクスが書いた記事がネットで公開されていたので、DeepLで翻訳したものを載せておきます(直訳なので後で細部修正します)。全文は長いのでこの記事の下部の方に載せ、該当箇所のみを抽出したものが以下になります。

その場にいた兵士の誰ひとりとして、規則の網の目を破り、その必要性に応じて、規則に反して、自らの責任で行動する気力はなかった。

これを敢行したのは、ミス・ナイチンゲールという女性だけである。

欲しいものが倉庫にあることを突き止めた彼女は、気丈な男たちを引き連れて、女王の倉庫に強盗に入ったと伝えられている!

Karl Marx "The British Army", New York Daily Tribune, No. 4364, April 14, 1855


襲撃したという報道はあったのです。

追記:4月14日版の前に書かれた、元々の3月28日版を発見。こちらの方が欠けがなくわかりやすいので、冒頭から引用

調査委員会 ロンドン 3月28日
下院の調査委員会はすでに十数回の会合を開き、その調査結果の大部分が一般に公開されている。ケンブリッジ公爵からタイムズ紙のマクドナルド氏まで、実にさまざまな立場の証人の意見を聞いたが、これほど証言が一致した公聴会はめったにない。
行政のさまざまな部門が見直され、そのすべてが欠陥があるだけでなく、ぞっとするほどショッキングな状態にあることが判明した。陸軍参謀本部、医務局、兵器局、兵站局、運輸局、病院管理局、衛生検査局、バラクラヴァとコンスタンチノープルの港湾警察はすべて、何の反論もなく非難された。しかし、各部門がそれぞれ単独で悪さをしていることが示されたように、このシステムの完全な栄光は、各部門が互いに接触し、協力し合って初めて発揮されるものであった。

規則が施行されるやいなや、誰も自分の権限がどこから始まってどこで終わるのか、あるいは誰に頼めばいいのかわからなくなるほど、規則は美しく整えられていた。病院の状態や、輸送船や目的地に到着した病人や負傷者に対して怠慢や不摂生によって行われた悪名高い残虐行為についての記述を読んでみよう。モスクワからの退却では、これほど恐ろしいことはなかった。a

これらのことは、コンスタンチノープルの対岸にあるスクタリという、さまざまな資源を持つ大都市で起こったことであり、逃走する兵士の踵をコサックが追いかけて物資を断ち切るというような性急な退却の最中ではなく、それまでの成功した作戦の結果として、あらゆる敵の攻撃から安全な場所、すなわち英国が軍隊のための物資を貯蔵している中央の大倉庫で起こったことなのである。そして、このような惨劇を引き起こしたのは、野蛮人ではなく、「上位1万人」に属する温厚な紳士たちであった。 規則を無視し、軍隊を怒らせる!

「この問題は我々の責任ではない」
「しかし、誰に頼めばいいのですか?」
「どの部署に責任があるのか知ることは、私たちの責任ではありませんし、仮に責任があったとしても、あなたに話す権限はありません」
「しかし、病人にはシャツ、石鹸、寝具、住居、薬、アロールート、ポートワインが必要です。彼らは何百人も死んでいるのです」
「イングランドの優秀な血が急速に失われつつあることは、実に残念なことです。たとえ必要なものがあったとしても、必要な要請書に半ダースの署名がなければ、何も提供できないのです」

そして、タンタロスのように、兵士たちは、自分たちの命を救うことができるかもしれない快適さの匂いを嗅ぎ取れる距離でさえ、直面したまま死ななければならなかった。

ルーチンの網目を突破し、その時々の必要性に応じて、規則に逆らって、自らの責任で行動するエネルギーを持つ者は、そこに一人もいなかった。

それを敢行したのはただ一人、女性だった。

ミス・ナイチンゲールだ。


必要なものがそこにあることを確認すると、彼女は頑丈な仲間を何人も選び、女王陛下の倉庫へ強盗同然の行為を働いた。彼女は恐怖に震える担当者へ言った。
「必要なものは手に入れました。あなたは戻って、ここで見たことを報告しなさい。すべて私の責任です」



a. 軍が滅びようとも、規則があるように - ラテン語の格言の言い換え。Fiat justitia - pereat mundus(世界が滅びようとも、正義は行われよう)。-

Karl Marx & Friedrich Engels - Collected Works pp.125-126

この3月27日版では、マルクスは「伝聞」として報じておらず、またナイチンゲールが倉庫の担当者へ告げた言葉と内容は「落ち着いている」ようにも見え、仮に「襲撃」したとしても「熱狂的な雰囲気」は感じません。

この後の調べ物

ナイチンゲール研究書の中で、このテキストに触れているものがあるかを調べようかと思います。

  • 事実の場合

    • 記事が出た1855年4月より前。

    • 事実だとして襲撃された倉庫(または備品があった保管庫)の場所は? 

      • 前線で補給港バラクラヴァは物資が不足しているし、倉庫もあったが、彼女がバラクラヴァに行くのは5月以降。

      • 病院があった後方のスクタリであれば、近くに首都コンスタンティノープルがあり、豊富な物資を自前調達できる。

  • 事実ではない場合

    • どこから広がり、マルクスが書くに至ったのか? マルクス以外に語り手はいないのか?

    • ローバック委員会の証言にある?

      • 前述のnoteでの指摘にある「ローバック委員会」で議題になったのか? マルクスの記事でもローバック委員会への言及があることから、マルクスがそこに基づいて広げたか、別の誰かが広げたものを書いたテキストを読んだか?


私の興味は「なぜ襲撃の話があったとされるのか」、先ほどの noteを書かれた方の関心は「そもそも斧で壊すというエピソードはどこからきているのか」で軸は異なりますが、海外のナイチンゲール研究者による答えはあるのでしょうか? 気になります。

ローバック委員会の報告書も見つけたのですが、ナイチンゲールへの言及は2箇所のみで、特に備品をめぐる対立の話も襲撃の話もありません。先述のセシル・ウーダム=スミス版の引用に出てきた「マクドナルドの証言」も以下にはないです。

このことから、委員会での個別の証言、報道、取材の中で出てきた話かもしれませんので、セシル・ウーダム=スミス版などの参考文献からローバック委員会証言を掘る形でしょうかね。果てしないかも……

ただ、少なくとも「襲撃した」という報道は1855年4月時点でマルクスが行っており、これがどのように「斧で」という話に広がったのかは私の関心ではないので、襲撃の話だけに絞って、引き続き、見てみたいと思います。

いくつか仮説を持つとすると、以下のようなものかなと。

  • マルクスが盛った(他にも様々な記事を書いており、その精度次第)

  • マルクスの話を、『New York Daily Tribune』が盛った(伝聞)

  • 「斧」などへの広がりは『New York Daily Tribune』での報道が変質し、英国ではなくアメリカ発?

余談ですが、ナイチンゲールの伝記ではクック版の公式伝記が有名ですが、ナイチンゲールの親族による公式版のため、あまりドロドロした話を盛り込んでいません。セシル・ウーダム=スミス版と合わせて読むと、その違いに驚くと思います。

あと、日本語資料でローバック委員会に言及する本はほとんど出会ったことがないのですが、『ヴィクトリア朝の人びと』の3章に「ジョン・アーサー・ローバックとクリミア戦争」と題して、本国でのクリミア戦争をめぐる政治の話がありますので、興味がある方はぜひこちらを。

2023/12/29追記:マルクスが参照したと思える新聞記事と、襲撃に関するローバック委員会証言、1887年アメリカ新聞での「斧で襲撃」追記した記事を追加しました。

マルクスが書いた記事:The British Army (1855)

Author(s) Karl Marx 
Written 28 March 1855
First published in the New York Daily Tribune, No. 4364, April 14, 1855

クリミアにおけるイギリス軍の状況を調査するために下院によって任命された有名な委員会の、数十回に及ぶ会議の報告書が今、私たちの前にある。ケンブリッジ公爵以下、あらゆる地位の証人が尋問されたが、彼らの証言は驚くほど一致している。行政のすべての部門が審査され、すべての部門に欠陥があるだけでなく、スキャンダラスな欠陥があることが判明した。職員、医療部、物資調達部、徴集部、輸送部、病院管理部、衛生・懲戒警察、バラクラ港湾警察、これらすべてが、反対する声もなく非難された。

どの部門もそれ自体としては悪質であったが、しかし、このシステムの完全な栄光は、すべての部門が接触し、協力することによってのみ発展したのである。規則が非常に美しく整えられていたため、軍隊が初めてトルコに上陸したとき、この規則が施行されるやいなや、誰も自分の権限がどこから始まり、どこで終わるのか、誰に何を申請すればよいのかわからなくなった。こうして、責任に対する健全な恐怖から、誰もが自分の肩から他の誰かの肩にすべてを移した。

このような体制のもとで、病院は悪名高い残虐行為の舞台となった。怠惰な怠慢が、輸送船の中や到着後の病人や負傷者に最悪の結果をもたらした。明らかにされた事実は信じがたいものである。実際、モスクワからの撤退[1]において、これほど恐ろしいことはなかった。それにもかかわらず、これらの事実は、労働力と物質的な快適さにおいてあらゆる資源を持つ大都市コンスタンティノープルの目の前にあるスクタリで実際に起こったのである。それは、コサック兵が逃亡兵のかかとを追いかけてきて、彼の補給を断つというような、急いだ退却の際に起こったのではなく、部分的に成功した作戦の過程で、あらゆる敵の攻撃から保護された場所、すなわち、イギリスが軍隊のために備蓄を積み上げていた中央の大発着場で起こったのである。

これらすべての恐怖と醜態の張本人たちは、心優しい野蛮人ではない。彼らはみな、教養があり、温和で博愛主義的で宗教的な気質を持つ、良家の英国紳士である。個人の立場では、彼らは間違いなく何でもする用意があり、喜んでいた。公式の立場では、自分たちに関係する女王陛下の規則のいかなる部分にもこのような事態が規定されていないことを自覚しながら、冷静に、腕組みをして、このようなすべての悪事を眺めるのが彼らの義務だった。陛下の規定を破るくらいなら、千軍万馬の滅びよ」!そして、タンタロスのように、兵士たちは、自分たちの命を救ってくれるはずの快適な場所に手が届きそうな、目の前で死ななければならなかった。

その場にいた兵士の誰ひとりとして、規則の網の目を破り、その必要性に応じて、規則に反して、自らの責任で行動する気力はなかった。

これを敢行したのは、ミス・ナイチンゲールという女性だけである。

欲しいものが倉庫にあることを突き止めた彼女は、気丈な男たちを引き連れて、女王の倉庫に強盗に入ったと伝えられている!

コンスタンチノープルとスクタリの権力者である老女たちは、そのような大胆なことができるどころか、私たちがほとんど信用できないほどの臆病者であった。

そのうちの一人、アンドリュー・スミス医師は、一時期病院の責任者を務めていたが(訳註:アンドリュー・スミスは戦争中の英国陸軍本国の軍医総監=総責任者)、コンスタンチノープルには必要なものの多くを購入する資金も、供給する市場もなかったのですか、と尋ねられた。「ああ、そうだ」と彼は答えた。

しかし、国内での40年にわたる日常生活と激務の後では、実際に自分の指揮下に資金が置かれているという考えを、数カ月間ほとんど実感できなかったことを保証しよう![2]。

新聞や議会演説で伝えられてきた事態の非常に暗い描写は、今目の前に現れた現実にははるかに及ばない。最もまぶしい特徴もいくつか紹介されていたが、今となってはそれさえも、より陰鬱な色合いを帯びている。まだ完全な絵にはほど遠いものの、全体を判断するのに十分な部分は見ることができる。派遣された女性看護師を除けば、救いようはひとつもない。もし委員会が報告書の中で、証拠に基づいて発言する勇気を持つなら、英語で非難を表現するのに十分な強い言葉を見つけるのは恥ずかしいだろう。

もし委員会が報告書の中で証拠に基づいて勇気を持って発言するならば、非難を表現するのに十分な強い言葉を英語で見つけるのは困難であろう。このような事実の開示に鑑みれば、直接的な行為者たちだけでなく、何よりも遠征を手配した政府、そして事実を目の前にして、それを単なる作り話だと宣言する厚かましさを持った政府に対する強い憤りと軽蔑の光を抑えることは不可能である。イングランドに黄金時代が幕を開けるはずだった、あの偉大な万能連合[3]、つまり政治家たちの銀河系は今どこにいるのだろうか。ホイッグ派とピール派、ラッセル派とパーマストン派、アイルランド人とイギリス人、リベラル保守派と保守リベラル派の間で、彼らは自分たちの間で駆け引きをしている。

これらの政治家たちは、自分たちが30年間管理してきた機械が見事に機能すると確信していたので、不測の事態に備えて特別な権限を与えられた人物を送り出すことさえしなかった!生まれつき、また習慣からして前衛以下であった英国の閣僚たちが、突然指揮を執る立場に置かれ、英国の名誉を完全に失墜させたのである。ラグラン老人は、生涯ウェリントンの事務長を務め、自分の責任で行動することを許されなかった!そして、彼はそれを台無しにしてしまった。気の迷い、臆病さ、自信のなさ、堅実さ、主導権のなさが、彼の一挙手一投足に表れている。クリミア遠征が決定された軍議で、彼がどれほど弱々しく振る舞ったかは、今となってはよくわかる。サン・アルノーのような威勢のいい黒人に牽制され、ウェリントン爺さんなら乾いた皮肉の一言で永遠に黙らせただろう! そして、バラクラヴァへの臆病な行軍、包囲戦[4]での無力さ、身を隠すよりほかにすることがなかった冬の苦しみ。

そして、本国で軍を指揮するハーディンゲ卿は、性格的には同じように劣等生である。彼は古くからの運動家であるが、その行政や貴族院での答弁ぶりを見れば、兵舎や執務室から一歩も出たことがないと判断できる。戦地に赴く軍隊にまず必要なことをまったく知らない、あるいは覚えるのが面倒くさいというのが、彼のケースに最も好意的な見方である。

次に、ピールの事務官、カードウェル、グラッドストーン、ニューカッスル、ハーバート、そしてトゥッティ・クアンティが登場する。彼らは育ちがよく、見目麗しい若い紳士たちで、上品なマナーと洗練された感覚を備えているため、物事を乱暴に扱ったり、この世の問題で決断力を誇示して行動したりすることはできない。「配慮」とは彼らの言葉である。彼らはあらゆるものを考慮し、あらゆるものを考慮の下に置き、あらゆる人を考慮の下に置き、あらゆる人から考慮の下に置かれることを期待する。彼らにとってはすべてが丸く滑らかでなければならない。強さとエネルギーを示す角ばった形ほど好ましくないものはない。

軍が不始末によって破滅したという報告が軍からもたらされたとしても、温厚で信心深く、政府の完全性を先験的に確信しているこの紳士たちは、そのような否定をするための最も有力な根拠を持っていた。

この問題が根強く取り上げられ、戦地からの公式報告でさえ、このような発言の一部を認めざるを得なくなったときでさえ、彼らの否定はなおも険悪さと激情を伴って行われた。ローバックの調査動議に対する彼らの反対は、真実でないことに固執する国民の記録上最もスキャンダラスな例である。『ロンドン・タイムズ』紙、レイヤード、スタフォード、そして彼らの同僚であるラッセルまでもが彼らに嘘をついた[5]。下院全体が、3人中2人の賛成多数で、彼らに嘘をつき通したが、それでもなお彼らは我慢した。今、彼らはローバック委員会の前で有罪判決を受けたが、我々が知る限り、彼らはまだ我慢している。しかし、彼らの忍耐は今や小さな問題となった。真実がその恐ろしい現実のすべてにおいて世界に開示された以上、英国陸軍の制度と運営に改革が起こらないはずがない。

  1. Of Napoleon's army in 1812.—Ed.

  2. "The State of the Army before Sebastopol", The Times, No. 22007, March 21, 1855.—Ed.

  3. 1852年から55年にかけてのアバディーン連立内閣のこと。この「万能内閣」には、英国議会のホイッグ、ピール派(*)、アイルランド派の代表が含まれていた。
    (*) ピール派は、ロバート・ピールを支持する穏健派トーリーのグループであり、大地主と金融業者の政治的支配を維持する手段として、商工ブルジョアジーへの経済的譲歩を主張した。1846年、ロバート・ピールはコーン法の廃止を実現した(*2)。産業ブルジョアジーを優遇するこの動きは、保護主義派のトーリーに激しく反発され、トーリー党の分裂と独立グループとしてのピール派の出現につながった。ピール派はアバディーンの連立政権(Aberdeen's coalition government 1852-55)に代表として参加し、1850年代後半から1860年代前半にかけて自由党に加わった。
    (**) 穀物法は、15世紀という早い時期に制定された法律で、国内市場での農産物の価格を高く維持するために、農産物に高い輸入関税を課した。コーン法は大地主の利益に貢献した。穀物法をめぐる工業ブルジョワジーと土地所有貴族との闘争は、1846年6月の廃止で幕を閉じた。

  4. Of Sevastopol.—Ed.

  5. これは、1855 年 1 月 26 日と 29 日に下院で行われた、セヴァストポリの陸軍の状況を調査する委員 会の設置を求めるローバックの動議に関する議論の中で、レイヤード、スタッフォード、ラッセルが行 った演説のことである。タイムズ』1855年1月27日と30日、21962号と21964号。

余談:ランプを持った天使が持っていた「本当のランプ」は?

ナイチンゲールについては当時から様々なイメージが広がっていましたが、大変興味深かったのはロンドンのナイチンゲール博物館で、「ランプを持った天使」たるナイチンゲールが使っていた「本物のランプ」を強調する展示があったことです。

「ランプを持った天使」たるナイチンゲールが使っていたランプは、イラストで描かれたようなランプではなく、現地で使われている提灯のようなランプだったよと。

以下はサムネイルに用いたチェルシーにある英国陸軍博物館のナイチンゲール像で、ここでも奥にある「本物のランプ」が展示されているのが印象的です。

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久我真樹
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