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ナイチンゲールと近代看護 先駆者たる修道院看護と近代英国の修道院

フロレンス・ナイチンゲールは1845年に、「教育のある女性が(キリスト教修道女としての)誓約を立てずに加入できる看護師の団体の設立」を計画した。これは、当時の身分ある女性たちが看護の仕事に就くには看護修道女の立場しかなかった環境を変え、看護の仕事を宗教から自由にして、かつ修道女では得られない報酬も得ることで、職業として経済的自立も成立させようと目指すものだった。

「近代看護の創始者」とされることもあるナイチンゲールだが、彼女が看護を学び、実践する機会を持ったのは先行する「修道院看護」があったからだった。またナイチンゲール以前にも、病院主導での「看護学校」の試みもあった。

実際のところ、ナイチンゲールが率いた女性看護師のメンバーの多くは、こうした修道院で訓練を受け、実務に就いた看護修道女(ディーコネス)だった。

ナイチンゲールはこのような先行事例から学び、その上で「宗派によらない専門職としての看護師」「専門的スキルを持つ看護師」を確立しようとした(学んだ場所・機会などは以下のテキストで言及)。

これらを踏まえた上で、そもそもの疑問として、「なぜクリミア戦争の際、フランス軍には従軍する女性看護師がいて、英国にはいなかった」のか。

英国軍での「看護修道女の不在」を伝える『タイムズ』の報道が、ナイチンゲールの従軍のきっかけとなったことを踏まえ、ここでは英国の看護の状況を考察する。

本テキストの主要参考文献は『黙して、励め―病院看護を拓いた看護修道女たちの19世紀』であり、関心がある方は同書を読むことをオススメします。ここでは言及しませんが、アメリカの看護事業の話はとてもユニークで英国とも異なり、面白いです。

またナイチンゲールを中心として上記の歴史を解説するテキストでは、『ナイチンゲール、神の僕となり行動する』が非常にまとまっており、こちらも本テキストの主要参考文献となります。



修道院と看護

近代に続く修道院に所属する女性による看護の源流は、17世紀フランスにあるとされる。

1617年にヴァンサン・ド・ポールは、女性が慈善活動を行う受け皿となる「愛徳婦人会」を全国規模で創設した。この婦人会の参加者は(手を動かさない)身分が高い人々が多かったため、1633年に看護などの実践活動を行う「愛徳姉妹会」が、ド・ポールの協力者ルイーズ・ド・マリヤックによって組織された。

修道院に入る正式の修道女「ナン」は、信仰に生きるための正式の誓いを立て、修道院の外に出ることが許されなかった。こうした院外での活動を補う存在として愛徳姉妹会が広めたのが、伝統的修道女と異なり、信仰を実践して慈善活動を行う「シスター」たちだった。

ヴァンサン・ド・ポールは、修道院から出て使徒のように「善きはたらき」をすることが、信仰にかなうとする価値観の転換をもたらした。これは「祈祷」から「労働」という優先順位の変更となり、大きな影響を及ぼしたという。

カトリック修道院のシスターの社会活動はプロテスタントにも影響した。プロシアにも活動を広げた愛徳姉妹会の活動が注目を浴び、カイザースヴェルトの地でプロテスタントの牧師テオドール・フリードナーによる看護活動の実践を行うシスターたち(ディーコネス)を育成する事業が1838年に始まった。こうした「シスター」の活動は、社会での活動が制限された女性たちに、活躍する機会となった。

カトリックの「愛徳姉妹会」を源流とするシスターへの看護訓練や看護活動から、ナイチンゲールは多くを学んだ。彼女はカイザースヴェルトに行くことを焦がれ、また最後にパリで研修を受けた修道会こそが、近代看護の源流となるフランスの愛徳姉妹会の系列の修道院だった。

英国での看護と修道院

16世紀の修道院解体から19世紀の活動再開まで

英国の修道院による看護活動は、フランスよりも遅れる。それは、ヘンリー8世(1491-1547)がカトリックの修道院を解体し、英国国教会創設したためだった。カトリックは弾圧を受け、公職からも排除され、長い間、イングランド史の中で表舞台に立てなかった(※)。

カトリック修道院が復活するきっかけは、19世紀になってようやく訪れる。英国支配を受け続けた(カトリック信仰が強い)アイルランドによる政治運動が、歴史を変えた。

英国政府は1828年に国教徒以外を公職から排除する審査法の廃止、そして1829年にカトリックに様々な権利制限・禁止事項を設けた罰則を廃止する解放令を出し、公に禁じられたカトリック信仰が表に出て広まる環境が整っていった。

カトリック解放の後に生じた流れの一つが、修道院の復活だった。

後のクリミア戦争でナイチンゲールと対立することになるアイルランドから派遣されたブリッジマン尼僧長は、アイルランドの都市リムリックの「慈悲の姉妹童貞会」修道院でシスターとなった人物だった。彼女は都市キンセールで聖ヨセフ修道院を設立し、孤児院や学校運営や、現地で蔓延したコレラに対応する看護も行うなど、実務経験も備えていた。

アイルランドの「慈悲の姉妹童貞会」の活動はロンドンにも及び、1839年に創立したバーモンジー女子修道院には、同修道院からのシスターたちが派遣された。バーモンジー修道院長は、ナイチンゲールと共にクリミアに渡った修道院長マザー・メアリー・クレア・ムーアだった。

あまり伝わっていない事実として、メアリー・ムーアが率いる集団は、クリミア戦争に赴くため、ナイチンゲールよりも早くフランスのマルセイユに渡っていた。

ただ、ムーアはナイチンゲールの看護師団を待って合流し、かつクリミア戦争中、現地ではブリッジマンのように人事権も主張せず、看護にフォーカスする姿勢を貫き、ナイチンゲールを支える立場を堅持した。

ロンドンに拠点を構えたムーアは、反カトリックの中で適切に振る舞い、人間関係の問題も政治争いも避け、反カトリック感情を抑えてカトリックとプロテスタントの間に立てる人間だったとされる。

こうしたクリミア戦争への看護修道女の従軍には、当時の宗教をめぐる状況が関わっていた(後述)。カトリックにとってはシスターたちの従軍看護は、カトリックの影響力を宣伝する機会となっていた。また、当時のクリミア戦争の英軍兵士の1/3はアイルランド人だったともされるため、兵士の魂を救うこともその活動に含まれていた。

※余談ながら、ヘンリー8 世はカトリック教会とその修道院は財産を没収した後、それらを貴族などに売りつけ、英国史上に残る大規模な土地の所有権の移動が生じた。そうした所領が、貴族たちの屋敷「カントリーハウス」の一部となっていく。英国ドラマ『ダウントン・アビー』の舞台となる同名の屋敷ダウントン・アビーの「アビー」とは、この「修道院」を意味する言葉で、英国にはそうした修道院の名を関する屋敷が、実際にいくつもある。

プロテスタントの看護活動

カトリックに続く形でプロテスタントの看護学校としてはクエーカー教徒(フレンド派)のエリザベス・フライが、1840年に慈善修道会(後に「看護修道女会」に改名)を立ち上げたことが挙げられる。カイゼルスヴェルトで教育を受けたフライは、非国教会プロテスタントのための看護訓練を受ける場として、提携するガイ病院で三ヶ月の看護実習を受ける機会なども作った。

英国国教会では、1845年の英国国教会の修道会の聖十字修女会や、1848年のプリシラ・セロンによる慈善修道会(後に聖十字修女会を吸収)や、聖ヨハネ看護修女会などが立ち上がった。

聖ヨハネ看護修女会は、ロンドンのキングス・カレッジ医学部ベントリー・トッドと連携し、病院で近代看護を実践するための教育を受ける「看護師訓練学校」を創設した。その後、同修道女会は病院運営となるなど、ナイチンゲールの看護学校よりも早期に病院看護訓練を行なっていた。

聖ヨハネ看護修女会を統率したメアリー・ジョーンズは、1854年のコレラ蔓延時にナイチンゲールと病院看護で出会い、友人となり、クリミアの看護師派遣でも協力した。

クリミア戦争に派遣された看護団

シスターたちが修道院で活動を行えたのも、その地盤が英国内で整い始めていたのも、1829年のカトリック解放令による修道院活動が大きかった。

ナイチンゲールは看護師団の宗教バランスを取るため、カトリック、プロテスタント(非国教会)、そして英国国教会から人員を集めようとした。

このうち、派遣と協力に応じたのが、ローマ・カトリックのシスター10名(メアリー・ムーア率いるバーモンジー女子修道院から5名、ノーウッドの修道院から5名)、英国国教会のシスターから8名(プリシラ・セロンの慈善修道会)、メアリー・ジョーンズ所属の聖ヨハネ看護修女会から5名、そして英国各地の病院から14人の看護師から構成されていた。

プロテスタント系修道会への派遣打診は、彼らがナイチンゲールの統率に従うとする条件を飲まなかったので、行われなかった。また、この時点でアイルランドの修道院からの直接派遣提案もあったが、政府は断ったという。

クリミア戦争前の宗教問題

ナイチンゲールは看護師団派遣に際して、特定の宗教に偏らないように配慮した。それでもクリミア戦争中には偏りがあるとして批判を受けたり、彼女が望まなかった第二次派遣団の構成員・ブリッジマン尼僧長率いるアイルランドの修道女たちとの間に対立があったりと、問題を抱えた。

こうした宗教問題、特にカトリックのシスターたちを巡るの難しさの背景には当時の英国でのカトリックへの警戒心の高まりも影響していた。

クリミア戦争に英国が参戦する4年前の1850年に、ローマ・カトリック教皇がイングランドとウェールズにカトリック司教を配属する管区の設定を行い、教皇が人事を行う「聖職位階制度」の復活を公表した。影響力を強めようとするカトリックの動きに、英国国教会は強い危機感を持った。

この時の様子を解説する『ヴィクトリア朝の人びと』では、次のように記している。

当時の関心事において政府は確かに宗教よりも下位にあった。宗教は、1851年の前半を通じて大博覧会(万国博覧会)のニュースとともに、新聞の主要見出しを分かち合った。当時の人びとがそのように呼んだ「宗教上の危機」が続いていた。
(中略)
教皇の決定に対する公然たる反応の騒々しさと興奮とは、ずっと前からこの種の宗教上の危機を予見していたはずの福音主義派のアシュリをも驚かせた。彼はこう書いている。

「なんという驚くべき興奮か。それはいっこうに衰えない。国中のあらゆる町や教区で集会に次ぐ集会がもたれている。……それは大海を襲う嵐にも似ている。それは国民感情の盛り上がり、イギリスという国全体の反乱である。しばらくの間、あらゆる意見がこの一つの感情の中に浸りきっているように見える」と。

『ヴィクトリア朝の人びと』P.33

1851年にはカトリックの聖職者の活動を制限しようとする聖職者資格法案の提出も試みられた。また、ナイチンゲールの知人だったヘンリー・エドワード マニングが、英国国教会の副主教の立場からカトリックに改宗する大事件も起こる。政治家ウィリアム・グラッドストンがこのことを、「私は、あたかもマニングが母を殺したかのように感じたのです」と述べるほどに、国内に衝撃を与える事件だった(『ヴィクトリア朝の人びと』P.34)。

こうした出来事の後に、クリミア戦争へ看護師団が派遣されていることを踏まえると、ナイチンゲールが宗派のバランスに配慮し、それでも後に対立に巻き込まれたことも、不思議ではない(第一次派遣団で、アイルランドからの派遣を政府が断ったことも)。

クリミア戦争へのカトリック修道女の派遣理由は、先述の通り、戦争に従軍する英国兵の三分の一を占めると言われたアイルランド兵(カトリック信者)の心の救済や、シスターたちの宗派を問わない看護活躍の報道を通じて反カトリック機運が強い英国の中にいるカトリックの存在を伝え、信者を鼓舞する意図もあったとされる。

看護方針の違い

現地での看護現場では、修道女たるブリッジマン尼僧長と、看護を中心としたナイチンゲールでは考え方の相違もあった。ブリッジマンを中心とした「カトリックのシスター」たちは、「信仰」の立場を堅持して「看護」を行う立場にあり、心の救済も活動に含めた。カトリック信者たちの中には傷病兵に改宗を促そうとする者もいた。

一方、ナイチンゲールは看護から「宗教的要素」「信仰」を取り除こうと努め、「看護」を中心とした物理的な傷病兵の回復を中心として宗教面での「救済」を本義としなかった。

この辺り、ナイチンゲールはぶれていない。

繰り返しとなるが、彼女が1845年に「教育のある女性が(キリスト教修道女としての)誓約を立てずに加入できる看護師の団体の設立」を計画した最初の頃から、既に宗派を問わずに看護にフォーカスする視点に立っていた。

ただ、近代看護の概念や、教育の機会があることをナイチンゲールに示し、また実際にフランスでは研修する機会を与えてくれたのも、クリミア戦争の従軍看護師団(第一次派遣団)の中核を占めたのも、カトリックだったことは重要な点となる。

ナイチンゲール自身、かつてはカトリックへの改宗をマニングに相談したこともあったが、マニングは改宗を勧めなかった。ナイチンゲールは『思索への示唆』とする828ページの哲学思想書を記しており(6部だけ印刷)、英国国教会を批判している。この原稿を読んだ上でマニングは、ナイチンゲールがローマ・カトリックに適さないと判断したという。ナイチンゲール自身は宗派よりも「神の声を聞いて行動する」ということを重視していた。(『ナイチンゲール、神の僕となり行動する』PP.48-50に詳細あり)。

以下は、ナイチンゲールの書いたものである。

「キリストに倣うとはどういうことでしょうか?私たちが、やれ高教会派とか低教会派とか非国教会派とか正教会派とかいって、それに入ることでしょうか? いいえ。それは神のために生き、神を私たちの目標とすることなのです」

『ナイチンゲール、神の僕となり行動する』P.50

クリミア戦争でナイチンゲールが直面した様々な人事問題(宗教を含めて)は、別のテキストにて触れる。

主要参考文献


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