無駄のない世界は美しいか?
目に見えない数値化出来ないものを、今の世の中はとても軽視しているように感じる。0と1とドットでは測れないものは、まるでそこになかったかのように、価値なんてなかったかのように。
そして目に見えない何かを信じる人達を、まるで気持ちが悪いものを見るかのように見たり、お葬式も結婚式もお金の無駄だと省いたりする。
後に残らないものは、何の意味もなく、また死んだ人に使うなんて無駄金でしかないから。
でも本当に、目に見えないものは軽視していいのだろうか。
わたしたちは「心」という目に見えない、数値化できないものを内包して生きているにも関わらず。
心は数値化出来ない。
痛みは見えない。よろこびも感動も計れない。
けれどわたしたちは「傷つくことを恐れている」
目には見えない「心」が傷つくことを恐れている。
わたしたちは「よろこびを求めている」
そして、それは目には見えないから、どうやったらその「よろこび」を手に入れられるかわからず、迷宮入りしてしまう。
心は測れない、計れない。見えない。
どんなに血を流しても、誰にもわからない。
だから、自分自身で感じることしかできない。
他人のことは慮ることしかない。
痛みもよろこびも、心で感じる全てを。
目に見えないものを軽視しすぎる世界の中で、けれど人は「傷つかないように」ともがく。そして「優しさ」を求める。
世界は矛盾に満ちている。
欲しいものは目に見えないものなのに、目に見えないものは軽視される。
生産性のないものは、どんどん排除されていく。
美しい花壇には不要だからと、たんぽぽが刈られていくように。
無駄を省いた世界を求めていく先は、本当に求めた世界なのだろうか?
削って削って削っていったら、そこに残るのは無機質なナニカにならないだろうか?
目に見えない心が軽視されて不要になり、無駄は全て省いた結果、残るものはなんだろう?