掌編小説「救済」
僅かに雨の降る夜を抜けてアパートに帰り、階段を上って三階の自室に戻ろうとすると、虫が一匹廊下に座り込んでいた。虫といってもその身体は巨大で化物じみている。蜘蛛のような恰好をしているが脚は全部で十六本あり、右に並んだうちの三本が酷い怪我を負い、左の二本に至っては根元の関節から先が完全に失われていた。頭よりも小さい腹にも傷を負っている。至るところにある傷口から粘り気のある青白い体液を垂れ流し、息を荒げ、突然目の前に現れた俺を十二、三個ある眼で一斉に睨みつけた。
俺は横たわる化物に驚くだけの気力もなく、静止してただ目の前の虫を注視した。そのまま部屋に帰ろうとしたが、部屋は虫を越えたところにある。部屋に帰るには虫のすぐ真横を通りすぎて行かなければならず、仮に虫が自分に警戒心を抱いているのならば近づいた瞬間に襲われることもあり得るだろう。しかし、正直今の俺は自分の身を守ることにあまり興味がなかった。仕事で疲労が限界まで溜まり。色褪せたクタクタのスーツを纏って今にも倒れそうになりながらその場に突っ立つ俺は、この虫に食われることに何の恐れも抱かなかった。むしろその事実に感謝した。今食われれば自分からは何のアクションも起こさずに会社を辞められる。強いて言うなら、少しばかり前に進めばいいだけだ。食われなければまた明日も普段通りに出社し、何事もなかったかのように無心でタスクをこなすだけだろう。そうなればいかなる遅刻も許されない。遅刻しないためには一刻も早く部屋に帰って即座に仮眠をとらなければならない。虫が自分を襲うか否かがはっきりとしない今、後者になる可能性を捨て切ることはできなかった。だから俺は躊躇せず前に進んだ。バカデカい虫も何のその、真横を通って部屋の扉ひとつを求めて前進した。
「おい、僕を見て何も思わないのか。てっきり雄叫びを上げながら逃げ去るものだと思っていたが。物怖じしないのならばちょうどいい。どんな方法でも構わないから体の傷を塞いでくれ」
俺の背中を大量の眼で追っていた虫は突然言葉を流暢に操って俺に救けを求めてきた。虫のいくつもの関節がキシキシと音を立てて微かに蠢いている。
「大体の人間は僕の姿を見ると一目散に逃げていく。失神してぶっ倒れる奴もいた。同胞達には裏切られ、もはや僕をひとつの命としてまともに扱ってくれる者は誰ひとりとしていなくなった。そこにお前が現れたのだ、僕の雄大な姿にも怯まないお前が。これは何という幸運だろう。頼む、今の僕にはお前しかいない。救けてくれよ。救けてくれなかったら怒りで殺しちまうかもしれない。死にたくはないだろ」
「脅しか? 脅すなら俺は救けないよ。お前は俺に救けを乞うている訳だから、それならもっと言い方ってもんがあるんじゃないか。なんでお前がここに迷い込んで何でそんな傷を負っているのか知らないが、その態度が一因になっているんじゃないのか。同胞とやらに裏切られたのだってそうだ」
俺の何よりも大切な睡眠時間を浪費してまで繰り出すものが何かと思えば強者気取りの尊大な要求で、やはり見た目通りの醜態に辟易として吐き捨てた。今俺の頭の中でこのちっぽけな虫と己の睡眠とを天秤にかけたら、間違いなく後者に傾くはずだ。いつの間にか冷徹な社会に染まった俺の身体には、無償の愛など微塵も残ってはいなかった。
「悪かった、悪かった。申し訳ない。この通りだ。だからどうか救けてくれ。傷をちょっと塞いで血を止めてくれるだけでいいんだ」
俺は首を縦に振らなかった。その代わり虫の眼をじっと見つめてその誠意を推し量ろうとした。すると眼のひとつひとつに宿っていた生命の覇気はみるみる消え失せ、段々と焦燥の色が実に鮮やかに浮かんできた。
「頼む。救けてくれ。じゃなきゃ俺はあと少しで死んじまう。まだ両親に孝行だってできてない。今くたばる訳にはいかないんだ」
「俺にはお前の父母が存命なのか、そもそも存在するのか、したのか、それらを確かめる術がない。どれだけ感動的で涙ぐましいことを語られたとして、それを嘘だと断定することはできないし、また逆に真実だと信じ切ることもできない」
冷めた顔で突っ立つ俺を前に、虫の眼にはじわじわと涙が浮かんできていた。俺もなぜここまで冷徹になれるのか分からない。言葉という得物でひとつの命運を弄ぶことに並々ならぬ快感を覚えてしまっているのかもしれなかった。
「一体何が理由でそこまで拒むんだ。なぜそんなに冷酷なんだ。僕もお前も、形は違えど同じ命なんだぞ。傷は汚いかもしれないが、頼むよ、僕を救ってくれ。お前は自分が倒れた時、誰かに救けてほしいと望まないのか!」
「望まないな」
「ならお前は何が望みだ。何をお礼に渡されれば僕を救けてくれるんだ」
「俺をこの現実から引きずり出してくれるのなら救けてやる。つまりお前は俺を八つ裂きにしてくれればいいんだ」
虫の声はわなないて、悲痛に叫んだ。
「そんなことできる訳がないだろう! なぜ救けてくれたお礼に命の恩人を殺さなきゃならないんだ。それを断行する奴も、それを望むお前も、とてもじゃないが正気とは言えないよ」
「なら、救けられないな」
喚き散らし動けなくなった虫を尻目に自室の扉を開け、中に入り、扉を閉めて固く鍵をかけた。虫が朽ちるのを見るのもよかったが、今の俺にその時間はなかった。虫は俺には分からないだの救けてくれだのと叫び続け、三十分もするとあたりは静まり返り、室内には微かな雨音だけが響いていた。
(了)
【本作について】
・2024年10月19日、BFC(ブンゲイファイトクラブ)6に応募
・同年10月30日、BFC6一次選考突破
・同年11月3日、BFC6二次選考落選