「数」じゃないのよ、あなたの価値は。
こんにちは、くどちんです。キリスト教主義学校で聖書科教員をしている、牧師です。
先日来、世間を(良くない意味で)賑わしているニュースに、暗い気持ちになっておりました。あの、回転寿司だのうどん店だのの「悪ふざけ」では収まらない類の話です。
日頃から中高生と関わる立場でもあるので、若い人たちのそういうニュースには何となく他人事でいられない気持ちが湧いてしまう。今回の件は私の教え子ではないけれど、じゃあ彼らがそういう行為に走ってしまったのはなぜなのかなぁ、私の関わってきた生徒さんたちがそれをしないのはなぜなのかなぁ、その差には何があるのかなぁ……などといろいろ考えてしまうのです。
やってはならないこと、だけど、それをやって見せることで、誰かが注目してくれる。根っこはそんなところではないかと思うと、「私の存在を認めて欲しい」という叫びが、ねじれてこじれて間違った方向性で噴出してしまったケースなのかな……なんて思ったりするのでした。
「私は人から認められている」「私は意味のある存在として見てもらえている」という感覚は、たぶん誰にとっても大切な、必要なものです。
それが昨今では、数値化されやすくなってしまっているのかもしれません。「人生ゲーム」も、フォロワー数を競い合う「インフルエンサー版」なんてものがあるんだとか。
「より多くの人に注目されることが存在価値の指標」だと思うならば、何としても、どんな手を使っても、つまりは「炎上狙い」で投稿するという展開は、そういうことをやってしまう動機付けについては理解できます。
「私は認められているのか」「私はここにいていいのか」
そういうことに葛藤するのは、とても苦しいことです。私自身も、「自分の人生の意味って何なんだろう」と何度となく考えてきましたし、生きるのが苦しくなる程悩んだことも一度二度ではありませんでした。
先日読んだ記事に、「有用感」という言葉が出て来て、ものすごく腑に落ちたのですが。
昨年のデジタル記事が、紙面での連載になったようで、私は紙ベースで第1回を読みました。
出世とは無縁な記者が、新型コロナも相俟ってメンタルの調子を崩し、職場でも「有用感」が持てずに苦しみ始める。
「俺ってあんまり役に立ってないよな」と落ち込む彼の言葉は、私を含め、多くの人が「自分もそのように思っていた」と共感するものではないでしょうか。
結局この方は、精神医療への取材経験から「自分の今の状態は早めの対処が必要」と思い立って、一年間の休職を選び、これまで縁の無かった大分県で、とある法人の「研修生」として無給で過ごすことにされたのでした。以下、次回を待て!(私もまだ読んでません。次は2月12日に掲載予定だとか)
「有用感」の持てない苦しみ。「自分は役に立っていない」「自分の存在は誰からも評価されていない」という焦燥感。
「多くの人に存在を認められている」ということが、フォロワー数や稼ぎの多さといった数字で測られがちな時代には、その焼けつくような痛みはさらに大きなものになってしまうのでしょう。
冒頭に引用した聖句は、有名な「見失った羊」のたとえです。
有名ですが、「よう分からんわ、納得いかんわ」と思っている人も多いかもしれません。私も生徒さんたちからよく「そんなん言うても、それやったら99匹はどうなるねん」というようなツッコミをもらいます。わかる。ほんまそれな。(大阪の学校なので、こんなやり取り)
もちろんいろんな解釈の可能なこの聖句ですが、私は今ここでは、「結局な、『数』じゃないってことなんよ」と言いたい気がします。
私たちはすぐ「1:99」の物語として、数字にフォーカスしてこの物語を読んでしまう。
けれどもイエスが仰ったのは、「そうやって数で測って、あっちが多いとか、こっちが勝ってるとか、そういう話をしてるんとちゃうねん。他ならぬ『お前』が大事やっちゅう、そういう話やねん」ということではないでしょうか。(私にかかるとイエスさままで大阪弁です、すみません)
もちろん、私たちが生きる地平では、「そんなんきれいごとやん」と言われてしまうでしょう。でも、きれいごとでいいじゃないですか。きれいごとの存在する余地の無い世界なんて、それこそ地獄じゃないですか。きれいごとを「きれいやなぁ、それがほんまに実現していったらええなぁ」と思うところから、神の国は始まるのだと信じます。
あなたも私も、誰かと比べて数的に優れているとか劣っているとか、そんな風に存在を測られて良い存在ではありません。
「誰にも認められていないのではないか」と、自らの「有用感」に疑いを持ってしまう時があったら、「他ならぬイエスさまは、誰かとの比較ではなく、私のことを認め、求め、愛してくださっている」ということを思い出して、少しでも慰めを得て欲しい。そしてそこで痛いほどの渇きをほんの少し癒せたら、この世が命の水に満ちた潤った神の国になるように、共にまた歩み出して行けたら。そのように祈ります。