マリオメーカーが教えてくれた「苦難」の味わい。
そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。
新約聖書 ローマの信徒への手紙 5章3-4節 (新共同訳)
こんにちは、くどちんです。キリスト教主義学校で、聖書科の教員をしている牧師です。
この冒頭の聖句、皆さんはどうお感じになるでしょうか。
私の周りでは、割と「ウケがいい」聖句です。「そうだ! だから歯を食いしばって頑張ろう!」みたいなストイックな感じが良いのでしょうね。それも分かります。
が、正直「ちょっとしんどいなぁ……」と思う気持ちも、私の中にはあります。「苦難に対して忍耐して、それも練達に結び付くほど忍耐して、その上でようやく希望が見えてくるのかァ……。遠いなぁ……。もう少し気楽に生きたいよ……とほほ」みたいな。怠惰なのかへっぴり腰なのか分かりませんが。
「頑張っている人に『頑張れ』と言うのは酷だ」というようなことを聞きますが、それと通じるところもあるのかもしれません。「もうええやん、そんな無理して頑張らんでもええやん。っていうかみんなもう十分頑張ってるんちゃうん」という気持ちになるのです。
「苦難は忍耐を……生むかもしれない。それは練達や希望に繋がるかもしれない。でも逆に、苦難から逃げてもいいこともあるかもしれない」。そんな、「ぺこぱ」的な捉え方も「アリ」だといいなぁ。
一方で、「なるほど、苦難もしんどいだけではないのかもしれない」と思わされた出来事もありました。
子どもたちが「スーパーマリオメーカー」というゲームソフトで遊んでいたときのことです。ご存じの方も多いかと思いますが、これは自分で「スーパーマリオ」の新しいコースを作って、それで遊べるというゲームです。「自分でゲームを作れる」なんて、「初代ファミコン世代」の私からすると、驚天動地の画期的なゲームです。
これを子どもたちが買ってもらって楽しそうに遊んでいたのですが、わざわざめちゃくちゃ難しいコースを作るんですよね。「そんなん絶対クリアできへんやろ!」という、やたらとハードなコースを作って、自分たちでプレイして、毎度同じ場所ででっかいパックンフラワーに食われてはゲハゲハ笑い転げながらやっている。
スタートからゴールまで、ただただ走り抜けるとか、広い間隔でクリボーがのそのそやって来るだけとか、簡単なコースはいくらでも作れるし、それなら必ずクリアできるけど、そうはしないんですね。それでは面白くないのです。
これってすごく示唆的だなぁと思ったのでした。
全く苦難の無い平坦な道のりも、手ごたえが無いし成長も無い。でも、乗り越えにくい山があるからこそ、努力して工夫して何とかそれを克服しようとするし、それが達成できた時には大きな喜びを感じられる。
ゲームの話で大げさな……と思われる向きもあろうかと思いますが、スポーツなどにも共通したものがありますし、文化祭などの学校行事で生徒の皆さんが味わっているのも同じものなのかな、と思います。
そう考えると、「苦難が最終的に希望を生む」というのは、この言葉を読む人にとって「分かる、そういうことってあるよね! あれって達成感あって気持ち良いよね!」という共感に繋がるのでしょう。
でも……と、ここでまたクドウは思うのです(めんどくさいやっちゃな)。「忍耐すべき苦難と、そうでない苦難っていうのもあるんじゃないか?」ということを。
先日来特に考えさせられている差別の問題などはその筆頭です。不当な差別に耐えている人に、「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むんだよ! ファイト!」なんて言って口を塞いでしまってはいけません。そういうことは歴史の中で何度も行われてきたのだと思います。繰り返してはなりません。
差別とは少し話が逸れますが、「おかしいことにおかしいと声をあげる」人を応援したい……という話を以前書きました。
差別や不当な抑圧に対して「これはおかしい」と声をあげることも、本当に勇気の要ることです。そういう人に対しては忍耐を勧めるのではなく、連帯して声をあげていけた方が良い。
自らの成長に繋がる忍耐であれば、その人が前向きな気持ちで頑張れると思います。そういう時の励みとして、この聖句が活かされればと願います。でも聖書の言葉が、誰かを黙らせたり抑圧したりすることのために使われてはならない。そうも思います。
聖書の言葉は「命のパン」(ヨハネによる福音書6章)。人を満たし、人を力付け、人を活かすものとして味わっていきたいものです。