「世界の中心」じゃなくて「ベンチ」から愛を叫ぶ
いかに美しいことか
山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え
救いを告げ
あなたの神は王となられた、と
シオンに向かって呼ばわる。
その声に、あなたの見張りは声をあげ
皆共に、喜び歌う。
イザヤ書 52章7-8節
こんにちは、くどちんです。キリスト教主義学校で聖書科教員をしている、牧師です。
プロ野球が開幕しましたね。野球観戦が好きな私としては、わくわくする日々です。応援するチーム(私は生まれも育ちも大阪です、お察しください(笑))は開幕から連勝し、なお嬉しいこの3日間。
でも実はそのチームではない別の選手のことを、「心の師」として仰いでおります。それが、福岡ソフトバンクホークスの松田宣浩選手。
「熱男ーーー!!!」と叫ぶパフォーマンスで知られる方です。
お正月だったか、野球の日本代表、いわゆる「侍ジャパン」の特別番組を放映していたのを見ました。以前から、「熱男」パフォーマンスは知っていたし、バラエティ番組などに出演されているのを見ても「面白い人だなー」と好ましく思っておりました。でもこの特番を通じて垣間見た選手としての姿勢に、深く学ばされるものがあったのです。それは、彼がスタメンから外された時にも、「声出し」でチームを引っ張る姿でした。
量販店で買って来たという「必勝」ハチマキを巻いて、「ここ、何て書いてある?!」と試合前のメンバーにその2文字を示し、みんなの空気をあたためる。試合が始まってからもベンチの最前列に陣取って、記者席まで届くほどの声でプレーヤーたちを励ます。自分が試合に出られなくても、「熱男」としての自分の存在感でチームのために力を尽くす。そして勝利の歓喜の輪にも、真っ先に駆け出して行く。
自虐クドウはつい「私なんて」と思いがちです。「スタメンから外されてチームの役に立てない私に応援されても、みんなにとっては煩わしいだけかも」なんて、言われてもいない非難が聞こえてくるような気になって、ベンチの奥に引っ込んでしまいそうなところがあります。
でも松田選手の姿を見ていて、「ああ、『力になる』っていうのは、単にプレーだけの話じゃないんだな、もっと見えない形での貢献や奉仕というのがあるんだな」と痛感しました。そして、「私も教員として、牧師として、こんな風に相手の心を燃やす、あたためる、『熱男』になれたらな」と思ったのでした。
以来、松田選手を「心の師」とするようになりました。なかなか真似することは難しいのですが、いつも胸ポケットに小さな「熱男」を入れておくような、そんな風になれたらいいなぁと願っています。
教員はどちらかというと、つい「できていないところ」を指摘する役目を負いがちです。それはともすれば相手のやる気を削いだり、自信を失わせたりしてしまうことにもなりかねない部分があります。でも心に「熱男」がいれば、「よーし、次はこうやってみよう!」という前向きな声掛けができそうな気がします。
聖書の中では、「福音(喜びの知らせ)」と「裁き(罪への糾弾)」の両方が語られます。裁きを語らない、というのは単なる甘えや現状追認になってしまいそうですが、「裁きを語るのは何のためか」ということを忘れてはなりません。それはつまるところ、救いという福音に至るためのものだと思うからです。
単に悲しみや力不足から目を背ける、というのではありません。困難があっても、達成が難しく思えても、「大丈夫、よくやってる!」「ここで応援しているよ!」「あなたのことを見ているよ」というメッセージがベンチから響いてくれば、もう一球力いっぱい投げてみよう、もう一回恐れずに走ってみよう、という力が湧いてくると思うのです。そうすることで、「勝てるかどうか」ではなく、「自分一人では叶わなかったはずの一歩が踏み出せる」、そんな「救い」を得られるような気がするのです。
有名な、「You raise me up」という曲の歌詞は、こんな言葉で締めくくられていましたっけ。
You raise me up to more than I can be.
「あなたと共にいるよ」「あなたを見ているよ」「あなたが消沈した時にもあなたを助け起こしてくれる存在があるよ」。そんな喜びの福音が語られる時、きっと私たちは「私以上の私になれる」のでしょう。
新年度を迎えようとしています。また新たな生徒さんたちとの出会いが待っている春です。生徒さんたちにとって「神さまがあなたと共にいるよ、神さまはあなたを愛しておられるよ」という喜びの知らせを、ベンチから力いっぱい叫んでいく者でありたい。そう心に刻み直すこの頃です。