死んでお別れじゃないって思いたい ~スーパー歌舞伎Ⅱ「新版 オグリ」を観て
「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
新約聖書 ヨハネによる福音書 16章33節 (新共同訳)
こんにちは、くどちんです。大型連休突入と言いつつも、今はどこにも出かけられませんね。
この度の感染症拡大で、多くの演劇が中止になってしまいました。この数日で7月辺りの公演予定まで次々中止が発表され、劇場の空気を吸って生きている私はもう息も絶え絶えです。
一方、多くの団体や俳優さんたちが、「Stay Home」の中でも演劇の空気を味わえるようにと様々な取り組みをされています。
YouTubeでの舞台作品配信もその一つ。先日は松竹チャンネルで、京都南座で上演予定だった「スーパー歌舞伎Ⅱ 新版 オグリ」(市川猿之助オグリ)を観ました。公演は中止になったけれど、無観客で収録してくださったものです。めっちゃ面白かったー!
ただ、舞台奥に鏡面を設置する演出で、空っぽの客席が映るのが寂しかったです。あそこに私も映ってたのかなぁと思うと、しみじみ辛かった……(チケット取ってました)。誰もいない所に向かっての「客席いじり」や、客席いっぱいに降り注ぐ紙吹雪も、本当は舞台と観客が一体になって盛り上がる場面だったんだろうなぁ。そう思うと、私も切ないけれど、役者さんや関係者の皆さんの無念はいかばかりか……と心が痛んだのでした。
それはさておき。第三幕の「千僧供養」の話を観ていて、宗教改革のきっかけとなったという、かの「免罪符」のことを思い出しました。
「千僧供養」というのは、いろいろあって一回死んじゃったオグリが地獄で大暴れした挙句、全身重い病に侵された姿で娑婆へ送り返され、善意の人たちの手で土車に乗せられて熊野の湯の峯を目指すというくだり。「一引き引いたは千僧供養、二引き引いたは万僧供養」。つまりこの病人を熊野まで引いて行く道のりを手伝えば、死者への弔いになるんですね。オグリの恋人だった照手姫は、この病人が甦りのオグリだとは気付かず、亡き夫への供養のため健気にこの車を引いていく……というお話。坂東新悟さんの照手が可憐で清らかでめちゃ良かったです。
死はどうしようもなく人と人とを引き離します。人はそれでも、その愛する誰かに対して「何かしてあげたい」と願うんだなぁとつくづく思いました。坂東新悟さんの照手姫からはその純粋で切なる思いがひしひしと伝わってきました。
死してなお終わらない繋がりを、人は求めているのだろうな。
宗教改革というのは、16世紀、教皇が「これを買えば罪の償いが軽減される」として「免罪符(贖宥状)」などと呼ばれるお札を売ったことに、「そんなの本当の悔い改めじゃなーい!」と怒ったルターさんが、カトリック教会と袂を分かつことになっていった……という世界史で習ったアレです。この出来事の先に、私も属するプロテスタントという教派が生まれます。
この免罪符、本人の罪もだけど、すでに死んでしまって「煉獄(れんごく。一発で地獄行きとはならないような普通の人が、天国行きの前に一旦ここで生前の小さな罪を清算する所)」で苦しむ今は亡き親などにも有効とされたといいます。商売上手ですね。自分のためより、愛するあの人のためになるって言われたら、買いますよね。まして、それ以外に直接何かしてあげることができない死者相手なら、なおさら。(褒めるところじゃないのか)
実は授業で、高校生と「デス・エデュケーション(死の教育、死生学などと言われます)」的な学びを始めて何年か経ちます。21世紀生まれでさえ、やっぱり死に対しては一筋縄ではいかない、割り切りきれない思いを持っています。もちろん、「天国がある」とか「善行を積めば救われる」とか、そんな神話的解釈を単純に受け入れるのも難しい「科学的価値観」を深く内面化してはいるのですが。
「千僧供養」はいいことで、「免罪符」はルターさん的にダメなことだとされました。でもいずれにせよ、「死んじゃったあの人にはもう手が届かない」と思うことは私たちにとってすごく辛い、「何かしたい」のが人の情……。そこは、洋の東西を問わないようです。
天国や復活がそのまま受け入れられなかったとしても、「死んで終わりではない」という世界観を示してもらうことで、悲観から脱却する力がもらえる。宗教という「物語」には、そんな支えを提供する力があると思うのです。
冒頭の聖句は、自分が死ぬことを予言したイエスの言葉です。
「私はもうすぐこの世を去る。しかし私は世に勝っている」。
「なんのこっちゃ」とも思うけれど、「死によって隔てられることへの絶望」の渦中にある時、こういう「理屈を飛び越えた希望の言葉」がずんと胸に響く感じは、分かる気がします。「俺は死んでも大丈夫! 死でお別れなんかにゃならないぞ!」って言われたような頼もしさ。
「一引き引いたは千僧供養」も、現代人の感覚では「なんでこの車引いて死者が報われることになるねんな」と思うわけですが。物理的、客観的になす術も無いからこそ、「何かしたい」という切実な思いを掬い取る装置として、宗教や信仰が機能するのかもしれません。
(かといって、そういう人の切なる願いに付け込んで金品を巻き上げるようなヨクナイ人もいると思うので、注意は必要です。……悲しい人の世だ。)
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