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相手を思えばこそ、「勝手に代弁しない」でちゃんと聞く。
イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた。彼が近づくと、イエスはお尋ねになった。「何をしてほしいのか。」盲人は、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言った。
新約聖書 ルカによる福音書 18章40-41節 (新共同訳)
こんにちは、くどちんです。キリスト教学校の聖書科教員をしている、牧師です。
先日参加した「ふれしゃかフェス」というオンラインイベントで、マサキチトセさんのお話を伺い、大変勉強になったので、以来Twitter の方もフォローさせていただいておりますが、つい先日こんなお話が。
セクハラ被害から髪の毛ファサァまで、何ごとも
— FAT CATS マサキ|7/31営業再開|群馬県館林市のカラオケダイニング (@BARFATCATS) July 24, 2020
「きっとこう思ってるけど、言えないんだろう」
「代わりに自分が言ってやろう」
っていう発想がいかに危険かって話よ。
面白いと思ったり共感したらリツイートしてね。 pic.twitter.com/RzBltW1ekd
お話のしかたといい、2分少々という動画の長さといい、「ちょうどいい分かりやすさ」で思わずクスリと笑えたりもするのですが、すごく本質的で大事なことを仰っているなぁと、これまたしみじみ学ばせていただきました。
そして思い出したのが、冒頭の聖句。
「道端に座って物乞いをしていた」盲人は、イエスが近くを通られると知って、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び出します。当時盲目であるということは「罪の結果」と捉えられていたそうです。社会から爪はじきにされたこの盲人は、物乞いをすることで生き延びるような立場に置かれていたということです。その彼が、イエスの到来を知って必死で声をあげ始めます。周囲の人は「叱りつけて黙らせようとした」ようですが、彼は諦めませんでした。そんな彼に気付いたイエスは、彼を呼び寄せこう言います。「何をしてほしいのか」。
……って、分かるやろ!!!
とツッコみたくなる関西人気質。目が見えないという理由で、物乞いをせざるを得ない立場にある人に、「何をしてほしいのか」なんて、聞かんでも分かるやろ! 見えるようにして欲しいから呼んどんねん! ……と、つい思ってしまう。
でもこれこそが、「勝手な代弁」なんですよね。「目が見えなくて苦労しているんだから、見えるようになりたいに『決まっている』だろう」と。
イエスは「勝手に代弁」しません。きちんと彼と向き合って、彼の思いを、彼の言葉で聞こうとする。「何をしてほしいのか」。そこで彼は答えます。「主よ、目が見えるようになりたいのです」。
改めて読み直しても、すごいやり取りです。深いところで、熱く純度の高いものが激しく流れ、行き交っているような印象を受けます。
この場面を思うと、果たして私はどのくらい人と「向き合って」いるのだろうか、と厳しく問われる思いがします。いつもどこかで、「この人はこう思っているに違いない」「この状況ならこういうことを望むはず」と、自分の物差しで相手を計ってしまっているのではないか。
マサキチトセさんが電車内で出会ったおじさんも、「その人の物差し」で「マサキさんの思い」を計って、「勝手に代弁」しちゃったんですよね。良かれと思って。善意のつもりで。それが正義だと信じて。でもマサキさんは、「言ってない! あたしそんなこと言ってない!」と思われたわけです。(このくだり、マサキさんの語りが最高潮に面白くてお腹痛くなるけれども(笑))
「正しいことだと思って勝手に代弁する」、これってめちゃくちゃ「あるある」な気がします。「あなたはこうしたいんでしょう?」「本当はこう思っているんでしょう?」 親の立場でも、教員の立場でも、いくらでも言えてしまいそう。くわばらくわばら。うー、でももうすでに今までにいっぱいやっちゃっているのも分かっている。そしてこれからもまたどこかでやっちゃうのかなぁ。反省。日々反省。考えたらいろいろ思い出してしまって、穴があったら埋まりたい……。うー。(自虐クドウ発動)
ともあれ、自戒しててもやってしまうんだから、怖い。自戒しようという思いさえ持てなければ、きっともっと、ものすごい正義漢面して四方八方決めつけてしまうのでしょう。あるいは私もすでにたくさんそれをやってきてしまったのでしょう……。
高校生の生徒さんたちと、死について共に学ぶ授業をしていますが、いのちを巡る課題の中でも私たちは、善意のつもりで「代弁」をしてしまいがちだと感じます。近頃のニュースを聞いていてもそんなことを思います。優しい顔で、正しいトーンで語られる「死なせてあげる方が親切」という声には、何とも言えず、胸が詰まります。
「誰かのために」と何か言おうとする時、「それは本当は誰の言葉なのか」と真摯に自分に問い直すことを忘れないようにしたい。正義のふりをして「代弁」できてしまうことに、注意深くありたい。
「あなたは、本当は何をしてほしいのか?」 イエスさまに倣って、目の前の人ときちんと向き合い、その声にまず耳を傾ける者でありたいと願います。そうすることで、一人一人が真の意味で大切にされる「神の国」が実現していくのだと思います。