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「選ばせる」という信頼と愛 ~失敗名鑑 聖書編 #01 アダムとエバ~

神は言われた。
「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」
アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」
主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」
女は答えた。
「蛇がだましたので、食べてしまいました。」
旧約聖書 創世記 3章11-13節 (新共同訳)

こんにちは、くどちんです。キリスト教学校で15年、聖書科の教員をしている牧師です。

以前『失敗図鑑』という本を読んで、「聖書の話でも『失敗名鑑』が作れそうだ」という記事を書いておりました。

ずいぶん間が空きましたが、書いてみようと思います。改めまして、名付けて「失敗名鑑 聖書編」。

記念すべき一発目は、皆さまご存じアダムとエバでしょう。「アダムとイヴ」という呼び名でご存じの方も多いかも。「イヴ」は、エバの英語読みです。聖書(新共同訳)の表記はヘブライ語ベースで「アダムとエバ」。聖書の登場人物で一、二番に有名と思われるこの二人について考えてみました。

神さまが最初に作った人間、アダム。そのパートナーとして、文字通り彼の「一部(part)」から作られたのがエバ。二人は支え合うものとして作られ、エデンという楽園で暮らしておりましたが、二人して神さまとの約束を破ったために、楽園から追放されます。大失敗ですよね。「食べちゃダメ」と言われた木の実が気になっちゃったばっかりに、せっかくののんびりハッピーライフを失ったんですから。

「創世記」という旧約聖書の初めの、その中でも本当に最初の所に出てくる話なので外せんだろうと、授業でも必ず扱う聖書箇所です。生徒さんたちとこの箇所を勉強していると、「神さまは意地悪だ。それなら最初からそんなもの置かなければいいのに」という感想がよく出てきます。

そうだよね~、トラップだよね~。分かる分かる。ただね、「失敗しちゃいけないから挑戦させない、約束を破らないように初めから約束しない」というのが「優しいこと」なのかどうかは、考える余地があるのかも……?

たとえば赤ちゃんの離乳期には、「手づかみ食べ」が大事な時期があります。ご想像いただけるでしょうが、これめちゃくちゃ大変です。テーブルはぐっちゃぐちゃ、床にもぼろぼろ落ちるし、何ならぶん投げられて壁にまでご飯がへばりつくし、その手であちこち触るから顔も髪もべとべと……。正直なところ、大人が食べさせる方が楽です。でもその時期をぐっと耐えて練習させるうちに、「自ら食べる」という、生きる基本となる意欲や力へ繋がっていくわけです。

歩き初めだって、見ていると危なっかしくて手を出したくなる。でも大怪我のリスクさえ無ければ見守った方がいい時もあります。自転車の練習もそう。小学校に上がって、持ち物や時間割を揃えるのだってそう。相手を思えばこそ、「きっとできると信じて、ある程度のリスクは引き受けつつ、敢えて挑戦させる」場合ってあるんですよね。アダムとエバに対しても、「神さまに従えるかどうか見守る」という部分があったのかもしれません。

また、「神さまとの約束に従うかどうか」を、「選べる」状態にされていたと考えることもできます。神さまなら一方的に「従わせる」ことだってできたでしょうに、「破る」「逆らう」の選択肢が残されていたというのは、なかなか味わい深い点だと思いませんか。

以前「女性の平均寿命が長いのは、夕食の献立を自分で決めるから」と冗談のような話を聞いたことがあります。「夕食を作るのが女性」というジェンダーバイアスについては別に考えるとして、「夕食に食べたいものを自分で選ぶ」ことが寿命の長さに影響する、という考えが面白いと思いました。自らの欲するところを自ら掴み取るというのは、それくらい人にとって大事なことなのかもしれません。

そうすると、神さまが「食べてはならない実のなる木」を置かれたのは決して罠でも意地悪でもなくて、「きっと神さまとより良く向き合えるはずだ」という信頼と、「でもどうしたいかはあなたたちが選びなさい」という自由を人に与えられたということなのかな、と思えてきます。

楽園を追い出されるのは、挑戦とのひきかえとしてはリスクが大き過ぎると言われるかもしれません。挑戦の結果「失敗」し、エバには子を産む苦しみが、アダムには耕さねば食べられぬという宿命が課せられました。うーん、確かに重い。

だけどそれは単なる罰なのでしょうか。私はなんだかそうは思えません。「それでも、生きてゆけ」という、神さまの深い見守りの眼差しを感じるからです。

楽園を追い出される時、「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた」とあります。裸で、身を守る術を持たなかった二人を包み込む「皮の衣」。そこからの歩みは確かに苦労の多いものになりますが、神さまの守りは肌身離れず彼らと共にあるのです。

今も私たちは、自分の人生を(ある程度)自分で選ぶことができます。善いことも悪いことも、しようと思えばどちらもできてしまう。「悪いことはできない」と端からインプットされていれば楽でしょうけれど、私たちは「選べてしまう」のです。だからこそ、葛藤や苦悩を味わいながら、自分にしか選べない道を、唯一無二の人生を、歩むのではないでしょうか。

苦労や苦痛の伴う人生を歩むことになったアダムとエバですが、助け合い、やがて子を産み、耕し、育て……と、「それでも」生きていきます。

苦労があるから不幸せなのか、苦痛が避けられないから無意味な人生なのか。その問いに対して、おずおずとではありますが、私は「否」と答えたいのです。

彼らの「失敗」は、より深いレベルで神さまと向き合うための、ステップとなったのかもしれません。

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