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決めつけちゃわないで、対話してみたら?~失敗名鑑 聖書編 #06 カイン~

時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。主はカインに言われた。
「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」
カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。
旧約聖書 創世記4章3-8節 (新共同訳)

こんにちは、くどちんです。キリスト教学校で聖書科教員をしている、牧師です。

「失敗名鑑」などと銘打って、聖書の登場人物に触れる記事をいくつか書いていたのですね、私!(忘れてたんかい) ちょっと久々にそんな流れで聖書を取り上げてみましょうかね。

はい、そこで今日ご紹介するのが、カインです!(テレビショッピング風)

「カインとアベル」の物語は、旧約聖書の創世記というところに出てきます。絵画のモチーフになったり、戯曲や現代のドラマ、小説作品などにも引用されたりする、非常に有名な「人類最初の殺人」「兄弟殺し」の物語です。ご存じの方も多いのでは?

カインとアベルは、最初に神によって創造された人間、アダムとエバの子どもです。成長した二人はやがて、兄のカインが「土を耕す者」、すなわち農耕に、弟のアベルが「羊を飼う者」、つまりは牧畜に、それぞれ従事するようになっていきます。

ある時兄弟はそれぞれの働きの成果の中から、カインは実った穀物を、アベルは羊の中から肥えた初子を、神への献げ物として持って来ます。ところが神はその献げ物のうち、「アベルの献げ物にのみ目を留められた」と聖書には書かれているんですね。ええ~……ちょっと神さま……そりゃないんじゃないの……と、私なんかは思ってしまうところです。私自身「姉」ポジションなので、こういう「下の子だけ褒められる」という場面で変に感情移入しちゃうのかしら。

当然カインも面白くないわけで、「カインはそのことに激しく怒り、顔を伏せた」と続きます。そのようなカインに対して神は、「どうして怒るのか。お前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか」と語り掛けます。いや神さま、傷心のカインをさらに煽るようなこと言うの、やめたってくださいよ……。

結局、神からのその語り掛けに応答することなく、カインは弟アベルを怒りのままに殺してしまうのでした。

カインがここで犯した罪とは何だったでしょうか。「人殺し」というのはもちろん罪です。そういう直接的な話だけではなくて、「物語」としてこれを読む時、カインは「罪の生き方の典型例」として描かれているのだと思います。だとするならば、「カインの罪とは何だろう?」とじっくりと考えてみることで、「人殺し」という行為の奥にある、「聖書が語ろうとする罪の本質」が見えてくるのではないでしょうか。

私が思うのは、カインがこの一連の物語の中で、神にも弟にも心を向けていない、心を開いていない、ということです。献げ物をした時に自分の感じたこと、自分の考えたこと。それはつまり、「神は私を顧みてくださらなかった」「神は弟アベルだけを愛された」「弟アベルは私にとって憎むべき存在だ」などだろうと想像しますけれども、カインはそのような「自分の思い」の中だけに閉じこもって全てを判断した、決めつけてしまったのではないか。そんなことを思うのです。

神がアベルの捧げものだけを良しとされたというくだりは、読者である私たちにとっても不可解で、「神さま、どうして?」と尋ねたくなります。

そう、カインも尋ねてみれば良かったのです。「神さま、どうしてですか?」と、神の言う通り顔を上げて、神と向き合って、問いかけてみれば良かったのです。「私の献げ物があなたの御心に適わないのはなぜなのですか?」と、胸の内に湧いた疑念を思い切って心開いて尋ねてみれば良かった。そうすれば、もしかしたら神は、思いもかけない別の答えをくださったかもしれません。

でもカインはそうしませんでした。「神はアベルだけをえこひいきした。私のことを顧みてくださらなかった」。そのように決めつけて、怒りに燃え、その怒りを、弟殺しという行為に結び付けていってしまったのです。

この、「自分の思いに留まる、自分のものの見方だけに固執する」ということが、カインの罪の本質、ひいては、今の私たちにも通じる「愛し合えない生き方」の姿なのではないでしょうか。

私たちは隣人との関わりの中で、しばしばこの「決めつけ」の罪を犯します。きっとこの人は私を嫌っているに違いない。きっとこの人は私のことなど考えてくれてもいないに違いない。そんな風に相手に対して決めつけて、対話に向けて心を開くことをやめてしまいます。

カインは神に対して、「どうして私の献げ物ではいけないのですか」と素直に心開いて尋ねれば良かったし、弟に対しても「お前の献げ物だけが神に喜ばれて、俺はお前が憎らしいよ」と正直に胸の内を語れば良かったのですよね、きっと。そうすれば、神と、また弟と、新たな対話が生まれたかもしれないのです。

自分のものの見方で、相手に対して決めつけて、その声を聞こうとしないこと。これが象徴的な意味での「人殺し」です。

隣人に対してだけでなく、自分自身に対する決めつけもまた、自分を滅びに導く、自分を殺す刃となるでしょう。カインもやはり、「自分は神に顧みられなかった」と自己否定の決めつけの中でがんじがらめになって、罪の道へ向かって行ってしまったのですから。

他者に対しても、自分自身に対しても、自分の思いだけで決めつけてしまわず、対話を大事にしていけたらいいな、と思います。素直に心開いて、「どうして?」「私はこんな風に傷付いたよ」などと語り出してみれば、相手との間に思いもかけない慰めの交わりが生まれてくることもあるのではないか。そんなことを思います。


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