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顔と顔を合わせる関係ならではの温もり

「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。」
新約聖書 ルカによる福音書 15章4節(新共同訳)

こんにちは。くどちん、こと工藤尚子です。キリスト教主義の私立学校で教員をしている牧師です。

職場も我が子も休校が続き、プリントによる課題やオンライン授業などの模索が続いています。そんな中で、「学校って結局何なんだろうな」という根源的な問いを投げかけられた気がしています。

この度の件で、「知識を得る」ということに限れば、学校に行くことはマストではない、ということが「分かってしまった」。(効率が良いか悪いかは置いといて。)では「学校特有の機能」って何だろう? 考えると、やっぱり「人格的な交わり」というところになるのかな、と思います。

私もこの期間、自分の生徒たちのことをすごく考えました。会えなくて正直寂しい。いや、私の寂しさを埋めるために生徒がいるわけではないんだけど、何というか、手応えに欠けるというか……。

うちの子たちも、前年度の担任の先生と中途半端なお別れになったこととか、仲良しの級友たちと「20分休みのドッジボール」ができないこととか、そういうのを寂しく感じている様子。

直接出会わなくても会話ができたり、課題提出や採点ができたりする時代。それはそれですごく便利でありがたい。でもやっぱり、「画面の向こうの存在」ではなく、数字や記号で表される大勢の中の一人でもなく、「私とあなた」の関係性を結べる場、それが学校なのだと痛感しました。

学校でなくても良いんだけどね。キリスト教会も同じだし、きっと他もそうなんだと思いますが、とにかく「共にその場にいる」ということの意味を、痛切に感じたのです。

こういうことを再確認すると、学校再開した時の教員のスタンスって、絶対変わらざるを得ないよな、と思います。これまでだって当然「対面でなければできない授業、指導」を心掛けてはいたけれど、一方どこかでそれを「当たり前」とする甘えや傲りがあったんじゃないかと思うので……。

ましてせっかくの「対面できるチャンス」を、「サボりがちな生徒を懲らしめる」とか「授業中しっかり聞いていない者には点数を取らせない」みたいな、他罰的な姿勢に浪費してはいられない……、と思います。

集中できない生徒への促しとはちょっと違う、こういう「制裁」的な教員の態度って、悲しいかなやっぱり「あるある」だと思う……。本来目指すべき「生徒にこうなって欲しい、だからこれを伝えたい」という理想よりも、「自分の言うことを聞かせる」「自分の授業を価値あるものだと思い知らせる」みたいなところに重点が移ってしまう感じ。私も若い頃やりがちでした。反省しています。自信のなさの裏返しだったんだよなぁ、あれは。

教会の礼拝も今は「集まる」ということが良くないとされて、多くの教会がこれまでにないスピードで礼拝の配信システムの構築に励んでいるようです(私から見た範囲だけの話ですが)。

すごいなぁ、良かったなぁ、これで入院中の信徒さんも施設入所された信徒さんも一緒の時間に祈れるなぁ。そう喜ぶ反面、「あくまでもこれは代替手段だな」とも思っています。

そうすると、特にプロテスタントの礼拝で重視されがちな「説教」って、礼拝を構成する「一要素」に過ぎないんだな、と気付かされるのです。説教だけがそんなに大事なんだったら、録音でも音声配信でも原稿配布でもある程度満たせるということになってしまう。礼拝の恵みって、そんな小さなものじゃないはずです。

人と人との交わりには、時に摩擦や衝突も起こります。でもそこには「熱」が生まれるんですよね。それは冒頭に挙げた聖句のように、「見失った一匹の羊」を尋ね求める神の愛にも似た、「温かさ」をもたらすんだと思うのです。

事態が収束するのにまだまだかかりそうだけど、平穏な日常が戻ったあかつきには、「出会えたこと」「一緒にいられること」を喜び合える、温もりのある関係性を大事にしたいなと、そんなことを考える今日この頃です。

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