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暗さにも大切な価値がある

初めに、神は天地を創造された。
地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。
神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、
光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
旧約聖書 創世記 1章1-5節(新共同訳)

こんにちは、くどちんです。キリスト教主義学校で聖書科教員をしている、牧師です。

夏休みが終わっちゃいました……(´;ω;`)ウッ…
久しぶりに大勢が集う学校に行くと、その活気に力をもらいつつも、ちょっと圧倒されてくたびれてしまうところも。
「先生」といえども、「学校たのしい! 学校いきたい! みんな、休まず学校に来よう!!」とは言えません(笑) 私は「ちょっとくたびれた」という程度で済んでいますが、人によっては大勢の人間の集う場が持つ「圧」に耐え難く疲れる場合もあるでしょう。
だから、楽しく通えたら万々歳だけど、そうでない時はそうでないなりに、先生も生徒も、みんなお互いのペースでぼちぼち2学期を過ごせたらいいなと思います。

「明るく、元気」ということだけに価値を置き過ぎると、「落ち着き、静けさ」などを否定的に見てしまう傾向も出てきます。
暗く静かであること、言葉少なく過ごすこと、一人沈黙のうちに物思うこと。
そういうことも素晴らしいことのはずなのに。

夏休みの終わりに、天文部の合宿に付き添いました。鳥取県にある「佐治アストロパーク」という所です。
鳥取県は「星取県」を名乗っています。

https://www.city.tottori.lg.jp/www/contents/1425466200201/

鳥取県は、どの市町村からも天の川が見え、流星群の時期でなくても流れ星が見えるのだそうです。
実際私も滞在した2泊3日で何度も流れ星を見ましたし、41年の人生で一番すごい星空と出会いました。
たくさんの星が瞬く様を、「筆先に付けた白い絵の具をぴっぴっと撒き散らした感じ」とイメージしていたのですが、「うっかり台所で片栗粉の袋を落っことした時」くらいの細かさと密度で、小さな星までわんさか輝いていました。(詩的じゃなくてごめんなさい(笑))

この時はちょうど新月辺りで、お月様が好きな私は「あら残念」と思ったのですが、星を観測するにはむしろ好都合。月の明かりは眩し過ぎて邪魔になるのだそうです。

ずっと大阪の街中で暮らしてきた私にとって、「月は明るい」という認識はほとんどなかったのですが、天文部に関わるようになって、月の明るさ、特に満月の明るさのものすごさを知るようになりました。大阪育ちの私は、「夜空の暗さ」を知らなかったのです。

鳥取県は「暗いこと」に大きな価値を置き、「星取県」としての立ち位置を打ち出しています。
夜遅くまで明るく照明が輝く大阪の街では見えないもの、見逃してしまうもの。
それが、暗く静かな夜を味わえる場所だからこそ見出せる。
「暗さの持つ価値」を最大限に味わった、鳥取の夜でした。

冒頭に引用した聖書は、旧約聖書「創世記」の天地創造の物語の始まりの部分です。
「光あれ」という言葉で、最初に光を創造された神さま。
神さまはこの光を見て、「良しとされ」ました。

よく知られている場面だとは思いますが、何となくこれに対して私は「神は光を創った」とだけ認識してしまっていました。
しかし改めて読み直すと、それだけではないことに気付くのです。
神さまは光を創りましたが、闇を滅ぼしたわけではないのです。闇は闇のままに置かれた。そして光と闇を分け、それぞれを「昼」「夜」と呼ばれた。それぞれに名を与えられているのです。

闇を排除するのではなく、闇を光と共に置かれ、それぞれに名を与えられた神さま。
光も闇も、神さまの前に、同等の価値を持って存在しているのです。

学校という所は、「明るく、元気で、はきはきしている」といった、分かりやすい一方的な価値判断が横行してしまいがちです。
「勉強ができる」「先生の言うことをよく聞く」「休まず学校に来る」「友だちが多い」……。
確かに、それはそれで素晴らしいのかもしれません。それは「光」のような価値なのかもしれません。
でも、だからといって、「そうでない人」がダメなわけではないのです。
それも人としての大きな、豊かな価値なのです。

光と闇、昼と夜を置かれた神さまを思い、自分の明るいところも暗いところも愛し、隣人の様々な「顔」に対して一方的な価値判断を下すことなく、互いに受け入れ合っていければいいなと思います。



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