平和を思い、みみをすます。
こんにちは、くどちんです。キリスト教主義学校で聖書科教員をしている、牧師です。
谷川俊太郎の詩に「みみをすます」という作品があります。とても長い詩なので、一部抜粋してみます。(それでも少し長いですが)
ひらがなばかりで書かれた長編詩です。ひらがなばかり、という点が、ゆっくり読むこと、一言一言を味わい、まさに「耳を澄ます」ようにして読むことを促しているように思います。音読するなら朗々と読むのではなく、一言ずつ区切りながら、控えめな声で読むのが似合いそうです。
私たちの日常の中で「耳を澄ます」ことがどれくらいあるでしょうか。意外と無いのではないでしょうか。いや、「全く無い」とさえ言えるかもしれません。
私たちの周りには常に、音や言葉が流れています。街に出ればBGMが、テレビやスマホを点ければ動画と音声が、いつでも途切れることなく流れ込んできます。
そんな中で、「手を止めて、息をひそめて、耳を澄ます」といったような静かなひと時というのは、なかなか無い気がします。
一方、そのような日常の中で気付かずにいるものがあるとしたら、何でしょうか。
耳を澄ますことによって聞こえてくるもの。
それは、隣人の喜びの歌声であったり、怒りの呻きであったり、悲しみのすすり泣きであったりするのかもしれません。
物言わぬ石ころにも、無機質なコンピュータにも耳を澄ませる詩人の感性は、私たちにそんな気付きを促してくれます。
私たちの日常の中に音が溢れているということは、裏を返せば「沈黙は私たちにとって非日常的なものだ」ということです。
黙っていること、音がないことは、私たちにとって「いつもと違う」「ちょっとそわそわする感覚」をもたらします。
沈黙が非日常的なものだから、私たちは沈黙になかなか耐えられません。耐えがたいから、その不安な沈黙を埋めようと、ついつい口数が多くなってしまったりします。
実際、まだあまり親しくなっていない人と過ごす時など、沈黙が怖くて必死になって話題を探してしまうことってありませんか?
それを思うと、「黙っていること」は、安心と信頼の証と言えるのかもしれません。
「みみをすます」という詩にあったように、私たちは沈黙することによってこそ、日頃聞き逃しているものを「聞く」ことができます。それなのに、「黙る」ということは何と難しいのでしょうか。
マザー・テレサはこんなことを言っているそうです。
「私たちが何を言うかではなく、神が私たちに何を言われるか、神が私たちを通して何を言われるか」。
沈黙することによって私たちは、ほんとうに神の御声を聞き、御心に触れることができるのだな、と教えられます。
冒頭に引用したのは、主イエスが祈りについて教えた時の言葉です。
誰に知らせることもなく、ひそやかに。言葉数は少なく。全ては神がご存じだから。
言葉数を増やしてしまう時、私たちは相手の声、神の声を聞く姿勢よりも、自分の不安に捉われてしまっているのかもしれません。
自分のことを声高に語らなくても大丈夫、私はちゃんと受け入れられている、という信頼。それに裏打ちされた、静けさ。
主イエスが教えられた祈りには、そういう「余白」を感じます。
私たちが自分の言葉で埋めてしまわない「余白」の部分にこそ、神の声が響くのだなと気付かされます。
私たちの日常は音に満ちています。それは騒音に近いものでさえあります。
それに対して、祈りの時というのは「非日常」の時間、空間です。
私たちが心落ち着けて「余白」を作り、その「余白」を神への信頼として神の前にささげ、その「余白」に神をお迎えする。それが祈りであると思います。
呼吸を整え、心静かに耳を澄ませ、神の声に耳を傾ける。
そうすることで、日頃は聞き取れずに受け流してしまっている隣人の呻きや嘆きを聞き取ることができる。彼らのためにあなたが行きなさい、と、神の語り掛ける声を受け取ることができる。
八月になりました。この国ではとりわけ平和について心寄せる時です。
心静めて、本当に聴くべき声を聴く。そして己のなすべきことを知る。
そんな時として過ごしたいなと思います。
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