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Books

18歳の頃ジムへ通っていた。一人で黙々とマシンと向き合っているそんなある日、とあるお爺さんと世間話をした。会話のきっかけや内容は今となっては忘れたけど、物静かな方で、苗字が友人の1人と同じだったなということは覚えている。そのお爺さんがある日突然、本をくれた。古本ではなく、紀伊国屋書店で買ったとわかる包装がかかっている本。

私の記憶が美化されていなければ「あなたは聡明そうだから、もっと沢山本を読んでもっと賢くなりなさい。」とか何とか言われながら渡された。確かに、話さなければ賢そうに見えると何度か言われたことはあったので、お爺さんも私の外見に何か勘違いしてしまったのだと思う。

しかし、さすがに一言二言話しただけでいきなり本(しかもまあまあ高い本)を貰うのは気が引ける為返そうとしても、のらりくらりとかわされた。ふと、もしかしたらお爺さんは自分の好みの本を若い人に与え、自分好みの思想に染めたいという特殊(且つ危険)な性癖の持ち主なのかもしれないなと思い、趣味みたいなものなら良いかと取り敢えず受け取った。受け取った本は数ページ捲ったあと残念ながら本棚へ奥へと直行した。

次に会った時、またお爺さんが本をくれた。次も、また次も。
見事に断るタイミングを失った私は、ひたすら受け取っては本棚の奥へ直行の日々が過ぎていった。頂く本は様々で、内容が難しそうなものもあれば、簡単そうなものまで様々だったけど、お爺さんと私の本の好みが合ったことは残念ながら一度も無かった。

少しずつ本を貰うことに抵抗を覚え、かと言ってはっきりと「もう本は要りません。」が言えなかった私は、次第にお爺さんと会うのが嫌になってジムへ行く回数が減り、ついには別れも告げずに退会した。お互いの連絡先を交換するほどの仲ではなかったから、ジムさえ退会してしまえばもう2度と会うことはないのだろうと思った。



たまに本棚を整理すると「そんな出来事もあったなぁ。」と思い出すことは思い出すのだけど、「結局あのお爺さんは自分の何を満たす為に私に本をくれたのか。」なんて事は今の今まで真剣に考えたことがなかった。

だけど、今何気なく想像してみると、もしかしたら孫みたいな存在がいなくてその代わりみたいな感覚だったのかな、とか。そうでなくても話し相手が見つかって嬉しかったのかな、とか。もしかしたら、私がジムから足を遠のかせている間にも新しく買った本を鞄に忍ばせていたのかな、とか。そういう可能性があったことを今更になって気付き、同時に激しく後悔した。

家族は例外だとして、他の他人にとっては私がいなくても私の代わりはいくらでもいると思っていたあの頃の私は、相手がどう思うかなんて考えることもせず、別れの言葉もなく一方的に関係をシャットダウンすることが多々あった。
この世で私じゃないと務まらない役目があるとは微塵も思っていないし、代わりがいるというのは間違っていないと今でも思っている。

ただ、私がいなくなって寂しいと思う人がいてくれることは理解している。そしてお爺さんももしかしたら、私がいなくなったら寂しいと思ってくれる内の1人だったかもしれない。
今となってはそんな事を確認する術なんて無いけれど、こうやって「不誠実な行動だったな」と気づいて、後悔したり自己嫌悪に陥るくらいなら、きちんと向き合って別れの挨拶をしておけば良かったと思う。

せめて、私の想像があくまでただの想像であり、今でもどこかで健やかにお過ごしになられている事を祈ります。あと、貰った本はいつか頑張って読みます。

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