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『ムラブリ 文字も暦も持たない狩猟採集民から言語学者が教わったこと』

ムラブリはタイやラオスの山岳地帯に住む狩猟採集民族。
この本はムラブリの村でフィールド調査をしてムラブリ語について研究した人の話。

この本の切り口は「ムラブリ語を話すようになる中で筆者自身に起こった変化について」だけど、私はシンプルにムラブリ面白いって思った。

日本にも、東北や長野の山岳地帯に長いこと狩猟採集民だった人々が暮らしていると思う。(それはマタギ、と自称してきた人たちではないだろうか)

そして私も狩猟をする民として、何か狩猟採集民のコミュニケーションの共通点を見出したい。

ムラブリ面白い

●ムラブリは数字を数えない?

"「4」は「たくさん」の意味になる。1,2,3,たくさん、の世界だ。"

3つ以上の物を正確に数えたり分けたりする必要はないんだろうか?

でも豚を屠殺して解体するときには

"「誰がいる?」と質問すると、誰がいて誰はいない、等の話があり、必要な数だけ、バナナの葉とお皿が用意される。…頭を除くすべての部位が、全ての人に行き渡るように、細かく切られ、分けられていく。"

このとき数を数えなくて不便じゃないんだろうか…?

●シェアリングは富の集中を防ぐため

"満遍なく物資が配られることを、人類学では「シェアリング」と言ったりする。これは、狩猟で捕れた獲物を独り占めして、集団の中に不均衡が生まれないようにするための知恵だと考えられている。狩猟の得意な人と苦手な人はいつの時代にもいただろう。すると、得意な人に肉が集中することになり、集団の中に争いが起きる可能性が高くなる。狩猟採集民は獲物をシェアリングすることで、富が集中することを避け、権力が発生しないような仕組みを持っているから、森の中に生き残ってこられたのだろう。”

たしかに、山あいの小さなコミュニティでは、争いは生き残りに関わる。

資本主義が今の社会の流行りではあるけど、シェアリングによって生き残ってきた社会もあるようだ。
資本主義が行き詰まって来た今だからこそ、こういう社会のありかたから学ぶこともあるかもしれない。

ちなみに、日本にも「マタギ勘定」という言葉があってクマやシカの肉を丁寧に均等に分配するけど、有害駆除の捕獲報奨金は出来高制で分配している。争いが起こらないのを祈りたい…

●ムラブリは知識も集中させない

ムラブリは移動にバイクを使うが、山道を走るため故障も多い。
だが誰もバイクの修理方法を学ぼうとしない。

"しかし、もしかしたら、これも知識の集中によって、権力や上下関係が生まれることを無自覚的に避けていたとは考えられないだろうか"

徹底的すぎる…
どうしてそうまでして平等を好むのか。
この民族の成り立ちが気になる。

●「心が上がる」のは慎むべきこと?

「嬉しい」「楽しい」は「心が下がる」
「悲しい」「怒り」は「心が上がる」。
相手に何かを主張するときには、『私は怒っていないよ、ほんとだよ。』と "遠まわしすぎて何が言いたいのかわからないほど" ささやかに訴える。

ムラブリは"森に息を潜めて暮らすなかで、必然的に感情を表に出すことを慎むようになったのかもしれない"

そうだろうか?
私たちが狩猟をするとき、獲物を待っているときは静かにじっとしているけど、獲物が獲れた時は仲間と喜び合ったりする。
ただ、狩猟採集民だから、というだけではないような気がする。

ムラブリは "平野部に君臨する中央集権の支配から逃れるために、文字を捨て、所有を嫌い、自由を求めて山岳部に主体的に移動した人々…の典型例ではないか。"

ムラブリが「心が上がる」のを慎むのには、そんな歴史も関係しているのだろうか。

(なんだか東北弁が口を閉じる音が多かったり言葉の音が極端に短かったりするのにも通じる部分がある気がする。)

●自分の集団の人と他の集団の人を見分けるためにわざと言葉を変える

"ムラブリ語には日本語の「食べる」に相当する単語が複数ある。Aグループは3つの単語がある。お米などは「ウッ」、お肉は「ボン」、野菜や果実などは「プイ」。一方でBグループは2種類だ。お米などを食べるとは「ボン」を用いて、それ以外は「ウッ」を使う。"

”おそらく、森に暮らしていたときにムラブリと出会って、この違いに気づいたら、お互いが別々の集団に属していることをすぐに察しただろう"

マタギの山言葉もそういう類のものだろうか?
山の人と平地の人を見分けるため?

または同じ山言葉でも地域によって言い方が違ったりしそう。
隣の山の人にはこちらの山の猟場は明かさない…みたいな

言語学面白い

言語学者の人が言葉についてどうやって考えるか、というのが垣間見られたのも面白かった。

●ムラブリにとっては「今ここで起きていること」が大事

「彼はもう帰った」と「彼はこれから帰る」はどちらも「モイ ア ワール」。
「今ここで起きていること」=「今帰っている」は「ワール」(無標)
「もう帰った」と「これから帰る」はどちらも今ここで起きていないことだから「ア ワール」(有標)
"ムラブリは「今、ここで起こってていること」が通常で、そうじゃないこととは特別と感じると考えられる"

"一般的に、人間の言語は、「いま、ここ」を超えて物事を伝えることができる、いわゆる「超越性」を持つとされている。一方で、南米の「ピダハン語」を研究するエヴェレットは、ピダハン語には超越性はないか、それほど重要ではないと主張している"

"ムラブリもピダハンも狩猟採集民であることが関係しているのかもしれない"

他の北方の狩猟採集民でも、「いま、ここ」が大事で、未来のことは「わからない」という話を聞いたことがある気がする。

狩猟採集民には計画性はない…
私の狩猟の師匠も「その日の天気とかを見て今日どの猟場に行くか決めるから、前日にどこに行くか決めることはない」というようなことを言っていた。

私にはまだその感覚はよくわからない…

でも「いま、ここが大事で、未来はわからない」がいろんな狩猟採集民にそれほど普遍的な概念なら、きっと生き残っていく上で余程重要な考え方なんだろう。

●クレオール説

"いろいろな人々の集まりでは、その都度、その場で通じる言葉(ピジン)を作り上げていく。"

"集団内でやがて子供が生まれる。その子供らは両親から言語を学んでいくが、両親が話すのはその場限りの「ピジン」だ。それは不完全な文法しか持たず、語彙も限定的だ。その「ピジン」を子供らは母語として学ぶ。すると、その不完全な言語から、子どもたちは「完全な」言語体系を作り出す。このように「ピジン」を子どもが母語として学ぶことで生まれる言語を「クレオール」という。"

"クレオールは世界中にある。もともとの言語は英語だったりスペイン語だったりポルトガル語だったりするのだが、クレオールはもともとの言語や地域は違っても、似たような特徴をもつ"

"ビッカートンと言う言語学者は、人間には言語を生み出す機能が備わっており、その影響でクレオールは似るのだ、という「バイオプログラム」仮説を提唱している"

人間って面白いし、すごい。
どうやってそんな機能を手に入れたんだろう。

"ムラブリは長い歴史を持つ狩猟採集民とは少し異なる特徴をもつ人々である。実は、遺伝学や言語学の研究から、ムラブリはもともと農耕民であり、そこから狩猟採集民となったと考えられているのだ。"

言語学の研究からどうしてそんなことがわかるんだろう。
気になる。

言語学もっと知りたい。

言葉が通じなくても仲良くなるためのコミュニケーションの基本

この本の全体を通してところどころで登場する、言語学者がどうやって現地のコミュニティに入り込むか、というのも興味深かった。

  • 散歩をして自分が村に来ていることを知ってもらう。

  • ご飯は美味しそうに、きれいに食べて、おかわりする。

  • 村人が仕事をしていない時間帯に村をうろつく。

  • 敢えて村の祭りに飛び込む。

  • わからなくても相槌をうち、驚いたり、一緒に喜んだりする。

  • さほど意味もない言葉を交わす。(おはよう、といった挨拶とか、今日は寒いね、とか。)

  • 擬制家族をつくる。

これは言葉が通じない海外旅行に行くときも役に立つし、方言がすごい地方に馴染むのにも役に立つ、基本のコミュニケーション術だと思う。

私は「わからなくても相槌をうつ」のはすごく苦手。
わからないことがすぐ顔に出てしまう…

私が安心して大槌に移住することができたのは、私がお試しで大槌に2泊3日したとき、民宿のおばあちゃんが「あんたはもう娘」と言ってくれたから。
これも擬制家族。
自分が逆の立場になったとき、自分のうちに1泊泊めたからといって、その人を「兄」「妹」「息子」「娘」と言えるだろうか…。なかなか難しい気がする。
彼女のコミュニケーション力と懐の広さはすごい。


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