【山田太郎問題】支持者も信じ込む「リベラルは表現規制派」神話
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なお、シリーズの記事一覧は『【山田太郎問題】序文と記事まとめ』から。
「リベラルは表現規制派」神話
山田太郎とその支持者が信じ込む神話は無数にあるが、その中でも特に根強く度し難いものは、立憲民主党や日本共産党、社民党といったいわゆる左派政党、野党共闘に含まれる政党が表現規制を求めているというものである。
この問題については、以前『【山田太郎問題】激ヤバ規制「侮辱罪厳罰化」推進を誇る愚と好都合なダブスタ』の中で触れていた。だが、記事の主題に対してあくまでおまけ的な内容だったので有料部分に含めてしまっていた。そこで今回は、その内容を踏まえつつ、「リベラルは規制派」神話のどこが間違っているのか、その神話の問題は何かという点を論じたい。
本題を語る前に、まず、この神話がどのようなかたちで、どの程度信じ込まれ広まっているのかについて示しておく。最初にあげるのは山田太郎の著書『「表現の自由」の闘い方』[1] である。ここで、彼は共産党の公約を挙げながら以下のように語ってみせる。
この記述は曲解と誤読にまみれている。ここで重要なのは、山田太郎が著書にはっきりと書くほどこの神話を確信しており、かつ強調して広めたいと思っていることである。
また、この記述からは、神話が「かつては規制反対派だったリベラル政党が変質し、規制を求めるようになっている」というストーリーも窺える。これも、後述するように神話の重要な要素と言えるだろう。
神話の広がりを示す例は枚挙にいとまがないので全て挙げることはしない。直近の例として、AFEEの副代表の投稿を挙げておこう。文脈が少しわかりにくいが、前述の共産党の公約についての発言である。
なお、氏との会話はあまりにも不毛であり、同時にいかに山田太郎支持者が空想にしがみついているかの良い例であったため、内容を有料部分にまとめた。興味のある方はぜひ購入してほしい。その話の通じなさたるや、真夏に相応しいサイコホラーかもしれない。
リベラルは本当に規制派なのか
では個別具体的な観点から、リベラル政党が規制派なのだという主張の真偽を検討したい。
女性の権利を優先=規制派、ではない
その前に前提としておきたいのは、ひとつやふたつオタク文化にとって都合の悪い主張をした程度では、規制派、つまり表現の自由を軽んじ規制を目論む傾向のある政党であるとはいえないということである。より正確に言えば、1つでもオタク文化に都合の悪い主張をしたら規制派だと見なす発想自体が、あまりにも世界を単純に見ているということである。
当たり前だが、誰か個人と考え方が完全に一致する政党など存在しえない。あらゆる政党は賛同できる部分とできない部分からなる。重要なのは、全体の傾向として、その組織が表現の自由を軽んじおおむね常に規制を目論むものかどうかである。(この点、自民党は間違いなく規制派である)
同時に、ある場面において、表現の自由ではなくそれと衝突する権利を優先することは、その政党や政治家が規制派であることを必ずしも意味しない。その場面では二択を迫られた故に表現の自由ではない方を選んだというだけで、それ以外の場面でも表現の自由を軽視しているとは限らない。
典型的なのは、山田太郎支持者らが印籠のように便利に使っている児童ポルノ禁止法改正の請願である。児童ポルノの範疇に創作物を含めよというものだが、これは単に児童の権利を守る場面で表現の自由よりもその権利を優先しているにすぎない。
現に、請願の紹介者としてよくバッシングされる福島瑞穂議員は、逆に言えばこの場面でしか碌に名前が上がらない。氏や社民党が全体的な傾向として表現の自由を軽視していないことは明白である。こういう政治家や政党は、児童の安全を守るという文脈においても表現の自由を規制しない方法があればそちらを推すだろうと容易に予想できる。(もっとも、その提案を行う能力と信頼性を欠くのが、現在のオタク共同体の問題でもある)
なお、この点においても、自民党は規制派であると断言できる。侮辱罪厳罰化に見られるように、彼らの規制は対立する権利が全く明白でなかったり、対立する権利は明確でも規制がそれを守る合理的な手段となっていなかったりする。これは、世論の支持を買うために適当に規制を行っているか、対立する権利を守るためと称して実際には言論弾圧に繋げるために規制をしているために生じる問題である。いずれにせよ表現の自由を軽視しているのは明白である。
書いてあることも読んでもらえない共産党
「リベラルが規制派」神話最大の被害者が共産党である。彼らはオタクたちに都合の悪い公約を発表してしまったばかりに、書いてあることが一切無視され、書いていないことを延々と拡散された。イメージ戦略の失敗と言えば賢しらに聞こえるが、明確に書いてあることを捻じ曲げられる無軌道な相手に成功するイメージ戦略とやらがあるとは思えない。
さて、そんな共産党の公約は『2021 総選挙政策』である。当該部分の全文はあるが [2]、ここではあえて山田太郎が引用した部分のみを取り上げたい。そうすることで、彼が引用した、つまり確実に読んでいるはずの部分のみですら彼らの主張が間違いであることが明白だと示し、単なる読み落としではなく、極端な誤読あるいは意図的な曲解によって神話が作られたことを示す。
共産党の公約は上に示した通りである。
ここでまず目につくのは、最後の段落にはっきりと『「表現の自由」やプライバシー権を守りながら』とあることである。山田太郎はご丁寧に太字の強調から外しているが、この一文から共産党の立場は明白である。
同時に、同じく最終段落に『子どもを性虐待・性的搾取の対象とすることを許さない社会的な合意をつくっていくために、幅広い関係者と力をあわせて取り組みます』ともある。「規制を進めます」ではない。ここに限らず、文章の中に、はっきりと規制を進めると書いているところは何もないのである。
ちなみに、「児童性虐待・性的搾取描写物」という描写に突っかかる人間もいるだろうが、かねてよりの主張と『「表現の自由」やプライバシー権を守りながら』と合わせて考えれば、児童ポルノの定義を『性欲を興奮させ又は刺激するもの』といったわいせつ性から客観的な内容に変更することを意図していることは明白である。強いて言えば「描写物」という表現が迂闊ではあったろうが、その問題も補足が出たことで終わっている [3]。
このように、共産党は公約の中で、表現規制を強化するなどとは全く書いていない。疑念が出たところも補足で否定している。にもかかわらず、未だに山田太郎とその支持者のなかでは、リベラル政党が規制派だということになっているのである。神話がいかに虚構にまみれたものかわかろうというものである。はっきりと書いてあることすらまともに読まれていないのだから。
リベラルの主張は信用できるのか?
こうした主張に対して、いや政党の言うことは信用できないとか、口ではいくらでも言えるので政権を取った後に態度を変えるかもしれないという人がいるかもしれない。そういう態度は妥当なものであるし、疑いたければ好きにすればよい。
ただし、リベラル政党の主張は疑うにもかかわらず、山田太郎や自民党が規制をしないという神話は信じ込むのであれば、それは単なる党派性から来る妄想に過ぎない。なぜなら、リベラル政党には規制の実績も規制を行うだけの議席もない一方、自民党にはその両方があるからである。
実現可能性を考えれば自民党のほうが高いのだから、リベラル政党を疑うのであれば自民党を信用するのは合理的ではない。取り得る選択肢は、両方とも信じるか、自民党だけ疑うか、両方とも疑うかの3パターンだけだ。それ以外は合理的ではない選択肢であり、故に神話の影響下にある選択だと言える。
神話の問題点
ここまで、個別具体的な検討によって、神話が虚偽に過ぎないことを示した。ではなぜ、「リベラルは規制派」神話は問題なのだろうか。
もちろんデマだからなのだが、ここからはより全体的な構造上の問題を論じたい。
自民党の規制から目を逸らす
神話が抱える構造上の問題、その1つ目は自民党の表現規制政策から目を逸らすことである。この神話はリベラル政党を規制派として仮想敵に仕立て上げることで、その仮想敵との対峙を促し、真に規制を行っている自民党の問題を漂白している。
前提として、自民党が表現規制を積極的に行っている政党であることは論を待たない。『【山田太郎問題】激ヤバ規制「侮辱罪厳罰化」推進を誇る愚と好都合なダブスタ』で論じたように、侮辱罪を厳罰化し現行犯逮捕も可能とすることで、表現規制への道を開いたのは自民党と山田太郎である。この点は、本人がむしろ成果として誇っていたのだから間違いない。
加えて、もう1つだけ例を挙げるとすれば、自民党によるメディア統制が挙げられる。NHKが放送した戦時性暴力の責任を追及する番組に介入し内容を変更させたのは安倍晋三だった [4]。放送法の解釈を巡り、停波をちらつかせたのは当時総務相だった高市早苗である [5] (ちなみに、山田太郎はこの発言を批判するどころか擁護した)。自民党政権下では報道の自由の順位がみるみる下がり、政府に批判的なコメンテーターは次々と番組を降板した。
このように、自民党が表現規制の先導者であることは明白である。しかし、神話はリベラルこそ規制派なのだと嘯く。これによって、真の構造が後景に置かれ、オタクの願望に都合の良い虚偽の構造が強調されることになる。
オタクに都合のいい虚構の対立構造
「表現を守る山田太郎と自民党」対「規制を目論むリベラル」という虚構の対立構造は、オタクたちにとって実に心地よいものである。オタク文化は従来より保守や極右、排外思想に親和的であり、リベラル思想とは反りが合わなかった。一方、表現の自由を守るのは常にリベラル派だった。このため、オタクは表現の自由を守るため反りのあわない思想に接近するか、自由を諦め心地よい保守に染まるかの苦しい二択を迫られていた。
しかし、「規制を目論むリベラル」という神話はこの構造を一変させる。リベラルこそ規制派だということになり、オタクたちは大手を振って自民党に投票することが可能になった。彼らは表現の自由を守ると言いながら自民党に投票する大義名分を得たのである。
本来、虚構の構造について、自民党や山田太郎、その支持者たちは虚偽によって表現の自由を守りたい人々をたぶらかし、誤った政党への投票を導いていると書くべきなのかもしれない。しかし、そうしなかったのは、本心ではオタクたちも神話が虚構だと分かっているのだと思われたからだ。ここまで明白な虚構を本気にしているとすればあまりにも愚かで救いようがない。他者の知性と善性を過大評価するのは私の悪い癖だが、ここではあえてその悪癖を出したい。同時に、自ら進んで騙されているのであればやはり愚か者であり、啓蒙によって改善する余地がないぶんかえって悪質でもある。
「リベラルの変質」という他責思考
こうした甘い囁きは、「かつては規制反対派だったリベラル政党が変質し、規制を求めるようになっている」という神話に典型的にみられるストーリーにもよく表れている。彼らの認識では、変質したのはあくまでリベラルであって、自分たちは不変に表現の自由を求める罪なき闘士なのである。
もちろん、これは事実に反する。東京都健全育成条例の闘いからこの間に、山田太郎は野党から自民党へ鞍替えして政治家になっているのであり、大きく変質したのは彼自身だ。一方、左派政党の多くは表現の自由を求めると同時に女性の権利も重視しており、強いて言えば時代の変化に従ってその色を強めたのは事実だが、その本質は変わっていない。
(もっとも、山田太郎自身は最初から自民党的保守思想に親和的なのであり、実は彼も本質は変わっていないのかもしれない。とはいえ、立場が野党から与党へ大きく変わったのは事実である)
ではなぜ、リベラルが変質したなどという事実に反する認識が生まれるのだろうか。1つの原因は、山田太郎やその支持者が「自分は変わっていないのに」という被害者面をするためである。自身が大きく変わった結果周囲からの反応も変わったという順当な変化について、頑なに自分の責任を認めないという他責思考である。
同時に、この神話が彼らにとって都合のいい甘いストーリーであることの証左でもある。
これまでは、自民党による規制は少なくとも山田太郎とその支持者たちのせいではなかった。彼は野党の議員だったのだし、規制を防ぐために力及ばずとなることはあったとしても、だからと言って彼が規制を進めたとまでは言えない。これは支持者も同様である。山田太郎に投票する限り、少なくとも規制派である自民党の得票を相対的に削いでいることになっていた。
だが、山田太郎が自民党議員となったいまは違う。自民党の表現規制は山田太郎のせいでもあり、彼に票を投じた支持者のせいでもある。彼らは「自民党を中から変える」という希望に縋ったのかもしれないが、事実は非情である。自民党による表現規制はいまなお行われており、山田太郎がそれに歯止めをかけた証拠はない。
自らの変質を認めることは、すなわち、自民党議員になった山田太郎を支持し、結果として規制を招いた事実を認めることである。それは自らの失敗とその責任を認めることでもある。これにオタクたちは耐えられなかった。そのため、自らの変質を否定し、しかし客観的事実として構造の変化はあるために、その変化の責任をリベラル派に押し付けることで帳尻を合わせたのである。
参考文献
[1]山田太郎 (2022b). 「表現の自由」の闘い方 星海社
[2]日本共産党 (2021). 日本共産党の政策 7、女性とジェンダー
[3]日本共産党 (2021). 「共産党は表現規制の容認に舵を切ったのですか」とのご質問に答えて
[4]しんぶん赤旗 (2005). NHK番組改ざんの裏に“検閲” 従軍慰安婦放送「やめてしまえ」 安倍官房副長官(当時)、中川議員が圧力
[5]毎日新聞 (2023). 総務省文書「解釈補充」、停波にも言及 高市氏の答弁をおさらい
おまけ:AFEE副代表との不毛なやりとり(有料部分)
ここからは完全におまけのコーナーである。表現の自由戦士との不毛な戦いに精を出す私をねぎらいたい人か、自由戦士の支離滅裂さを娯楽として消費したい人だけ買ってほしい。まぁ、ツイート自体は私の過去のものを遡ればいいだけの話だが……。
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