僕に悩みを打ち明けてくれる人へ
「優しさってなんだろうね」と
久々に会った沖縄の友人にボソッと言ったら、
「それを考えてる時点でお前は優しいやつだよ」と返されました。
本人は何気無く返してくれた言葉のようでしたが、僕にとってはすごく刺さる言葉でした・・・。
最近、富山の後輩や同級生から相談をされることがちらほらあります。僕が誰かの相談に乗れる日が来るなんて数年前までは思ってもみませんでした。
相談の中身は、自分自身や誰かとの関係について自信がないという話が多いなと感じます。
彼らは悩んでいることについて、たくさん考えています。
自分のいい加減さについてだったり、不誠実さについてだったり、力無さについて様々なバリエーションの自問をしています。
ある人は自分が嫌いなこと自体について、つまり自分のネガティブな感情に対して自問を繰り返し、悩んでいました。
彼らの話を振り返って、ふと友人のセリフを思い出しました。
「それを考えてる時点でお前優しいやつだよ」
優しくなりたいと思っていない人は、優しさについて悩みません。
優しさなんてのはあまり意識に上らない単語になるでしょう。
自分がこうありたいという気持ちが、その人がつい考えてしまうことに、時に歪んで現れているんだろうなと観察できます。
友達流に言えば、自分のいい加減さについて苦しくなるほどに自問しているのなら、その時点でその人は自分や他人の時間について誠実な人なんだと思います。
その人一倍誠実な気持ちを認めて、かわいがるようにして、育てていけばいいんじゃないのかな。
自分の心の中にその誠実な気持ちを育んでいこうとするなら、自分のことは嫌いにならないほうがいいんじゃないかな。
自分の悪意や不誠実な考えについて苦しくなるほどに自問しているのなら、自分の善意や他者への対応に対して真摯なんだと思う。
自分の力なさについて苦しくなるほどに自問しているのなら、それだけ誰かの力になりたいと強く願っているんだと思う。
僕は、そんな真摯な気持ちや優しさを強く持っている相手と話せることが嬉しいし、話しやすいと思ってもらえることは本当に光栄なことだなと思っています。
そんな人たちの力になりたいし、そんな人たちが自分の見ている世界について語るのを、僕は聴きたいです。
君が悩みを打ち明けてくれるとき、本当に優しい人なんだなといつも思う。
打ち明けるのにも勇気と体力がいるだろうに、そのエネルギーを僕に話すことに使おうと思ってくれたことに嬉しくもある。
同時に、君が自分を傷つけるのを見ると、僕は君を大切にしたいと思っているから、悲しい気持ちになる。
この前相談してくれた時の僕では、至らなかったところもたくさんあったと思う。
だけれど、僕が、君の力になりたい、もっと優しくありたいと思っていることはどうかほんの少し信じてほしい。
これからも、僕は、聴く力や伝える力や優しさをもっと高めていけるよう喜んでがんばる。
至らないところがあれば、できれば穏やかな言い方で指摘してほしいな。
一緒に、君が自分を傷つけない方法で、もっと誠実になりたいとか、優しくありたいとか、そういうあったかい気持ちを育てていけるよう協力させてほしい。
悩んでいない人へ
悩んでいる人について書きましたが、悩んでいない人について批判しているわけではないです。そう思われると悲しいです。
僕の想いで、悩んでいる方の気持ちが少し軽くなればいいなと思ってあえてnoteに書きました。
人がいつも悩んでいること、いつも考えていることの奥にはその人の優しい望みがあると思っています。
奥にある望みは普遍的なものかなとも思っています。
誰かとつながりたい、親密になりたい、理解したい、面白がりたい、喜びを与えたい、気楽にいたい、自由でありたい、誰かの力になりたい、誠実でありたい、希望を見たい、追求したい…
お互いの奥にある望みを理解して、共に自分を傷つけない方法で、穏やかに大切な人たちと接せられたらいいなと思います。