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机の上を記述したら、寂しくなった

テーブルの上に置くものは、いつも決まっている。

単行本が3〜5冊と、6mm×35行30枚のCampusノート、仕事に使うMacBookAir、安いボールペン、コーヒーの入ったティーカップと水の入ったグラス、ティッシュ、ふせん。

いつも決まっているのだけど、いつも少しずつ変わっていく。

本は数日で1冊読み終えるので、読み終えた順に、新しく買った別の本か読み返したくて本棚から連れ出したものに差し代わる。

ノートは1ヶ月が経たないくらいで新しいものに変わる。

ふせんはもう少し長く持つ。基本的には、本1冊に数枚挟むくらいだから、あんまり減らない。

ボールペンはいつの間にかインクがなくなって、新しいのを調達するのだけど、どんなペースでインクがなくなるかまるで思い出せない。

新しいボールペンは、いつも自分で買ってきているはずなのに、誰かが気を利かせて差し替えてくれているような気持ちになる。

幸せな物忘れだと思う。

そういえば、大学に行かなくなってからシャーペンを使う機会がすっかりなくなった。“めっきり”なくなったの方が響きがかわいいかもしれない。

長いこと変わらないのは、パソコンとグラスとティーカップくらいで、それもせいぜい数年のうちに変わる。

こうやってディテールを描写すると、手近な物もどんどんやってきては去っていくことが強烈に感じられて、ちょっと怖くなる。

何かが近くにあって、自分にとって意味を持っている時間は短い。

ちょうど、窓から外を見ていたら、塀にカラスが降り立って、すぐまたどこかへ飛んでいくのを眺める時の小さな切なさと似ている。

そこにあるなと感じられるものはなんでも、ふせんも、ボールペンも、友人も、感情も、意思も、平和も、明日も、塀に降り立ったカラスだ。

などと書いていたら、だんだん寂しくなってきた。

でも、嫌いじゃない寂しさだ。

すずめが数匹、地面をちょこまか動きながら、何か落ちている物をつっついているのを見かけたときのような優しい心地が同時にある。最近すずめを見かけない気がする。

こんなことをわざわざ文章にしてはっきりと認知しようとするのはどんな心の動きなのか。

わざわざ30分もかけて文章にしなければ、ぼけっと10秒程度で済ませていたようなとりとめのない思考だ。

それを言葉にして、なんの意味があるのか。

意味は、たぶんあんまりない。

けど、生きることとか、何かを生産することとか、そういうことだって遠い星から眺めるような、ものすごく引いた目で見れば、なんの意味も、インパクトもない。

ただ、なんとなく気持ちいい。束の間とはいえ、喜びがある。

それだけで満足できる素晴らしい機能をただ使ってみたい、みたいな感覚かもしれない。

なんのためでもなく、誰のためでもない。すぐ忘れる。

そんな感覚や思いつきをたまには言葉にするような時間を大事にしたい。




追記: 千葉雅也さんの『センスの哲学』を読んで、日常のささいなことを文章にしてみようと思って書いてみました。この本おすすめです。

日常のささいなことを、ただ言葉にする。それはもう芸術制作の始まりです。ものを見る、聞く、食べるといった経験から発して言葉のリズムを作ることだからです。もう文学です。

千葉雅也著『センスの哲学』


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久高 諒也(Kudaka Ryoya)|対話で情熱を引き出すライター
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