雑に言語化していると、ものが見えなくなる

シェアハウスをしていた時のこと。

たまたまシェアメイトと休日が合い、おもちゃ屋に行って、ジグソーパズルを買ってきた。森のコテージを描いた風景写真のパズルで、全部で1000ピース。

よっしゃと気合を入れ、端の方から攻める作戦でスタート。

あっという間に完成させるつもりだったのだけど、結局、完成したのは2ヶ月後くらいでした。

何がそんなに難しかったのか。

葉っぱが密集している部分(6割くらいそれ)を構成するピースの違いがぜんぜんわからなかったからです。

たしかに。そりゃ当然だ。

そう思うかもしれませんが、実は話には続きがあります。

最後の1週間でほとんどが完成したのです。

見てはいるが、観察してはいない

" You see, but you do not observe.The distinction is clear. "
「君は見ている、でも観察していない。その違いは明らかだ」

『ボヘミア王家の醜聞』Scandal in Bohemia より

僕らは、パズルのピースを何時間も“見て”いました。

完成形となる画像だって、ずっと“見て”います。

でも、観察はできていませんでした。

葉っぱを「葉っぱ」としか認識していなかった。実際のところ、一ピースずつ違いがあるにも関わらず、「これは葉っぱのピース」としか認識していなかったのです。

せいぜい、「明るい葉っぱ」と「暗い葉っぱ」を見分けるくらいでした。

しかし、どこかの段階で認知の仕方が変わりました。

完成形である風景写真を一枚の絵としてではなく、細かい部分の集まりとして見るようになったのです。

その瞬間から、完成へと一気に加速しました。

写真は、カメラから距離のある部分ほど解像度が粗くなります。また、距離があるほど小さく写ります。葉っぱの間に除くわずかな背景もヒントになりました。

そういったことに気がつくと、一つ一つのピースのだいたいの位置が頭の中で整理でき、正しい位置を見つけるスピードが飛躍的に上がったのです。

観察とは何か?

「ほらやっぱり、睨んだ通りだ! (略)」という、予め用意していた結論に至るような、手ぬるく甘ったるい観察は、くだらない

川崎昌平『 労働者のための漫画の書き方教室』

パズルが完成へ向かって劇的に加速したとき、僕らが急に賢くなったり、目が良くなったりしたわけではありません。

さっき述べた通り、認知の仕方が変わっていました。

変化のドライバーとなったのは、言語化の精度です。

僕らは、言語化の精度が変わったから、認知の仕方が変わって、前よりものが見えるようになったのです。

言い換えれば、「これが何の絵かなんてわかってるよ」などとテキトーにわかった気になるのを辞めて、ちゃんと向き合ったら細かい違いが見えた、ということです。

川崎昌平はこうも述べています。

「 観察者自身に変化をもたらさない観察は、観察ではない」

経験は豊富でも、知見は貧弱

僕らは普段、あまりに何気なく世界を見ています。

だから、
「いつも歩いている道に何本電柱がある?」

なんて聞かれても答えられません。

もし「これまでに3万本の電柱を見てきた電柱のエキスパートである〇〇さんにお聞きしたいのですが」と電柱のない世界の人に質問されても、きっとあたふたするだけでしょう。

上の話は冗談として、意識的にものを見るのは脳への負荷が大きいので、こうなって当然です。

見ている何もかもを全部覚えていたら、脳がパンクしてしまうでしょう。

つまり、盲点なんか無数にあって当たり前なのですが、ずっとその状態では問題が生じることがあるわけです。パズルが一向に解けない、みたいな。

まあ、パズルが解けないくらいならまだかわいいもんです。

これがコミュニケーションや仕事や大事な決断の場面で出てくるとなると、そうも言ってはいられません。

僕らに葉っぱが見えなかったように、目の前に転がっているチャンスに気がつけなかったり、失敗や破滅へ向かっている兆候に気がつけなかったりするかもしれません。

いえ、それどころか、新たに何を見ても、誰としゃべっても、どんな本を読んでも、自分の信念をただ強化しているだけで何も得られなくなっている可能性すらあります。

世界一周の旅に出て帰ってきたのに、感想を聞いても「綺麗だった」「面白かった」「やっぱり世界は広かった」としか言えないとしたら、一体その投資に何の意味があるんでしょう??

どんなに本を読んでいても…

もう一例挙げましょう。

読書している人としていない人の違いを風刺したこちらの絵、見覚えのある方もいらっしゃるかもしれません。

本を読んでいる人は、遠くまでものを見通せる。脅威も知りつつ、そのさきの美しい世界まで見える。そんなことを伝えたい絵として解釈されているようです。

しかし、ちょっと待ってと言いたい。

この図で一番足元が不安定な人は誰でしょう?

誰がどう見ても、一番右の人なはずです。

僕には、この絵がこう見えています。

狭量な価値観をひたすら補強するような読書をしてきた者が、ぐらつく足元に気がつかず今にも大怪我をしそうになっている。

観察の話とダブらせるなら、

「ほらやっぱり、睨んだとおりだ! 」という、あらかじめ用意していた結論に至るような、手ぬるく甘ったるい読書をしている者の身に迫る危険を描いている。

つまり、これは読書しない人ではなく、むしろ読書し過ぎる人への注意喚起の風刺画だと思うのです。

どうすればいいのか?

ここまで散々手厳しいことを言ったような気がしますが、正直、自分に言い聞かせるつもりで書いています。

おい、これを読んでる未来の自分、足元ぐらついてんじゃねえの?

そういうツッコミのための備忘録。

とはいえ、ツッコミだけで終わっても仕方がありません。

ものの見方が長期にわたって固定化されるのを防ぐための打ち手も考えてあります。

端的に言えば、次の5つ。

現状の外にゴールを設定すること
書く習慣を持つこと(表現すること)
ボケとツッコミを駆使して勉強すること
対話すること
問いを検討すること

ドンピシャで同じ文脈で書いたわけではないものの、過去に書いた記事で十分説明できると思うので、リンクを貼っておきました。

ぜひ、読んでみてください。


ちなみに、プラスでもう1記事を挙げるとするなら、僕のではないのですが、こちらがおすすめです。

3つの問いを習慣化することで、今のものさしから自由になり、楽に成長できるということを訴えている記事です。


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久高 諒也(Kudaka Ryoya)|対話で情熱を引き出すライター
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