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病院で叫びまくった6歳のころの絶望と青春〜看護師との闘いと母の献身〜
6歳の時、手術を受けた。
ペルテス病という、放っておくと股関節辺りの骨が壊死してしまう病気のため。この病気、発見が遅いほど手術を要する。早ければ固定器具をつけるだけで良いらしい。
僕の左足がいつから痛みだしたのかはもう覚えていないけど、たしか3、4歳の頃からだったと思う。
ちょくちょく近所の病院へ通っていた。
近所の病院の診察は、テキトーだった。6歳になるまで「成長痛ですかね」なんて言われ続け、完全に歩けなくなるまでひどくなってから、ようやく大学付属の大きな病院へ行くことになった。
もう手遅れ。手術するしかなくなっていた。
当時は、一歩行くごとに足の先から頭のてっぺんまで一気に電流が走るような痛みがあった。こんなのが成長痛なはずがあるか!ヤブ医者!と思ったのも無理はない。
勝手に手術を即決する母と医者
6歳なので、母に付き添ってもらって病院へ行った。
父はどこかでほっつき歩いていたので、幼なじみのみつきくんのママの車で行った。
広い病院内をあっちへ行ったりこっちへ行ったり検査をして、最後に診察室へ。
そこで、N先生(当時30代前半くらいのイケメン医者)に「ペルテス病」だと知らされることとなった。
ついでに、手術をすることも一瞬にして決まった。
母とN先生に目の前で勝手に決められたのだ。
「ペルテス病です。すでにかなり進行しているので手術が必要になります」
「(手術)いつできますか?」
「◯月にやりましょう。◯日から入院になります」
「それでお願いします」
本人を無視して何を決めとんじゃぁぁぁ!
このあと、僕は母にキレた。
採血は失敗ばかり。絶食に泣く
手術の1週間前(?)くらいから入院し、当日に向けた準備が始まった。
中でもキツかったのが、採血と絶食。
手術数日前に朝から採血検査があった。たしか「ご飯は採血の後にしてくれ」と言われていて、何も食べずに臨んだ。
注射自体は怖くなかったが、まさか5回以上失敗され、貧血でぶっ倒れるとは思っていなかった。教訓、研修医に注意。
当時120センチ程度だったかわいいサイズの少年に、次から次へと白衣の大人たちが忍び寄り、血を抜いていくのだ。おそろしや。
貧血でぶっ倒れた数日後、続いてやってきた拷問が、絶食だった。
手術の24時間前からは飲食が禁止になる。全身麻酔を打つ手術ではそうしないといけないらしい。今もそうかは知らないけど。
あれは辛かった。24時間水すら飲めないのだ。隠れて氷を舐めたことを覚えている。泣いた。
「目の前で水を飲むなぁぁ!」と他人に殺気立ったのはあれっきりだ。
いよいよ手術室へ運ばれる
手術当日、僕は生きた心地がしなかった。
手術なんて人生で初めてだし、採血、絶食と苦痛のレベルが上がっていたことから考えるとラスボス的な拷問にしか思えなかったのだ。
時間になると看護師さんたちがやってきて、ベッドごと僕を手術室へ運んで行った。
部屋の前には、たくさんの親戚や友人がかけつけていた。
葬式の参列者みたいな顔ばかり並んでいる。
悲しい目で見守るたくさんの関係者に余計に恐怖が増す。やっぱり俺死ぬんだ。終わりだ。
しかし、僕はどうしても殺されるわけにはいかなかった。
教室に復帰して、みつきくんやゆずのちゃんに会いたかった。しかし、絶食中でフラフラだし、そもそも1人では歩けない。もはや一巻の終わりだった。
手術室に到着。わんわん泣いていた。
麻酔科医が忍び寄る。耳鼻科でよく目にするような、白い煙が吹き出すあれが顔に近づけられる。シューッと音が鳴る。
直感でわかる。これ、吸ったら終わりなやつだ。
必死で抵抗し、煙を吸わないよう息を止めた。
20秒後、力尽きて息を吸ってしまう。一息でノックダウン。
寝ている間に壊死している股関節の骨を切り取られ、代わりに金属の器具を入れられた。
目覚めたら襲う激痛と強制リハビリ
次に意識が戻った瞬間、まずは機械っぽい音が聞こえた。
その次の瞬間、光を認識するのと同時に激痛が体を襲った。
手術したのは左足なんだけど、もはやどこが痛いのかよくわからない。とにかく頭がおかしくなりそうな痛みが続いた。少しでも動くと痛いので微動だにできない。1日絶食していたはずのに一ミリも食べ物のことを考えなかった。
痛い、痛い、いだぁい、いだぁぁぁ、あ"ぁぁぁっ、みたいな周期で痛かった。
しまいには「俺なんか悪いことしたのかよ…、なあ、許して…、お願い」という気持ちになっていた。尿瓶におしっこするのも大変だった。足を少しでも開くと発狂ものなのだ。
あれ以降に感じた似た痛みはなんだろうと考えたけど、なかなか探すのが難しい。
手術から2日か3日して、再びやつら(看護師3人組)がやって来た。
動かずにいたら危険だからとかなんとか。もうリハビリを始めなくてはいけないと言う。泣き叫ぶ僕を無理やりベッドから引き剥がし、車椅子に移し、左ひざを折り曲げさせやがった。
あの時ほど腹の底から他人に「やめろぉぉぉぉ」と叫んだことはない。
みなさん、膝を曲げられるってすごいことなんですよ。
楽しい入院生活
看護師さんたちと1週間ほど格闘し、どうして止めさせないんだと母にキレたりしながら、ようやく車椅子に乗るのも慣れた。
ただし、リハビリの時間は大嫌いだった。松葉杖を使う練習をしたりしたりするのだが、上下に動きのある運動をすると痛くて仕方ない。
今日は優しい上地先生に当たりますように、と願ってリハビリセンターに入っていった。
慣れてくると、車椅子はめちゃめちゃ楽しい。足を動かさなくても水平移動できる。けっこう小回りもきくし、勢いをつけて動き、キュッとブレーキをかけ、小さい前輪を上げて遊んだりしていた。
入院期間中はたくさん知り合いができた。高校生のお兄ちゃんとオセロをしたり、1つ上の女の子とお話ししたり、首になんかつけてるおじさんと将棋をしたり。患者も看護師もお医者さんもどんどん仲良くなっていった。
同じ部屋の他の3人と散歩に出ることもあった。4人中2人は車椅子だったけど。夜は簡易プラネタリウムセットみたいなおもちゃで病室の天井に星を映した。
学校に行けなかったが、楽しい入院生活だった。
入院の間、母はずっと一緒にいた。夜はサマーベットで寝ていた。霊感のある人なのでかなりきつかったらしい。
ちなみに、楽しい交流の裏で母が課すとんでもない量の宿題をこなしていた。「がんばりノート」なる自習ノートを1ヶ月で15冊ほど。それにプラスして算盤もやっていた。よくこれで勉強が嫌にならなかったものだ。たぶん、勉強ができなくなったら他に何の取り柄もないと気づいていたんだと思う。
退院してから家までの険しい道
あっという間に退院の時期がやって来て、お世話になった先生方や仲良くなった人たちに手紙を書いてお別れした。
母に車椅子を押してもらって、昼食に病院の食堂でホットサンドを食べた。ここのホットサンドが一番美味い。
病院から当時住んでいた家までは5.5キロ。
退院の開放感からか、母はなぞの提案をする。
歩いて帰ろっか。
いや、僕は車椅子に座ってればいいけど、押すのあなたですよ?しかも、けっこう荷物ありますよ?
当時は距離感がわからなかったので「いいね!」と返事した。
結果、母どころか僕も地獄を見ることになる。
向こうに渡るために歩道橋しかない道路、悪道、狭い道のオンパレードで、途中とちゅうで松葉杖で乗り切らないといけない場所があったのだ。
母は荷物と共に車椅子を抱えて歩道橋を渡っていた。
過酷な帰り道をなんとか乗り切って、クタクタになって我が家に。当時住んでいたアパート、我が家は3階。2人は半べそで階段を上がったのであった。
今回も最後までお読みいただきありがとうございました。
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