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読まれずじまい、書かれずじまいの文章たち

 世の中には、生涯で本を5冊も読まない人が大勢います。
「購入された書籍全体の95%は、読了されていない」のです。
 でも、途中まで読もうとしただけでも、まだマシです。
「購入された書籍全体の70%は、一度も開かれることがない」のですから。

という衝撃的なことを頭にもってきた記事を見つけました。齋藤孝先生の記事ですね。どうやって確かめたのかは気になりますが、置いておきましょう。

こちらの記事では「ではどうすれば本を読めるようになれるのか?」という話に進んでいきますが、僕はちょっと待ってよと言いたい!

本を買おうと思う人ですらも本を読むのには苦戦するというのなら、やっぱり文章を読む人って特殊なんじゃないの?なのに「読む人」にとって都合の良い社会になりすぎじゃない?


「読む人」に優位の社会すぎない?

僕たちが日常を過ごす社会には大量の文字があふれています。どこを向いても、どこを歩いても文字が目に入ってしまう。

学校でも会社でもプライベートでも、冠婚葬祭の場面も、携帯の契約でも、娯楽でも、とにかく文章を読んで理解できないとお話になりません。

でも、冒頭の言葉が本当なら、この世の中には「読める人」なんてそうそういないわけです。少し複雑になったり長めの文章になると読めない方が「ふつう」なのです。

だとしたら、どうしてこんなに「読める人」が過ごしやすい社会になっているのか。

社会的地位の高いところにいる人や権力側の仕事(公務員や政治家)に就いている人はまず間違いなく文章を読む能力が高いですよね。

本当にそれでいいのでしょうか?

将来はAIとかウォーカロンがサポートしてくれるのでしょうか。

・・・・なんてことは今の僕にはあまり興味が湧かないので、そこを掘り下げたいのでもありません(突然の裏切り)。


むしろ、掘り下げたいのはこちら↓


書かれようとした文章の何割が書かれずじまいか?

読もうと思ってもらった本の95%は読まれません。それほどに読むのは負荷がかかる。

では、書くほうはどうなのでしょうか?

作家になりたいとか、生涯1冊くらいは本を出してみたいと思う方はかなり多そうです。ちょっとnoteを始めてみようかなという人もたくさんいそうです。

しかし、ほとんどの人は話だけ思いついていつまでも書き始めなかったり、書き始めで筆が止まったり、書いても納得いかず消してしまったりしているのではないでしょうか。

会って話すとネタが尽きない人であっても、それを文章にするのは難しいということは多いです。

作家だって、世に出した何倍もの文章をノートに書いて誰にも見せていなかったり、捨てたりしているはずです。僕もnoteに書くほどじゃないなと思って消している文章がたくさんあります。

つまり、書かれようとした文章のほとんどは書かれずじまいではないかと思うのです。


生まれること自体が奇跡的

そんなわけですから、今世に出ている文章は生まれたこと自体が尊いことではないか、そう思います。

とはいえ、そうやって世に出た文章のほとんどはまともに読まれない…笑

まあそれは仕方のないことかもしれません。

ただ、せっかく生まれてきた文章なんだから、しっかり味わってもらって、読み解いてもらって、感想を伝えられて欲しいなと思います。

誰だって、始めから上手く書けるわけではありません。

書き手を生かすのも育てるのも偏に読み手のおかげだと思います。特に最初の頃の読み手の反応は、書き手を書き続けられる人にするか決めている気がします。

書き続ければ、いくらかはうまくなっていくでしょうし、いつか一つくらい傑作を残すかもしれない、そう思います。


知り合いの文章の味わい

面白くない(もしくは面白いと保証されていない)他人の文章なんて時間を割いて読んでられるか、と言いたい人の気持ちもよくわかります。

では、知り合い(友人)の文章ならどうでしょうか?

こう言ってはなんですが、よく知る人の文章ならどんな内容でも、誤字だらけでも丁寧に読みたくなりませんか。

僕なら一言一句しっかり目を通したいし、できる限り感想を伝えるようにします。コメントしたり、本人に言ったり。

本人を知っているからこそ、本人とのエピソードなどが目の前の文章に文脈として組み込まれてきて奥行きが出てきます。

あいつこんなことを考えていたのかとか、こんな文章も書けるのかという発見があり、あと10年経ったらどんな文章を書くんだろうとか、あの体験があってこれを書いたのかなとか想像する楽しさがあります。


僕を書き続けられる人にしてくれた方々

僕が書き続けられるようになったのは無数の読み手の方がいたからです。


中学の頃、通っていた心療内科の先生に日記を書くことを勧められました。

僕は正直に当時の苦しさを書き綴り、それを診療の度に先生に見せていました。先生はいつも赤ペンで僕のノートに「文章がうまい」「ここの表現がすごい」とか「ゆっくりゆっくりでいいよ」とコメントをくれました。

高校の時、始めて短いストーリーをいくらか書きました。文芸同好会で発表した文章を毎回友人たちが読んでくれ「作家になれよ」と持ち上げてくれたのは忘れられません。

noteを始めてからは知人以外の方にも文章を読んでいただくようになり、ライターの仕事もいただくようになりました。コメントやサポートがあるといちいち人生を振り返って泣きそうになります(笑)。

そして最近、ファンレターをいくつかいただきました。僕の文章が好きだと伝えてくれる人がいるんです。そのことがどんなに心強いことか、どんなに喜ばしいことかはボディランゲージまで含めないと表現しきれません。


これらが、書き続けられる今の僕の要素の数々だと思います。
まだまだ未熟な文章とうっすい経験に、みなさんが価値を与えてくださっているのをしみじみと感じています。

ありがとうございます。

これから先の人生をかけて、いろいろ経験して、いろいろな人と話して、もっと良い文章が書けるよう楽しんで努めます。


最後に

今日は読まれずじまい、書かれずじまいの文章に想いを馳せてみるというテーマで書いてきました。自分が書き手だからこそ読まれない文章が不憫で仕方ないのです。

もっと言うと、読まれても理解されないとか読み解いてもらえない文章もすごくもったいなく感じます。そういう自分も小説をささっと流し読みすることがあるんですけどね。

この文章を書きながら最終的に思ったことを書いて締めくくります。

流し読みされる文章、味わってもらえない料理、背景を想像してもらえない主張、気づかれない優しさ。こういうことに対する感度を上げることは、それ自体が優しさなんだろうな。


以上!
共にいろいろなことが深く味わえる人間を目指しましょう!オー


今回も最後までお読みいただきありがとうございました!


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久高 諒也(Kudaka Ryoya)|対話で情熱を引き出すライター
サポートいただいたお金は、僕自身を作家に育てるため(書籍の購入・新しいことを体験する事など)に使わせていただきます。より良い作品を生み出すことでお返しして参ります。