鬼八についての最終考察その②
そもそも、私が"なぜ修験者!?"と考えた理由を述べておく。
それは、興梠古伝記を読んだ時に、英彦山というワードが出てきたことから始まった。
英彦山って、どういう繋がりだろうと調べていった。
http://yamataikoku9.web.fc2.com/index.html
ネットから色々と参考にしたもの。
その際、鷹が登場する事が気になった。
前々回にも書いた興梠古伝記の中で、藤岡山に住んでいる鷹を三毛入野命が矢で射ったことにより、白い血を流し、滴れた場所が白水といわれ、今私が暮らしている屋号とも関連することから、鷹との繋がりが気になったのだ。
もしかしたら、英彦山信仰が入ってきたのではないか!?
と考えた。
そう考えていくと、鬼八法師という法師にも通じてくるものもあるし、呪術によって雨を降らしたり、山々を逃げまわったりなど。
そして、四国、祖母山、そして阿蘇。
辿って行った場所が修験場と関係しているからだ。
高千穂では勢力も強く、三毛入野命の部下をほとんど殺してしまっているのに対し、阿蘇では弱々しい伝承である。
このことは、阿蘇大明神を祀る阿蘇氏が阿蘇修験者を統治できていたからだと思われる。
よって、高千穂との繋がりもやはりあるだろうが、それぞれの伝承文化が違うのは、それぞれの氏族が作っていったからであろう。
現在、旧家である興梠家には横穴式古墳と認定された場所があるという。
また、この付近、現在一本木交差点付近から馬具も出ており、部族があったことも分かっている。
つまり、興梠氏は昔からヒメヒコ制があり、男は武力、女は祭りごとによって、高千穂を統治していたと思われる。
ヒメヒコ制についてはWikipediaを参照
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%A1%E3%83%92%E3%82%B3%E5%88%B6
ではヒコは誰か??
これは、鬼八①である。
話が色々前後してしまって申し訳ないが、鬼八①が渡来してきたのは、弥生時代から古墳時代。
鉄文化、稲作文化と共に来た。
この時点では仏教はないので、修験者である鬼八ではない。
前回①としたのは、修験者である奈良時代700年代に来たと思われる鬼八だったが、恐らく、前回の鬼八は鬼八②である。
(※ 書いている現在で自分の中で変化するため、読者に混乱させるかもしれないが、ご了承いただきたい。)
武力を運んできた鬼八①が原住民で縄文人であった興梠氏と共に統治した。
そして、ヒメは鵜の目である。
鵜の目は巫女。
気をつけなければならないのは、鵜の目に関しても①、②といくつかの鵜の目が存在している。
つまり、鵜の目①
荒立神社は恐らく、山氏といわれる興梠氏の山信仰で、山神であった。
荒立明神、これである。
社ができて、現在の荒立神社、そして、猿田彦大神、天鈿女命が祭神となるのは江戸時代である。
三毛入野命が、熊野より故郷へ戻られるのも、本来時代的にはこの頃であるが、お供の丹部、若丹部はだいぶ後なので、時系列がおかしくならないように気をつけなければならない。
鬼八伝説とは、時代時代で統治しやすくする為に鬼を成敗し、自らを神との繋がりとして正当化する為に作られた物語なのだ。
つまり、鬼八は1人の人物ではなく、時代時代で鬼八または、鬼と化されたものがいるということだ!!
その後は古事記により、藤原時代、持統天皇時代になるとヒメヒコ制はなくなり、前回書いたように鬼八②が仏教伝来と共にやってきた。
加持祈祷による呪術、薬草採取などの医学的分野、教養などなど山伏が入ってきた。
今までとは違い、仏教が入ってくることによって、新たな文化として興梠氏と生きていくことになる。
今現在の興梠氏は渡来系の鬼八と原住民の鵜の目の子孫。
だから、興梠氏が鬼八の末裔と言われることも、間違いではないと思うのだ。
そして、950年頃そこへ現れたのは宇佐でも神職を司っていた、大神、田部である。
以前のまとめはこちらを
https://note.com/kucky918/n/n49374c0dd5a4
次号へつづく
参考文献
小手川善次郎遺稿集 高千穂の民家 他歴史資料
高山文彦著 鬼降る森
興梠古伝記