ぽてと元年 第一回 実家の建付けが悪い
那覇空港に穴があいた。
小さな穴だという。羽田から那覇空港上空まで飛んでいた飛行機は着陸のタイミングを失って旋回し、北へ向かった。
「同じことが前にもあって、その時は嘉手納基地に着陸した」
後ろの席に座っている高齢の男性が、沖縄の訛りでそう話していた。
角丸四角形の窓から外の景色を見ると、下に広がる雲はピンク色に怪しく光っている。雲の切れ間に、もくもくと煙を吐いている大きな山が見えた。
「田舎だー!」
と後ろに座っていた子どもが大きな声をあげ、鹿児島についた。
せっかくだから空港で黒豚のひとつでも食べてやろう、と客席は、少なくとも私は浮かれていた。しかし飛行機に閉じ込められたまま2時間が経った。後ろの席の高齢の男性がCAさんを呼び、「どのような状況になっているのか教えてくれ」と言った。ちゃんと文句が言えて偉いと思った。
「給油が終わった」とアナウンスがあり、そのまま離陸することになった。客席からはため息が漏れた。「はぁ、残念、黒豚が」と後ろの席に座っている子どもの母親らしき女性がつぶやくと、「でもなんだか楽しいよ」と子どもは言った。子どもなりに気をつかっているようでいじらしかった。
お詫び、として直径3cmほどの軽羹が配られた。鹿児島名産だ。白くて丸い。
「はぁ、こんなこんな小さい小さいお菓子ねぇ」
と隣に座った老婦人は、沖縄の訛りで私に話しかけた。事態の割には、小さい小さいお菓子だった。でも誰も悪くない気がした。
「そうですねぇ」
と私は標準語で相槌を打ち、目や鼻や唇をぎゅっと中心によせ、あまり文句は言いたくないんだという顔をした。文句を言うのも偉いし、気をつかうのも偉いし、トラブルに対応しているのも偉い。みんなみんな偉い。でも私は若いので、空気を悪くしないことに慣れてしまっている。軽羹を二つに割って口の中に入れると、空腹の胃袋に甘さがしみた。うん、おいしいと大げさにつぶやいてみた。1時間ちょっとかかり那覇空港についた。飛行機に7時間も乗っていたことになる。
那覇空港の外に出ると、すっかり暗く、空気はぬるかった。お土産の入った袋とリュックサックを乱暴に地面に置き、羽織っていたコートを脱いで腕にひっかけた。
母の車を見つけ、後ろのドアを開き、お土産の入った袋を放り込む。母の車のにおいがする。
大変だったね、と母は私をねぎらった。母は那覇にある友達の家に寄り、チョコレートを食べ、友達が録画していたクイーンの特番を見せてもらい楽しかったらしい。「なにもないけど、冷凍うどん食べるね ?」と聞かれるくらい長居した、と話す。私は7時間飛行機に乗ったあげく、配られたのが軽羹ひとつだったことを大げさに話した。私の言葉は、車の中で少しずつ沖縄の言葉になっていく。
二人ともお腹が減ったので、道沿いにある大きな看板のラーメン屋に入ると、水がまずかった。沖縄に帰ってきたと思う。蛍光灯の下で私の顔を見た母は「なんか、太ったね」と言った。前回の訪問から5キロ太っていた。
1時間半高速に乗り、名護につく。少し走ると、左側が開けて名護湾が見える。いつもは太陽がまぶしく照り返すのを見て、名護に帰ってきたことを実感するが、海はもう薄暗かった。
やっと家につき、玄関を開けようと引き戸を左に動かしたが、ひっかかって動かない。
「ちょっと上に持ち上げるといい」
と母が言い、私は両手に提げたお土産袋が食い込むのを感じながら引き戸を持ち上げた。動かない。見かねた母が引き戸に手をかけ上に数回持ち上げると、どっ、どっ、ど、と引っかかりながらドアが開いた。
荷物を置き、居間でテレビをみていた父への挨拶もそこそこに、トイレに行ったが、トイレの引き戸も動かない。
「ちょっと上に持ち上げるといい」
と今度は父がいい、力任せに上に持ち上げてみると、どっ、どっ、ど、と引っかかりながら開いた。トイレに入り、トイレに飾られている手水鉢にボウフラの姿を確認し、手を洗い、どっ、どっ、ど、と開けて、どっ、どっ、ど、と閉めて居間に戻った。
「扉という扉の建付けが悪い」と私は二人に宣言して、「あとボウフラもいる」と付け足した。父は床に座り、ストーブの前に陣取りビールを飲みながらテレビをみていた。母はソファで寝転がってスマートフォンをいじっていた。二人は私の方を見て、少しニヤニヤして、また各々の作業に戻った。
私は裏口も確認することにした。アルミサッシのドアの、金属の取っ手をひねって押す。ギギギと音がするが、スムーズに開いた。ドアの前に座っていた野良ネコたちが散り散りに逃げた。ここだけは大丈夫なようだ。居間に戻り、黒い革張りのリクライニングに座った。父が酔っぱらってテレフォンショッピングで買ったものだ。
3分ほど経って「父さん、扉が開かないんだって」と母が言い、父が生返事をした。父はつまようじを半分に折り、折れた部分で歯の間をほじくっていた。
数分が経ち、
「ところで、お前の故郷の景色はどこか」
と父が唐突に聞いてきた。変なの、と母が言った。
「故郷で思い出す風景というのが人間にはあるんだ」
と父は熱く言った。酔っぱらっていると思った。ビールの缶が3本ほどころがっている。
そうだねぇ、と考えるふりをしたが、父親とするには感傷的な話だと思ったので、うやむやにしたかった。
「名護湾か」
と父は言い、名護湾、と母は笑った。
私の頭に浮かんできたのは、中学校まで毎朝通っていた通学路だった。2車線の道路に大型トラックがビュンビュン通っていて、排気ガスのにおいがした。小学校近くに流れる川は茶色で、川にかかる橋はトラックが通る度に小刻みに揺れた。
通っていた小学校の校歌に「流れの清き○○川の」という歌詞があった。父は小学3年生の私に「流れの汚きドブ川の」という替え歌を教えた。それは子ども心に魅力的にうつった。クラスメイトに披露し、ちょっとだけ流行し、私は教頭先生に怒られた。
「川かな」
と私は答え、川かぁ、はぁ、と父はがっかりしたように言い、テレビに目を戻し、すぐ眠った。
次の日、母方の祖父母の顔を見に行った。体調はどうか聞くと、祖母は最近目が見えなくなっていると言った。
「目が見えないのは大変だ」
と私は声をかけた。人の痛みに寄りそう言葉が自分には足りないように思えた。朝はいいんだけどね、夕方になると目が痛くなってね、という祖母の話に耳を傾けた。話の終わりに、
「なんか太ったね」
と祖母は私の顔を見て言った。
以前は芋しか食べない祖父だったが、今はウエハースしか食べなくなっていた。お土産に持ってきた「とらや」のきんつばをあげると、最初は断られたが、「高いやつだから」と言うと、一個食べた。祖母にもひとつ勧めたら、炭水化物抜きダイエット中だからと断られた。そのあと祖父と五目並べをやった。5回やって、3回勝った。祖母に「花を持たせてやりなさい」と叱られた。
その次の日、朝起きると誰もいなかった。もう昼に近い時間だった。寝ぼけたままトイレに行くと、トイレの引き戸がますます開かない。上に持ち上げると、どっ、どっ、どっ、どっ、どっ、と引っかかりながらドアが動いた。昨日よりも悪化している。
頭がぼんやりとするのでアイスコーヒーを買いに行こうと思った。玄関は建付けが悪いことを思い出し、裏口から出ようと考えた。玄関からスニーカーを持ってきて、金属の取っ手を持って押すと、ギギギギと音が鳴り、野良ネコたちが散り散りに逃げた。ドアは30度ほど開いたが、それ以上は動かなかった。昨日まではスムーズに開いていたはずだ。ここにも建付けの悪さが感染してしまったようだ。
身体を横にしてドアから出て、近所のコンビニでコーヒーを買った。裏口のドアを開こうと引っ張ると、やはり30度ほどしか開かない。身体を横にして家の中に入り、スニーカーを玄関に戻し、自分の部屋に戻り、少し仕事をした。
どっ、どっ、どっ、どっ、どっ、と音が鳴り、お昼休みに玄関から母が帰ってきた。私は自分の部屋から居間へ行き、
「もっともっと、扉が開かなくなってる」
と言い、トイレの引き戸がより開かなくなり、なぜか裏口まで開かなくなっていると告げた。
「今日の朝、お父さんが直しよったはず」
と母が言った。
直した結果、悪化したらしい。よくあることだ。なぜ問題のない裏口のドアも直したのか。それもよくあることだ。とはいえ扉が開かずにトイレに閉じ込められるのは困ると主張した。
母はトイレの扉に手をかけ、「本当だ」とより状況が悪くなっていることを確認し、
「でもトイレには小さい窓が付いているから、おーい、とそこから助けを呼んだらいいんじゃない」
とふざけた調子で言った。
でも玄関の建付けも悪いのだ。結局だれも家の中には入れない。そう指摘すると、ふん、と鼻で笑い、「コーヒー飲む? 葬式の引き出物の」と聞いてきた。「飲む」と私は答えた。
この話はもう終わりのようだ。
筆者紹介
山本ぽてと (Twitter: @YamamotoPotato)
1991年沖縄生まれ。今年から家での飲酒は週2回までと決めた。お酒はちょっとだけ体にいいと信じていたが、ただ体に悪いと知った。連載に「在野に学問あり」。