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親の着ぐるみと想像力~大阪出張講座を終えて思うこと~

2月の1回目の3連休に、大阪出張をしてきました。
1日目は排泄学講座、2日目は性教育学講座と
2日間に渡りkuccaの軸となる講座を開催、2日間で20名近くの方に聞いていただきました。

ご参加いただいた方、改めてありがとうございました。

1日目の排泄学に参加された方に
「モロイさんはこどもの気持ちの代弁者ですね」と言われました。

代弁者と言われて、そうです、私は代弁者なんですよ
と笑って言いましたけどw
なんだかとても印象的で、その後もそれについて考えていました。

そこから感じたことは、
私たち親はみな、『親という着ぐるみ』をかぶっているんだなということ。

もちろん着ぐるみの私たちも正真正銘の自分なのですが、
でもやっぱり【親】という圧のある着ぐるみを着ていることを
親の私たちは充分に認識しておかなくちゃいけないということを改めて感じました。

つい親目線で考えてしまう。

という言い換えにもなりますが、【親】という着ぐるみの方がもっとリアルに、イメージできるんじゃないかと思います。

例えば排泄で言うと、赤ちゃんだから、別におむつの中におしっこをしてもいい、という認識はおかしいってこと。

もちろん、立てない、話せない、歩けない
そんな状態で、大人と同じ動きはできない。

でもだから紙おむつにしてもらうっていう《前提》はおかしくないですか?

極論、「大変申し訳ないのですが、この度はおむつにしていただいてもよいでしょうか、はい、もう無理なのは承知の上なのですが、どうしても今私のキャパが難しいので、ご承知いただいたら助かります。」くらいでもいいという話w

親にとって正義だと思っているけども、その着ぐるみ脱いで考えてみると
そのモノ(カラダや本人の意志)より大事な正義ってあるだろうか?
特に生命を維持するに左右される快不快においては。

だから、、、、想像してみる。
自分だったらどうかなって。

いきなり朝起きて歩けなくなったら、どうしますか?
夫に、とりあえず俺は仕事だから、日中おむつはつけておいて。
これ10時間もつから。大丈夫。
お尻に逆戻りもないし、サラッとしてるらしいよ。
1回で交換すると1枚単価意外とするから、ぜひ2~3回はしてね。
って言われたら、思われたら、どうですか?

私は無理。いや。人権無視!って叫んじゃう。

いやいや、赤ちゃんそんな意思ないからって言葉が聞こえてきそうだけど
意志はありますから、しっかり。
それを言葉に出して言えないだけだし、以前に
意志があったら表出するということすら知らないのだもの。

排泄に限らずこんなシーンもよくありますね。

きょうだいが生まれた時、上の子が急にお漏らしし始めましたとか、
おしっこ近くなりましたとか、おむつを希望するようになりましたとか。
それも赤ちゃん返りと名付けらえて、まあ仕方ないかと黙認される。

これも想像してみてください。

例えば、時は弥生時代。日本でも一夫多妻制の時代はありました。
そこにタイムスリップしたとして、、、
夫1人に対して、妻が2~3人いてもおかしくない時代。
1人目の妻だった自分の後に、夫が今日から家族だと言ってもう1人妻を連れてきたら?
頭では理解しているけど、感情が追いつかない事って想像できませんか?

そこで、追いつかない自分、どうしたらいいかわからない状況の最中に、
周りから、わかったように、あ~そうか◎◎返りかとか言われ黙認されたら、それこそ、涙出るわ。

お母さんが退院して赤ちゃんを連れてくる。
普通の幸せの1ページですよね。親にとっては。

でも、それもきっと子どもは同じように、
頭では理解しているけど、感情が追いつかない事なんだろうって思う。

けど、家族が増えることは素晴らしいことだし、赤ちゃんが生まれることも素晴らしいこと。
でも、素晴らしいからって感情がすんなり、ハイ、そうですね!って追いつくとは限らない。

着ぐるみ来て、結構エグイことを親は、実はやっているんですよ。

でも、これはあなただけじゃない。みんなそうだし、私も同じですよ。

人からは代弁者って言われるかもしれないけど、
じゃあ我が子の気持ちはしっかりわかっているかっていえば完全NOです。

私もしっかり着ぐるみきちゃってるんで、いかに脱いでいくか
模索しながら生きています。

そうやって自分の着ぐるみの存在に気づき、
着ぐるみを脱ぐことに挑戦することで、こどもの気持ちがわかるんじゃないだろうかと思うのです。

子どもはわかってくれない親に、いかに伝えるかと苦肉の策で
時として排泄を使って訴えてくることがあります。
(おねしょ、おもらし、わざとする、おむつをせがむ、交換しない、尿意を無視するなど)

これは本能に刻まれた術だと私は思っているのですが、
どうにか子どもの気持ちになってみて考えてみたらわかるかもしれない。

そういう一縷の望みを忘れないでほしいなと。

私はこうして排泄育児を通して、上記のようなことを学びました。
なぜなら、子どもから発されるきっかけが
食う寝る出すの生理的欲求から来る快不快に基づいているから。

だからこそ、排泄から多くを学んでいます。
そして今もなお、そこ(食う寝る出すの生理的欲求から来る快不快)を土台に、学び続けています。

ぜひこれをきっかけに排泄育児に興味を持ってもらえたら嬉しいです。
始まりはココからです。


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排泄育児研究家 モロイサエコ
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