UFOはどうしてオカルト扱いされたか
UFOはどうして、いつもオカルト扱いされたり、真面目に取り合われないのか
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1,UFOと科学的態度について
UFOを見た者にとっては、UFOは存在するかどうかではなく、UFOとは何かということが興味の中心となるはずだ。しかし、現実的には、何も分からないので、途中で正体の解明は放棄してしまうのが、もっぱらだと思う。分からないものは、分からないでいい。それが、一番、科学的な態度だと思う。
逆に、勝手な想像や、ウケ狙いで面白おかしくしようとする人がいる。それがテレビで活躍するUFO評論家などだと、もっとも質が悪い。最初に書いたような、科学的態度とは真逆の態度なのだ。そのことがUFOとは頭の弱い人が妄想を信じたり幻覚を見て自己顕示欲のために存在を主張する愚かしいものだというイメージを広めてしまった。また、一方で、そういうふざけたテレビ番組を放送する一方で、真面目ぶってUFOは存在しないという前提で、まことしやかにUFOはこういうふうに勘違いされて、ありもしないのにあるとされているという風な科学的結論風の番組を制作したりする。どちらも、その場で視聴率が稼げればいいマスゴミらしい内容としかいいようがない。最初に結論ありきで、それに合わせて証拠をかき集めるのは愚かしい。それは、注目を浴びようとした偽写真もあれば、偽動画もあるだろう。そんなものを検証してUFOは存在しないと科学的結論を出されても、それが当てはまるのは、その偽写真だけなのだから、意味をなさない。いずれにしても、科学的態度で臨むなら、見たけれど、それが何かは不明であるという言い方しかできない。それでは番組にならないから脚色するのは、非科学的で嘘の匂いしかしなくなる。そもそもテレビ番組は、UFOなどの科学的検証とは馴染まない。それは、これまでのテレビ番組を見れば一目瞭然である。間抜けなUFO評論家やらのせいで、真面目にUFOを見た人は全て口をつぐんでしまっただろう。誰も、他人に馬鹿にされてまでUFOについて語ろうとはしないだろうし、大馬鹿な生きるチンドン屋のようなUFO評論家と同一視されることを嫌うのは当然だからだ。
2,UFOは、そんな曖昧なものではない
二つ目にUFOは、見間違いだろうとか、飛行機などとの勘違いだろうと言われがちだ。それは不幸なことに、すべての人が近くからUFOを見れるわけでないから、曖昧なUFOを見た人が明瞭なUFOを見た人より圧倒的に多いのは当然だ。UFO写真についても同様である。曖昧な意味不明な写真が多いのは同様の理由で仕方がない事だ。
ところが、UFOが明瞭に撮影できないのは、単なる距離の問題なのだ。明瞭に見える程度に近くでUFOを目撃した人もいるということだ。そして明瞭なUFOも撮影できるということでもある。曖昧なUFO写真が本物のUFO写真で、明瞭なUFOな写真が偽物だという考えは、一見本当のようで実に愚かな考えだと分かるはずだ。明瞭な写真でも本物も偽物もあるし、不明瞭な写真でも本物も偽物もあると言いたいのだ。UFO写真の明瞭度は、単に距離に依存するせいで変化するだけだ。新幹線が明瞭に撮影できるカメラならUFOだって明瞭に撮影できるであろう。明瞭な新幹線が偽物の新幹線で、不明瞭な新幹線が本物だなどと思っている人は誰もいないだろう。しかし、なぜUFOだと、そういう新幹線とは異なる奇妙な写真の味方になるのだろうか。それは、おそらく、UFOを見たことのない人なら「UFOは存在しない」という前提で写真を見ているからだろう。だから、明瞭に撮影されたものほど、嘘っぽく見えてくる。こんなものが本当に存在するのかよと思えてくるのだと思う。ところが、不明瞭なUFO画像だと、どうだろうか。そういうUFOは存在しないという強いバイアスのかかった人の目で見ても、《ひょっとしたら、プラズマとか、不思議な自然現象があって、こんな風に実際に見える場合もあるのかもしれないな…》という気持ちになる場合もあるのではないだろうか。そんな事から、曖昧なUFO写真ほど、本物の写真と思われやすく、明瞭なUFO写真ほど、かえって偽物の写真と思われやすいのだ。これでは、いつまでいっても、UFOなんて存在しないという意見が主流を占めるだけで、見たことのある人とない人の間に架ける橋は永遠に作られないであろう。
3,本物のUFO写真
実は麻衣は本物のUFO写真を一度見た事がある。それは小学校時代に図書館で見たUFOの本に掲載されていた多くの写真のうちの一枚である。これは曖昧な写真ではなく、偶然にUFOと至近距離でデイライトで遭遇した写真であった。おそらくUFOは存在しないという思考のバイアスのかかっている人なら(つまり、普通のUFOを見た事のない人なら)、真っ先に偽物と思う写真であろう。目の前ででかでかとUFOが存在しているのが非常に嘘くさく見えるはずだ。それは麻衣も否定はしない。何故なら、麻衣も小学生時代にその写真を見た瞬間に、《あ、これは映画のセットか何かの、大きなスタジオで撮影された偽物だな…》と、真っ当な判断をしたからである。小学生でもそう思うのだから、経験豊富な大人なら嘘と思うのは仕方ないだろう。
ところが、その明瞭にUFOが写し出された写真こそ、本物のUFO写真だったのだから、UFO写真の真贋の判断は非常に難しいという事は理解できた。本物のUFO写真を選ぼうとする余り、曖昧で不明瞭な写真ばかりになってしまうのは仕方ないが、そもそも曖昧だから本物の写真ではないのは、新幹線を考えてみれば分かるはずだ。もし、新幹線というものが本当に存在するなら、不明瞭な写真もあれば明瞭な写真もあるはずで、明瞭な写真だから偽物の新幹線ではないというのは当然だ。じゃあ、新幹線とUFOとどこが違うのかというと、存在するものという知識のある乗り物と、存在しないだろうという知識のあるものの違いというだけだ。だから、明瞭だから偽物とするのは大きな間違いを引き起こしやすく、それではいつまでもUFOは怪しいものとか、オカルトの域を出る事はないだろうと思われる。
4,何故、本物のUFO写真と分かったのか?
本物のUFO写真は、非常に古い白黒写真であった。既にカラー写真全盛の時代にあえて白黒写真というのは、白黒なら加工し易いので、嘘を誤魔化すためではないかと勘繰られやすいと思うが、まぎれもなく本物のUFO写真であったし、本自体が古く、その白黒写真はさらに古い年代が掛かれていたが、まさか本物のUFO写真とは思っていなかったので年代までは覚えていない。
白黒写真ではあるが、白いセラミックのような質感のUFOであるのは、その写真のUFOの白さから明瞭だった。大人の男性の目の前に、その白いUFOは現れていて、写真はその男性の背後から撮影されているという、如何にも嘘くさい写真だった。そのUFOが小型のものではなく、驚くほど巨大で、まるで漫画かSF映画の世界のようだ。しかも、底面から煙を吐いている。形は半月形をしていて、窓などは外側からは確認できない。底は平らである。要するに白いバレーボールを半分に切ったような形をしている。
どうして、その奇妙なUFOが本物のUFO写真と分かったのかというと、それは、麻衣の見たUFOと全く同じものだったからである。麻衣はこの白黒写真ほど接近して見られたわけではない。それは不運であったと思う。この白黒写真は数十メートル先にUFOが現れているのだが、麻衣は数キロ先に見たのだ。しかし空気の澄んだ晴れの日のデイライトで順光でUFOを目撃したのだから、単に遠い分は小さく見えるというだけで非常に明瞭にUFOは見えた。しかも空に張り付いたように停止していた。そして、底面から白い水蒸気のような煙を吐いていた。更に驚いたことに、底面は手前から見ると直線状に見えるが、その直線に沿って左右に空が切れているように見えたのだ。単にUFOが目の前に登場しただけでなく、そのUFOの周囲の空間がかなり広い範囲で、その上の方と下の方では空の色が違っていたのである。二つの別々の空を直線状に張り合わせたように見えたという事だ。これはUFOが煙を吐いているだけでなくて、空間に影響を及ぼしているという事なのだろう。こちらの勝手な想像で言わせてもらうと、印象的には「たった今、宇宙から高いエネルギーでワープしてきた直後のUFO」であるような気がした。もちろん、それは間違いであるかもしれない。しかし、空間が上下に分割されていたのだから、これが飛行機やヘリコプターであるはずがない。やはり未知のものなのだろう。しかも、見間違えようがないほど、あからさまに明瞭に見えたのだからUFO以外のものと見間違える訳もない。そして、麻衣が図書館で見た写真は、麻衣が実物を見たものと「同型機」であった。これが過去に写真で見たUFOとまぎれもなく同じであることは自信をもって言える。何故なら、あらゆる特徴が一致しているからだ。煙を吐いている事まで一致しているのには、もう笑うしかない。
5,そのことから分かる事
麻衣が図書館で見た写真は、非常に古いものなのは間違いない。何故ならば、仮に本物の写真であれ偽物の写真であれ、撮影年代を偽ることに何のメリットもないからだ。おそらく撮影されたと言われている年代をそのまま書いただけだろう。そして、実物のUFOを見たのは、それから更に年月が流れてからなのだ。ところが、古い白黒写真のUFOの実物を見たのは、昔ではなく、カラー写真全盛の時代なのだ。このことから言えるのは、UFOに新しいも古いもないという事だ。車なら次々にモデルチェンジして、古い車は新しい車より性能面で劣ってる場合が多いのだが、UFOというのは少なくとも数十年間はモデルチェンジしてないという事になる。これはUFOは既に完成した技術という事なのかもしれない。科学技術は無際限に発達するものではなくて、ある段階で科学技術の限界に到達するものなのかもしれない。あるいは実用性に問題ないから、あえてモデルチェンジをしないでコストパフォーマンスを優先しているという見方も出来なくもない。理由は推測するしかないが、UFOは一度完成すると、そう易々とモデルチェンジしにくいものなのは、ほぼ正しいはずだ。そうでないなら、いくら何でも数十年も経過していればモデルチェンジしていそうな気がする。
もう一つ言えるのは、非常に巨大なサイズのものであるという事だ。小舟では太平洋横断をするのが困難なように、小さなUFOではワープするのが同じ意味で困難なのかもしれない。すなわち、移動のための安定性の面とか、燃料の面とか、時間の面とか、色々な意味で困難なのかもしれない。あと、半月形であることも、ベタなUFOの絵とは異なるものの、なんとなくUFOの普通言われている形状に似ている気がする。これも、三角形の飛行機が空気力学的に飛びやすいようなもので、半月形のものがワープし易いのかもしれない。
あと、麻衣は四角形の三機のUFOを見たけれど、これは金属的な質感で、朝日を浴びて一瞬ギラリと光を反射したのを見たので、こちらも決して見間違いではない。ただ、こちらはサイズが半月形のものと比べると小さかったと思う。小さいと言っても飛行機くらいのサイズだったが、体育館くらいのサイズだった半月形のものと比べると、小さいとしか言いようがない。これはワープするものでないから、形は関係なくて、おそらく母機に乗せられてワープしてきたもののような気がした。その猛烈な速度と無音だったことから、もちろん飛行機の見間違いではない。
6,科学者は当てにならない
では、そのような不思議なものが、存在するなら何であるのか知りたいのは、UFOを目撃した人であるなら誰しも一様に思う事であろう。では、それはいずれ科学者が解明してくれるだろうか?
麻衣は、そうは思わない。現代科学というのは余りに未発達であるからだ。だから科学者が優秀であれば優秀であるほど、「UFOなどは存在できるはずがない」と断定してくるのが常だろうと思う。要するに、仮にUFOが他の恒星の惑星から飛来してきたものだと仮定するなら、恒星間距離が遠すぎるからだ。宇宙でもっとも速い光速で移動しても恐ろしく長い年月がかかるうえに、光速より速いものはないというのが現代科学なのだ。それなら、その膨大な年月に耐えて飛来する意味も目的も見出せないと思うからだ。だから有名無名の科学者は等しくUFOは否定すると思う。光速より遅くてもワープすれば一瞬で宇宙の遠方まで移動できるのかもしれないが、まだ、それは現代の科学技術の領域ではなく、科学者が真面目に扱うものでもなく、どちらかというと文学者の扱うサイエンスフィクションの領域でしかない。そんな領域のものを科学者に期待することが間違っている。
もう一つ科学者が当てにならないのは、科学者というのは刑事と違うという事だ。もし科学者が刑事のように執拗にUFOを目撃しようと努力するなら一縷の望みはあるが、そんな人はいないという事だ。そもそも、科学者とはせっかちなものだ。例えば、UFOにそっくりの過去のオーパーツを見て、これは偽物だと(つまりUFOと形が似てるだけで別の者だと)知った瞬間に興味を失ってします。或いは、UFOそっくりに見える理由を発見しただけで、興味を失ってしまうという事だ。理由は簡単で、それ以上は何も分からないし、分かりようもないので、偽物だと分かれば即座に興味を失ってしまうからだ。もちろんUFOそっくりに見える理由が偶然によるものと判断しても同様である。点が3つあると、人は顔と認識してしまうのと同じで、半月形であれば人はUFOと認識してしまうものだ。ところが半月形なんて、もっとも表面積の少ない立体を二等分したものであるから宇宙にはありふれていて、球形のものが割れればUFOのような形になってしまう。だから半月形のものを見てUFOだと勝手に即断するのは自由だが、現実問題としてそれがUFOを表している可能性は低い。だから、科学者が面白がって、これは何だと思っても、次の瞬間には飽きてしまうだけだ。だから、科学者なんて当てになるものではない。
でも、実際にUFOを目撃した麻衣は、UFOの存在は動かしようもない事実なのだから、おそらく太古の人でも同様のものを目撃した可能性はあり、それがオーパーツのような形で残されていても何の不思議もないとは思っている。だから、もっぱらのオーパーツや壁画がUFOを表したものでないとしても、そこにUFOを模したものが残されていても不思議ではないのだから、その検証は「まず、否定ありき」のバイアスのかかった検証ではなく、例え空振りが多くても、科学的な客観性のあるものであってほしいと思う。あるオーパーツを発見した場合に、それとそっくりの別物を発見すると、途端に熱が冷めて「実は、こういうものの模倣でした」と、さぞ科学的であるように言う科学者もいるようだが、模倣であるのか本物のオーパーツであるのかは、もっとしっかりと検証しない事には実際は分かりようがないのだ。ただ、余りにも奇妙なものは存在し得ないというバイアスのかかった科学者が多いので、それはUFOについても同じでないかと思えてしまうのだ。結局、科学者は科学の万能性を語ることで商売をしてるのだから、科学に馴染みにくい分野である未確認のものについては科学者に期待する方が間違っているのである。
7,宗教家は当てにならない
それでは宗教家がUFOを解明するのかと言うと、更に望み薄である。彼らはUFOを利用して、霊感商法をしたいだけで、UFOとは何かという本質を解明したい訳でないからだ。
8,未来はすべてを語る
結論を言うなら、以前にも書いた通りで、未来になればUFOが何かどんなものであるか、どういう性能であり、どこから来ているのかなど、解明されるはずである。何故なら、確実に存在したのだけは、確信を持って言えるからである。
可能性のひとつは、現代科学の飛躍的進歩である。人間が電気を得て科学力がパラダイムシフトしたように、そして石器を作って科学力が(当時としては)パラダイムシフトしたように、人類は今後も何度かパラダイムシフトを繰り返すような気がするのだ。そうすると、これまでは不可能なことが可能になり、パラダイムシフト前は魔法のように思っていた事が現実に可能になるはずだ。例えば実用的な核融合発電などは現代だから無理難題なのであって、パラダイムシフト後であるなら簡単なものかもしれない。更に幾つものパラダイムシフトを繰り返すと、人間は大型の半月形の乗り物であるならワープできるようになるかもしれない。そこまで技術が進めば、人類でもUFOを作れたのだから、宇宙人がUFOを作れたとしても不思議ではないと分かり、UFO評論家は失業し、UFOは科学者の興味の対象になるだろう。人類がワープして未知の未開の生物のいるハビタブルゾーンの惑星に到達できれば、地球人がUFOは存在しえると実証したことになる。
もう一つの可能性としては、「未知との遭遇」という映画のように、UFOとの明白な遭遇がある事だ。どれだけ多くの人がUFOを目撃しても、それは集団幻覚だと言う妙な人までいるので、どこまで行ってもオカルトの域を出してもらえそうもない。そうではなく、目撃ではなく、国家ぐるみ、あるいは大きな集団ぐるみで宇宙人そのものとの交流が起きたならば、存在を認めざるをえない。あるいは、UFOからどこかが明白に攻撃されて、破壊された場合も、それを誰かが撮影しているだろうから、存在を認めざるを得ないと思う。そういう大きな破綻が、どこかで起きる可能性は皆無でないと思う。何故ならUFOは存在しているからだ。
まず、しかし喫緊の課題としては、マスゴミを黙らせることだ。面白おかしくUFOを茶化す(それは、ふざけてであれ、科学の仮面を被ってであれ)テレビ番組は、UFOが何であるかを知るには有害でしかないという事だ。そして、おそらく米国の一部機関はUFOの何かを知っている気がするのだが、それを面白おかしく茶化してバカ騒ぎするのも勘弁してほしい。UFOを目撃した人は明らかに現状ではマイノリティーであり、それを多数派が馬鹿にしてくるのは、余りにも趣味が悪いと思うのだ。
9,相対性理論とひも理論
相対性理論は、かつてのニュートン力学が法則の一部分を表していただけで誤りでないのと同様に、宇宙の法則の一部を表していて誤りではないのは、天文学者が実証している。また、ひも理論は現実をうまく説明するのに成功しているが、天文学者が実証しているわけでもないし、ひもが見える顕微鏡なんて相対性理論から考えても作れるわけもない。では、どうすれば、大統一理論に到達するのか、すなわち現代の物理学に重力を統一させるのかは、これもやはり未来になれば人類の科学が発達して、その領域に到達できるのかもしれないが、時間はかかるだろう。
しかし、もしUFOとのコンタクトに成功すれば、科学の進歩という膨大な時間を待たなくても、大統一理論がどういうものか誰しも平易に意味が分かる時代になる可能性は高い。何故なら、他の恒星から手軽に地球に飛来できるほどの高度な技術力があるのならば、科学も普通の意味では発達しきっている可能性が高いからだ。大統一理論だけではない、ハビタブルゾーンにある惑星の標準的な知的生物が、地球と同じ哺乳類の系譜に属するものなのか、それともそれは単なる天体衝突による恐竜絶滅によるもので実は爬虫類が標準的な知的生物なのかは、地球人には不明であるが、ワープ技術がある宇宙人ならそういう星に行ってみるだけだから、簡単に知ることが可能な常識的な知識であるに違いない。それを知ることが出来るというのは、哺乳類である人類にとっては大きな驚きになるであろう。