第二章
大阪編
朝の五時半に目が覚めた。
月曜日の朝だ。辺りはまだ薄暗く、鳥の鳴き声も聞こえてこない。加藤は窓を大きく開け、ひやりとした朝の空気を部屋の中に取り込んだ。雨が上がった後のアスファルトの独特なにおいがした。
ベッドに腰を下ろし、備え付けの冷房庫から取り出したミネラルウォーターを一口飲んでからグミに染み込ませておいたLSDを摂取した。身柄をかわすために大阪に来てから、既に2週間が経っていた。毎日欠かさずにニュースをチェックしているが、今のところ在日朝鮮人グループのリーダー格の男が殺されたといった類の報道は一切ない。恐らくハンザワが上手く処理をしたのだろう、と加藤は思った。彼らにとって死体を処理することなど、廃車になった車をスクラップ工場に持っていく程度の感覚なのかもしれない。
加藤はスマートフォンで直近三日間の日経平均株価の推移と暗号資産の値動きをしばらく眺めた後、ルームサービスで簡単な朝食を摂り、ユニクロで買っておいた目立たない服に着替えた。
高橋から電話があった。
高橋の声には、いくらかの興奮と少しの疑いが含まれていて、加藤を少々不愉快な気分にさせた。
「お前、どこにいんだ?」
「大阪」
「大阪、なんで?」
「用足し」
「“リンボ”のリーダー、バラされたの知ってるか?」
「あぁ、知ってる」
「お前だろ?噛んでるの」
加藤はその問いに対して、口を噤んだ。
加藤、準備は万全に整っている、と高橋は言った。
準備は万全に整っている、と加藤は繰り返した。
その高橋の言葉に、加藤はいくらかの安堵感を覚えた。高橋の口調はいささかビジネス的に捉えることもできたし、友人を思う一人の人間の言葉としても受け取ることができた。
だが加藤にとってはそれは重要な問題ではない。
そうか。彼は全て知っているのか。知った上で、連絡をしてきたのだ。
加藤の頭の中で思考が渦を巻いた。
詐欺グループのリーダー、ハンザワ。バックにある矢条会系月山組の存在。そのフロント企業のMKC。金。女。薬。
裏社会に入ってからの全てを高橋と見てきた。しかしその高橋にも打ち明けていない事があった。
「俺がハン・ズンジンを殺した」
加藤は静かな口調で云った。電話越しに高橋の沈黙が聞こえてきた。
「あれは予知夢だったんだ」
加藤が独り言のように呟いた。
「全てのことに意味がある。全てのことに意味がないのと同じように。俺達はこれからハンザワを引き摺り下ろす。」
加藤はそうだけいって電話を切ると、ルームサービスで頼んでおいたブランデーを一口舐めた。フランス、シャラント地方の土の香りがするような濃厚なコニャックだった。
加藤はなぜか不思議な気分だった。酔いが回ってきたのではない。ある種の謎が解けたような、そんな気分だった。全ては決まっていたのだ、と加藤は思う。自分がハンという人間を殺めることも、加奈という女が死ぬ事も、ハンザワを引きずり下ろすことも。誰かに仕組まれたのではない。全て、天から与えられた役目であり、運命なのだ。
加藤は鏡を見た。自分の顔を正面から見るのは久し振りだった。そこに映るのは、23年間苦楽を共にした顔であり、それと同時に全く知らない男の顔でもあった。その顔は、コンプレックスや劣等感を抱えながらも決して表面には出さず、必死に強がっているようにも見えた。そのコンプレックスの内側に、本当の自分がいる気がした。
おれは最悪だ、と加藤は呟いた。
鏡の中では、やはり自分と瓜二つの男が
おれは最悪だ
と呟いていた。
ハンを誘拐した時、思いの外抵抗が少なかったことを加藤は思い出していた。
ハンザワにハンの殺害を依頼されたあと、加藤はすぐに実行の手順を整えた。ハンザワが手配した車を埼玉まで取りに行き、ハンの住むマンションをマークして行動パターンを探った。
すると、概ね不規則だが水曜日に限り深夜1時頃に必ず家に帰ってくる事が分かった。その際ハンは必ずやや大きめのセカンドバッグを小脇に抱えていた。おそらく水曜日は集金日か何かだろう、と加藤は予想した。
1人でハンを攫うのは不可能なため、ハンザワに頼んで人を2人用意してもらった。彼等には実行当日の集合場所と、加藤が普段使う偽名だけを教えた。報酬は一人当たり70万円という約束も言い渡した。
犯行当日に現れた2人の男は、どちらも加藤より歳上に見えた。ハンが住むマンションは南青山にあるという情報は、事前に掴んでいた。根津美術館の近く、アパレルショップや高級焼肉店が並ぶ通りがあり、その大通りから一本中に入った路地の一角に、そのマンションはあった。路地を一本入っただけで、人や車の行き来が絶えない青山通りの喧騒とは全く別の佇まいがあった。一方通行のようだが道幅は広く、車で待ち伏せをするのは容易に思えた。
駐車場の入り口がある裏手の方に車を止め、ハンの帰りを待った。加藤の予想した通り、午前1時を10分ほど過ぎたところで、例によって集金バッグを小脇に抱えたハンが現れた。
行くぞ、という加藤の合図と共に、3人の男が車を降りて静かな足取りでハンの背後を追った。約1m程まで距離を縮めたところで、加藤が右手に持っていた黒色のビニール製の土嚢袋を勢いよくハンの頭に被せた。間髪開けずに仲間内の1人がハンの腰辺りにスタンガンを押し付けた。
バチチ、というスタンガン特有の音がしたと同時にハンの体は立ったままびくんと痙攣した。だが、ハンは地面に倒れ込むわけでもなく、スタンガンを浴びせた男の襟首をしっかり掴んでいた。
すかさず加藤は力を込めた右拳をハンの鳩尾に思い切り叩き込んだ。
その瞬間に再び青白い閃光が視界をよぎり、バチッ、という音がしたと同時にハンが地面に倒れ込んだ。
加藤は連れてきた仲間と一緒にハンを担ぎ、そのままレクサスのトランクに押し込んだ。結束バンドで手足を拘束し、ガムテープで口を塞いだ。
協力者の2人を解放し、加藤はレクサスを運転して仙台に向かった。宇都宮まで下道を使い、