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それは躾?それとも過保護?|もっと怖い支配の話

こんにちは。断・モラハラ夫34日目の久保だいすけです。

正確には、モラハラを断固たる決意で止めようと変容を誓って34日目です。

今日も昨日に続いて、「DV・モラハラ加害者たちの体験談」の本からの気づき、自分の行動との同期について書いてみます。

今日の気づきは、娘が寝る前に部屋を片付けていた時のやり取りです。

ビーズの入ったケースを横にしまう常識と、躊躇なく縦にしまう娘

数日前に、娘が寝る前に部屋に一緒にいると、少し散らかっていたので一緒に片付けていました。最後に残ったのが、たくさんのビーズが入ったケース。上にパタパタ開く蓋が付いているタイプです。

ぼくの「常識」からすると、これは縦にしまえば、蓋が開いてビーズがこぼれ落ちます。こぼれ落ちたら、ケースの中で小分けされているビーズがごちゃごちゃになるだけではなく、あたり一面、またはしまった収納の中が一面ビーズだらけになることは間違いありません。したがってぼくの中には縦にどこかへしまうという発想は皆無でした。

ただ娘は違います。なんの躊躇もなく、ビーズがたっぷり詰まったケースを縦にして収納箱の中に入れました。もちろん、その直後から「じゃらじゃら」とビーズが溢れてきている音がします。気づいた娘とぼくは、その収納箱を改めて取り出そうとします。

親としては、そおっとビーズのケースを取り出さなければ、寝る前のこの時間にもかかわらず、床一面にビーズが飛び散ることが想定できます。なので、「〇〇ちゃん、ちょっと待って、出さないで!」と言いますが、聞かずに進めるのが子供です。

「だから、ちょっと待って、飛び散るからやめて、ださないで!」と追い討ちをかけて漸く娘は止まりました。正確にはぼくの言葉を聞いて止まったというよりかは、溢れ出すビーズを見て、あーもういいや、と思って止まったということかもしれません。

ぼくは思わず「あー、もうだから待ってっていったじゃない」と。

でもここで止めました。ぼくはぼくの常識を押し付けようとしただけで、娘は本心でどう思っていようと、彼女がそれでいいというならそれで良い。綺麗に整理整頓された状態が崩れるのが嫌いなのはぼくの価値観であって、娘にそれを強要することは加害的な関わりであると。

娘とはその後、ゆっくり一緒に電気を消して寝る前のおしゃべりをしましたが、どこか娘もこの一件が気になっている様子。すこし不安定になっており、とにかく肯定することを務めました。

外的コントロールという形の支配

翌日、冒頭で紹介した書籍を読み進めていると、気になる一文を見つけ、読み進めると、まさにこのようなエピソードのことが書かれていました。

外的コントロールとは、自分が相手を変えられる、相手も自分を変えられるという考え方のことです。典型的なものとしては、親が子供によく「親の言うことを聞きなさい」とか「何でお母さん(お父さん)の言うことを聞かないの!」と怒鳴りつけたり、叱ったりするのを見かけます。また、上司が部下に「何でお前はこんなこともできないのだ」とか「俺の言うとおりにやっていればこんな失敗しなかったのに」と𠮟りつけるシーンを見たことがある人も多いのではないでしょうか?

「DV・モラハラ加害者たちの体験談」より抜粋

ぼくの行動はまさにこの外的コントロールに該当します。父親として、娘に「ぼくが何とかするから〇〇ちゃんはいうことを聞け」「なぜいうことを聞かない」「ほら、言うこと聞かないから」と支配的に娘に接していました。

親に命令されて喜んで行動する子供なんていませんし、自分もそう言う子供ではなかったです。娘がそうであるわけがありません。

代替手段としての内的動機づけ

もともと外的コントロールとは、たんとすまいるの教えの軸となっている選択理論という人間の行動メカニズムを体系化した概念に基づいています。

選択理論は多岐に渡りますが、その中の一つが「外的コントロール」と「内的動機づけ」です。選択理論では、外的コントロールの下で人が喜んだり楽しいと感じることはないため、内的動機づけから行動することが問われています。まさに「自分が変えられるのは自分だけ。他人は変えられない」という言葉通りです。

この思考に変わるためには、「自分の行動や言葉に全て自分が責任を取る」ことが必要と言われています。逆に「他人の行動や言葉に対して、自分が責任を取る必要がない」のです。

これを実行するということは、

・自分の機嫌は自分で取る(自分の機嫌が悪いのは自分で責任を取る)
・自分の健康は自分で守る(自分が不健康なのは自分のせい)
・自分の言動は自分で正す(誰かを支配しようとする言葉遣いより、自分の心を表す言葉遣い)

まさにぼくが丁寧に生きることを1カ年計画に含めた理由そのものです。

娘に対してどうするべきだったか

あの晩、娘に対してぼくは外的コントロールをはたらきました。

親であり大人だから、子供が失敗しないように、子供が〇〇しないように、とぼくは相手の行動や思考を変えられる、究極的には結果を変えられると思っていましたし、そうするべきだと思っていました。

ただそれは恐ろしいことに、自分が面倒だから、という理由だけです。自分のために、自己満足のために行った行動であり、結果をコントロールすることで自分が楽したいのを、躾だ娘を守るためだ、と勝手に口実を作っていただけでした。

可愛い子には旅をさせよ。

まさにあの時失敗してもいいですよね。縦に入れると溢れない?と一声かけるだけで良かったかも知れません。その一声なしで、単に失敗させてあげれば良かったかも知れません。確か翌日は休みか何かで、特段何も気にする必要がない夜だった気がします。だったら尚更ですよね。

まとめ

選択理論については、まだしっかり学べていません。

でも娘とのやり取りを見ると、ぼくは外的コントロールを働くような加害行動に出ることが多いように感じます。

本格的な学びは来月から始める予定です。それまでの自習期間においても、体験談を読み、経験者の声やその方が習ったメソッドについて触れるだけで、諸先輩方が身につけられた知識を拝借し、自分の行動についても言語化し、良い行動・改善したい行動に分けていくことができます。

あまりいちいち悲観的にならないように気をつけながら、改善・変容したいと感じたところを意識して、次からは接点を持つ。そして学びを本格化した暁には、じゃあ代わりにどのように行動すべきかについて考えていきたいと思います。

今日も休みで本当は家族で一緒に過ごす未来があったかも知れないながら、現状に付き合ってくれてありがとう。

妻ちゃん、今日もありがとう。


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