サヨナライツカ
人間はどうして高尚であろうとするのだろう。
ご多分に漏れず私もそうなのだが。
自分が一生添い遂げたい相手に求めることを考えた時,素直な人とか,美的感覚を共有できる人とか,芯のある人とか,色々なことを求めるでしょう。
確かに人間としての幸福はもはや動物としての幸福だけでは足りない領域にまで及んでいる。
だが,高尚な人間である前に私たちはやはり動物である。
痛みや喜びの経験から形成された,パートナーに求める条件がどれだけ理に叶っていたとしても,
動物としての快楽を知ってしまった時,
そして,私たちが見出す自然界における愛と同じものの芽生えを感じてしまった時,
私たち人間はどうやっても,動物としての幸福を犠牲にして成り立つ人間としての幸福を素直に享受することはできないのではないか。
好青年として慎重に生きてきた豊はその仮面を放り投げ,沓子を選ぶことはできない。
しかし,別れの後の25年,再会を果たした後の5年も彼は彼女との日々を忘れられず苦しみ続けた。
物語では描かれなかったその後の人生においても,彼は彼女の幻影を追い続けるのだろう。
性愛。それほどまでに二人の男女の人生を狂わせたもの。
性と愛。
私は正直,初めて性愛という言葉を知った時,そんなもの存在するのか,と疑問に思っていた。
性欲と愛が一つになることなんて,と。
性欲は独占欲ではないか。
与えることである愛とは性質が違うものであり,むしろ相手から心も身体も何かも奪い,自分のものにしたいという欲求ではなかろうか,と。
一時期,よく考えていたのだ。いや,悩んでいたのだ。
大切にしたい,優しくしたいという愛情とは裏腹に,どうしようもなく力強く湧き上がってくる破壊衝動。
だが,この二人を見て,性と愛は同時に存在しうるものかもしれないと思い始めた。
激しい交接の後の長いカタルシス。精神の泉。か。
求め合うことが与え合うことであり,それを愛と呼ぶのなら。
私たちは男女のような形は成し得ない。
肉体的に繋がりたい。でもできない。その矛盾に苦しさと虚しさを覚える時はある。
だからこそ,拗らせているのだろう,とは思う。
だが,全く同じような感覚を味わうことは困難だとしても,自分なりに性と愛の同時成立を解釈できる日が来ればいいなと思うし,きっとその日は来る,とわりかし期待している。
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