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忘れていた遠い過去(これぞフラッシュバックの第一次パニック障害)その4

 もう一つ災いしていることがあった。母は教師だから、担任の先生とは同業者。妙な忖度があったのかもしれない。
「お宅のお嬢さん、友達の文房具を盗んでいるみたいですよ」
 とか、
「体育を休むのは、何か理由があるのでは?」
 などと非常に言いにくい状況なのだ。
 「教師の娘」が、そんなことをするはずがない、清く正しいのが当然、なにしろ「教師の娘」なのだから。または、そんなことを言って自分の指導不足を責められたりしたらどうしよう、と思った可能性もある。そこに、他の職業では理解できない無数の感情が渦巻いている。
 本当の姿を見てもらえず、正しい子供を押し付けられるがために、心が壊れてしまった子供達の親の職業に、教師、警察官、弁護士、医者などがすごく多いことを、大人になって知る。
 現に私も私個人として見てもらえることはなく、「九葉谷先生のお嬢さん」として見られることの方が多いわけで。母でさえ一体どういうスタンスなのか、「教師の娘」だからちゃんとしている、と何も考えずに思っていた気がする。例えば大学の志望校を決める時にも、身の丈のレベルの大学を志望したら、
「なんで? もっと高いとこ受けてみればいいのに。お母さん、受かると思うな―」
 と言ったりする。
 私の普段の成績はもちろん、模試の結果にも興味がないのに、それでもなんだか認められた気がして嬉しくなり、
「どうしてそう思うの?」
 と尋ねた。実はちゃんと見てくれていたのかも、と期待をこめて。
「お父さんとお母さんの子供だから」
 母は、いつものように私の顔も見ずに言い放った。
 がくっ。
 何もわかっていない。こんな答え、いらない。
 ダメだ、このヒト。何十回目かに思ったものだが、とにかく親からも他の人からも、そのようなバイアスがかかって、私そのものを見てくれないので、盗難のことも表沙汰にはならなかったのかもしれない。
 ただ1回だけ、夜寝る時に母からチラッとトイレのことを聞かれたことがある。担任の先生が、どういう形でどのような事実を報告したのかは、全く不明だけれど、何かしらのことは言ってくれたのだろう。
「まず朝起きてトイレ行くでしょ? 前は学校行った後、いつトイレ行ってたの?」
「えっと、4時間目終わるまで行かない」
 おそらく発症してからは、休み時間ごとにトイレに駆けこんでいたのだと思う。それが思い出してみると、4時間目終了、つまり午前中いっぱいトイレに行っていなかったのだ。
「ほら、そんなに長い間行かなくても平気なんじゃない」
 母が、言う。
 あ、そうか。
 私も気づいて、びっくりした。
「そうだね、もう大丈夫だね」
 自分でも納得して、そのようなことを返したと思う。
「はい、この問題はこれで解決!」
 みたいな感じで話を閉じて、どこかへ行ってしまった。寄り添ったとはいえない状況。
 けれども、たったこれだけで大分症状が軽くなったのを、覚えている。これくらい心をかけてもらっただけで、快方に向かう。では、いつもはどれだけ無視されているのか、ということの裏返しでもあるのだけれど。状況は、完治までは行かないけれど、少し自信を取り戻せたとは思う。
 これは、小学校2年の時の話。完治までは行かなかった、と思うのは3年になったからの別のエピソードを覚えているから。
 小学3年の夏休みは、心臓の手術をする予定の弟が入院することになり、私は伯父の家に預けられた。20日間くらいだったと思うけれど、その前に10日間位保育ママの鎌倉の実家に預けられているので、夏休みの殆どを他人の家で過ごしたことになる。
 その時の保育ママの実家での体験も壮絶だったけど、その話は別の機会に必ず。
 2か所に預かってもらうことになったのは、やはり他人の子供を長期間預かるのは大変だったからだろう。ましてや私は心を完全に閉じたかわいげのない子だったから無理もない。
 弟が生きるか死ぬかの一大事なのだから、私のことなど誰も気にする人なんかいない。ましてや、
「そんな所に預けられるのは、イヤ!」
 なんて、絶対に言えない雰囲気。
 ある日伯父の家の子供2人、私にとってはいとこたちと伯父と4人で高尾山にピクニックに行くことになった。伯父の家から高尾山までは中央線で1時間くらいだったと思う。この時にはすでに電車が怖くなっていたと思われる。もしかしたら、小学2年で良くなったと思ったのが間違いで、実はさらに悪化していたのかもしれない。
 なんとか乗り切るために、朝から水分を一滴も取らないという作戦で臨んだ。あさはかな子供の知恵だ。
 軽い登山を伴うので、当然汗が出て、喉は乾く。けれど私は飲みさえしなければ、トイレに行かなくても済む、と歪んだ認知をしていたので、現地でどれだけ飲み物を勧められても、決して口にしなかった。いとこの2人は、ジュースを飲んだりしている。
 羨ましかった。
 でも伯父は、私に遠慮して同じように何も飲んでいない。理由も知らずに。何度も聞かれたけど、言わなかった。トイレに行きたくなっちゃうかもしれないから、なんて言えば、
「大丈夫だよ、行きたくなったら行けばいい」
 と言ってくれるかもしれず、そうすれば簡単に解決したのかもしれない。けれどもトイレの件は、恥ずかしいことという刷り込みがものすごく強かった可能性や、その小学2年の時の先生の対応などにより怖くて言い出せなかったのだと思う。
 伯父だって喉が渇いて辛かったに違いない。
「ねぇ、稀沙ちゃんが飲んでくれたら伯父さんも飲めるから、何か飲もうよ」
 と何度も私に寄って来て、しゃがんで目線を合わせ、言われた。懇願、というレベルの勢いだった。
 かたくなに拒否する私。伯父は、一体どう思っただろう。
 私は、飲んだら最後、帰りの中央線に乗れず、つまり伯父の家に辿り着くことが出来ずこのまま高尾山で過ごさなければいけなくなる、と根拠のない妄想にかられていた。おかしすぎるけれど、本人としては深刻だった。
 そもそも私が伯父の家に世話になった理由は、弟の手術のため。私自身親と離れ、心がめちゃくちゃに乱れ、とても正常な状態ではなかったのだと、今はそう思える。


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