自分で作って自分に食べさせる食事の話
私は、3人暮らしのシェアハウスで生活をしている。3人とも料理は好きなので、人がいるときには大体作りたい人が作りたい料理を、3人分ないし2人分作る。しかし3人それぞれの都合があるので、毎度同じタイミングで食事をするわけにはいかない。どこかのタイミングで、一人で料理をする必要が生じてくる。
一人暮らしでいつも一人分の食事を作っている人であればそれほど気にならないのかもしれないが、複数人で生活をしているせいか、一人で作って一人で食べる食事について、いろいろなことを考えることがある。
料理は、自分一人のための一人前を作るより、複数人の分を作るほうが簡単だ。大体のレシピは2〜4人前を想定されている。一人前の料理で野菜を一つ使い切るのは難しいし、お米を1合炊くと多すぎる。作り置きのおかずでも無い限り、一人前の食事を上手に作るのはなかなかに難しい行為だ。
しかし人間は、たとえ一人ぼっちでも食べないとやっていけない。いくら悲しいことがあっても、嫌な気分でも、落ち込んでいても、自分で自分に食べ物を摂取させてやらないことには死んでしまう。
これは、単に必要なカロリーと栄養素を摂取すればいいとかいう話ではない。人によっては、カロリーメイトとビタミン剤さえ摂取していれば概ね問題なく生きることができるのかもしれない。しかし少なくとも、自分にその生活は無理だ。数日はそれでも問題ないかもしれないが、きっと長くは続かないだろうと思う。どこかで絶対に、美味しいと思える食事が食べたくて食べたくて仕方がなくなってしまうと思う。それはつまり、美味しい食事が決定的に欠乏している状況で、何かが決定的に欠乏しているということは、健康ではない状態のことを指すのではないだろうか。美味しいと思えるご食事、自分が満足できる食べ物を食べることは、中長期的に健康な生活というものを考える上で、なくてはならない要素だと思う。
しかしながら、一人で食べるためだけの料理を作るとき、それをどれぐらいの気持ちで作ったらいいのか、どれぐらい力を入れて、どれぐらい美味しく作ればいいのか、その塩梅がいつもなかなか難しい。
食べたい料理を考えて、それを作るのに必要で家にない食材を全部スーパーで買ってきて、下ごしらえから盛り付けまで、一汁三菜しっかり揃ったものを作るのはかなり難しい。実際に手間や時間がかかるというのもある。でもそれ以上に、自分ひとりが満足すればいいだけの料理にそんなに力を入れて、時間や労力を割く必要があるのか?ということを考えてしまう。つまりそれは、自分という人間に対して自分がどれぐらい良くしてあげるべきか、という判断基準の問題でもある。
自分一人を満足させればいいだけなのだから、せいぜい適当なインスタントの袋麺を茹でるか、冷凍庫のご飯を解凍して卵と醤油を適当にかけて食べさせておけばよい、という考え方もできる。実際、投げやりな気持ちになっていたり、落ち込んでいるときにはそうしてしまうことが少なくない。そういう気分のときは大体いつも自分のことを大事に思えないので、わざわざ自分で自分に美味しいごはんを食べさせてやる気など微塵も起きない。自分ごときの美味しい/不味いという感情なんてどうでも良くて、とりあえず腹の虫だけ黙らせておけばそれで良い、と考えてしまいがちである。
気分が低迷しているときは大体そんな感じで、自分一人のために美味しい食事を作ってあげることができない。料理と呼べないぐらい雑なものを、とりあえず胃袋に突っ込んでしまう。その些細な自虐的行為は、しかし確実に自分の健康を損なってしまっているのだろうし、そのことによって更に気分が低迷することもあるはずだ。これでは負の連鎖だ。
自分一人を満足させるための料理は、それほど手の込んだものである必要はないと思う。自分一人を満足させるために労力や時間をたくさん割くことができるのはとても素晴らしいことだと思うけど、毎日それを続けるのはとても難しいことだ。でも、蔑ろにしすぎるのもできるだけ避けたい。どんなときも、なるべく自分で自分を満足させてあげられる状態でありたい。いくら悲しいことがあっても、嫌な気分でも、落ち込んでいても、自分がそれなりに満足できる、ちょうどいい塩梅の食事を自分で作ってあげられるようになりたいと思う。
今日の昼食に、自分で作って自分に食べさせるのにちょうどいい塩梅の食事を作ることができた気がしたので、その写真を撮って文章にすることにした。
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