短編連作小説『チル』 第一話 ノイズキャンセリング #創作大賞24 #ファンタジー部門
コンセプト
「LoFi音楽」×「迷子のネコ」×「失恋」をテーマにした6つの短編からなるオムニバス小説。現代社会における孤独と癒し、喪失と再生を、LoFi音楽の持つ独特の雰囲気と迷い猫というモチーフを通して描き出す。
作品
「ノイズキャンセリング」
あらすじ
失恋の痛みから逃れるため、音大生の静が手に入れた奇妙なノイズキャンセリングヘッドフォン。現実の雑音を完璧に遮断し、世界を美しい音楽に変える魔法の機能に魅了される。だが、理想の音楽世界に没頭するほど、彼の存在が透明に。そんな中、ヘッドフォンをすり抜ける鳴き声を持つ野良猫との出会いが、静の閉ざされた世界を揺るがす——
第一話 ノイズキャンセリング
◆
窓の外、アスファルトに叩きつけられた雨粒が、ネオンサインの光を拡散させていく。
音野静は、いつものカフェでコーヒーを飲みながらPCに向かっていた。ディスプレイには、作曲ソフトのMIDIエディタに打ち込まれた、音符の羅列が並んでいた。
向かいの席で、理奈がマグカップを弄んでいる。ココアの表面には、もう湯気は立っていない。その様子が、静の心をざらつかせた。
「ねえ、静。私たち、もう終わりにしない?」
理奈の声が、アンビエントミュージックの中から浮かび上がってくる。静は、装着していたイヤホンから流れるLo-Fiヒップホップの音量を、スライダーで少しだけ下げた。
「静、聞いてる?」
「あ、ああ、ごめん。何て言った?」
視線をPCの画面から理奈に向ける。
「だから、静といると、私の存在が消されてしまう気がするの」
理奈の言葉が、サンプリングレートの低いビットレートのように、静の耳に突き刺さる。音楽は、静にとって、酸素であり、シェルターだった。しかし、そのことが、理奈との距離を、リバーブのように、徐々に引き離していたのかもしれない。
「音楽音楽って、もううんざり。さよなら」
そう言い残し、理奈はカフェから出て行った。静は、まるでサンプラーに取り込まれたサンプルのように、その場に立ち尽くしていた。彼女が出て行く姿さえ、モノクロの残像のようにしか見えなかった。
カフェの喧騒が、ビットクラッシュを起こしたノイズのように、静の耳に流れ込んでくる。学生たちの話し声、食器がぶつかり合う音、遠くで鳴り響くサイレンの音。ありふれた日常の音が、今は歪んだノイズにしか聞こえなかった。
「世界がどうしてこんなにノイズだらけなんだ」
静はイヤホンのボリュームを上げたが、ノイズを打ち消すことができなかった。静は、ただ一つ、強く願った。
「完璧な音楽を作れる、そんな場所があったら……」
それは、静の長いサンプリングループの始まりだった。
◆
深夜2時、静は「ゴミ捨て場」に戻った。
楽譜や空のカップ麺が床に散乱し、壁には音楽ポスターが無造作に貼られている。
静は、キーボードの前に座り、ヘッドホンを装着した。
深い静寂。しかし、静の頭の中は、決して静かではなかった。理奈の言葉が、リフレインのように、何度も何度も、静の心を締め付ける。
静はキーボードに手を伸ばし弾き始めたが、指は思うように動かずメロディ ーは断片的でぎこちない。苛立った静が鍵盤を強く叩くと、不協和音が部屋に響いた。
なぜだ…?
理想の音楽世界と、愛する人を失った現実。相反する感情が、メロディーとノイズのように静の中で交錯する。
雨上がりの深夜、静は無目的に街を彷徨っていた。ふと足を止めると、見慣れない看板を前にいた
ビニール・タワー。レコードのお店のおようだ。
静は店に入り、目的もなく、レコード棚の間を彷徨った。指先で、レコードジャケットをなぞっていく。ジャケットのデザイン、アーティストの写真、そして、レコードの溝から聞こえてくるかすかなノイズ。静は、そのノスタルジックな雰囲気に、わずかな安らぎを覚えた。
店の奥へと進むと、薄暗い一角に、古びた自動販売機が置かれているのが目に入った。それは、一見、普通のジュースの自動販売機のようだったが、よく見ると、商品名の代わりに、「ノイズキャンセリング」「チル」「没入感」といった、意味深な言葉が並んでいる。
興味本位で、静はポケットから硬貨を取り出す。コインを投入口に滑り込ませると、自販機が静かに作動し始めた。
ガチャリという鈍い音と共に、ヘッドフォンが入った小さな箱が、取り出し口に落ちてきた。箱は、無地の茶色の段ボールで、何も書かれていない。静は、箱を手に取り、店の隅にあるソファに座り込んだ。
箱の中には、シンプルなデザインの、ノイズキャンセリングヘッドフォンが入っていた。説明書も保証書もない。ただ、ヘッドフォンがあるだけだった。
静は、ヘッドフォンを手に取り、じっくりと眺めた。ヘッドフォンは、新品のように綺麗だったが、どこか懐かしい、レトロな雰囲気を漂わせていた。
◆
レコードショップを出た静は、人気のない路地裏に佇んでいた。夜明け前の空は、まだ深い藍色に沈んでいたが、東の空からは、少しずつ、オレンジ色の光が滲み出し始めていた。
静は、深呼吸をして、ヘッドホンを耳に押し当てた。
次の瞬間、世界が沈黙した。雑多なノイズが完全に消えたのだ
工事現場の鉄骨が軋む音、クラクションが乱れ打つ騒音、隣人の話し声、冷蔵庫のモーター音、そして、静の心臓が早鐘のように打ち付ける音さえも、全てがヘッドホンの向こう側に吸い込まれていく。まるで、巨大な真空パック機に世界ごと押し込められたような、そんな錯覚に襲われた。
残ったのは、完全な静寂。深淵の底のような、宇宙空間のような、この世のものとは思えない静けさ。静は息を呑んだ。耳鳴りすら聞こえない。初めて、自分の内側が空っぽになったように感じた。
そして、その無音のキャンバスに、一滴のインクが落ちるように、Lo-Fiのビートが流れ始めた。
今まで灰色に見えていた街並みが、鮮やかなパステルカラーに染まっていく。ネオンサインは、音符のように踊り始め、雨に濡れたアスファルトが、鍵盤のように光り輝く。
静の歩みに合わせる、LoFiビート。まるで、街全体が一つの音楽に合わせて動いているかのようだ。
通りを歩く人々は、音楽に合わせて踊るように歩調を整え、笑顔で静に手を振る。
「おはようございます!」「良い一日を!」そんな挨拶が、ビートとシンクロするように静の耳に届く。まるで、世界中の人々が音楽に包まれ、幸せに満ちているかのよう。
静も思わず笑顔になり、ヘッドフォン越しに挨拶を返す。
「おはようございます!」の声は、LoFiの世界に溶け込んでいった。
しかし、ふと疑問が浮かぶ。
本当にこれでいいのかな…?
その答えを確かめるように、静はそっとヘッドフォンを外した。途端に、世界はノイズに満ちた現実に戻る。車のクラクション、工事の騒音、人々の喧騒。すべてが一気に静の意識に襲いかかってくる。
「やっぱり、現実はノイズだらけなんだ…」
一瞬で、理想の音楽世界から引き戻された痛みに、静は思わず目を閉じる。
◆
ヘッドフォンを手にしてからの数週間、静の世界は平和に満たされていた。
大学の講義も、ヘッドフォンを通して聞くと、退屈な教授の声が、奇妙なリズムを刻むラップに聞こえた。周りの学生は、皆、楽しそうに体を揺らしながら講義を受けているように見えた。静は、ノートを取るのをやめ、講義に合わせてビートを刻み始めた。
理奈と別れて以来、閉ざしていた音楽も、再び静の中で息を吹き返した。ヘッドフォンを通して作曲をするようになり、静は、今まで以上に、音楽にのめり込んでいった。しかし、それは以前のように、苦悩や葛藤から生まれる音楽ではなかった。静の作る音楽は、心地よく、軽快で、聴くものを現実逃避へと誘う、甘い夢心地のような音楽だった。
しかし、鏡に映る自分の姿を見た時、静は違和感を覚えた。いつの間にか、その姿が少しずつ透明になっているのだ。指先、腕、胴体。現実世界での存在が、徐々に薄れていくようで…
そして、いつものように、ヘッドフォンから流れるLo-Fiのビートに身を委ね、公園を歩いている と、ベンチの下で、一匹の痩せ細った野良猫が、静の姿をじっと見つめていた。ネコは、汚れた毛並みをしていて、警戒心に満ちた目で、静を睨みつけている。
静は、ネコに向かって、小さく手を振ってみた。しかし、ネコは、静の手を無視し、耳をそばだてている。次の瞬間、耳障りな声で鳴き始めた。
「ニャーゴ!!」
その声は、ヘッドフォンのノイズキャンセリングをやすやすと突破し、静の耳に直接飛び込んできた。それは、静の世界の調和を乱す、不協和音だった。静は、思わず、顔をしかめた。
「ノイズ...?」直感的に、静はそのネコを"ノイズ"と名付ける。LoFiの世界に迷い込む、異質な存在感。
静とノイズは、夕暮れ時の街を歩いていた。
「ノイズ、君の家はどこなんだい?」
歩きながら、静が尋ねる。するとノイズは、まるで答えるようにニャーンと鳴いた。その鳴き声が、音色とシンクロして、不思議な旋律を奏でる。
静は頷く。まるでネコの言葉が理解できるようだ。
道の奥には、古びた高架橋がそびえ立ち、その下には、段ボールやブルーシートで作った、簡素な住居がいくつか並んでいた。
「もしかして、ノイズ、ここがお前の家なのか?」
静が尋ねると、ノイズは、小さく頷いた。静は、ノイズを抱きかかえたまま、高架橋の下へと近づいていった。
高架橋の下は薄暗くひんやりしていたが、ノイズは静の腕の中で落ち着きを取り戻していた。そして、ある住居の前で静に降りるよう合図した。
その時だった。高架橋の上を、電車が轟音とともに走り抜けていった。その振動が、高架橋全体に伝わり、静とノイズは、まるで揺り籠の中にいるかのように、優しく揺さぶられた。
静は、ノイズを抱き上げ、高架橋の天井を見上げた。コンクリートの隙間から、夜空の星が、小さく輝いていた。ヘッドフォンからは、穏やかなLo-Fiのビートが流れ続けている。
その瞬間、静は、この雑音に満ちた高架橋の下が、ノイズにとって、唯一の安らぎの場所なのだと気づいた。
◆
ノイズとの別れから数日後、静はいつものようにLoFiの世界に没頭していた。しかし、どこか違和感を覚えずにはいられない。ヘッドフォンから漏れる音楽に、微かなノイズが混じり始めているのだ。
戸惑いながらも、静はヘッドフォンを外そうとはしなかった。
しかし、日が経つにつれ、ノイズは増していく一方だった。道を歩けば、車のクラクションが不協和音のように耳に突き刺さる。人混みに紛れれば、話し声がシャープなディスト―ションとなって音楽を歪ませる。
これじゃ、音楽に集中できない...
苛立ちを隠せない静。
そして、ノイズが増すにつれ、静の体にも異変が起き始めた。かすかだった透明感が、日に日に強まっていく。
LoFiの世界に留まることが、自分の存在を危うくしているのかもしれないと思うと、恐怖に震え出す。
ヘッドフォンを外そうとするが、まるで肌に張り付いたように動かない。
街を歩けば、ノイズだらけの現実が容赦なく静を攻める。蛍光灯のジリジリ音、子供の騒ぐ音、洗濯機の脱水音。すべてが、彼の世界を引き裂くように襲いかかってくる。
静は、雑踏の中、よろめきながら路地裏へと逃げ込んだ。壁に背を預け、両手でヘッドフォンを掴み、引き剥がそうとする。だが、ヘッドフォンはびくともしない。まるで、静の肉体と一体化していくかのように、深く、深く、食い込んでいく。
「離してくれ…!」
静の叫び声は、ヘッドフォンの中で反響し、虚しくかき消される。
「ノイズ…」
静は、無意識にノイズの名前を呟いていた。あの汚れて痩せ細った野良猫。しかし、今、静の脳裏に浮かぶノイズの姿は、あの時よりも、どこか温かくて、愛おしいものだった。
静の視界が、ぼやけ始める。透明化は、さらに進行し、今や、静の姿は、霞のように、消え入りそうになっていた。
ノイズに侵食された世界を彷徨っていた静は、ふと見覚えのあるカフェに辿り着いた。戸惑いながらも、静はカフェの中に足を踏み入れる。
カウンター越しに注文を取る女性の姿に、静は目を見張った。理奈が、アルバイトの制服に身を包んでいるのだ。久しぶりの再会に、静の心は大きく動揺する。
「こんばんは。ご注文は...」
理奈が、笑顔で静に語りかける。
「理奈、助けてくれ…」
震える声で話しかける静。しかし、理奈は首を傾げるだけだ。
「すみません、お客様。初めてお会いしますよね?」
現実のノイズが、容赦なく静の意識に襲いかかる。コーヒーマシンの音、客たちの話し声、皿の触れ合う音。
「どういう、こと…?」
すべてが、LoFiビートを引き裂くように耳に突き刺さってくる。
「俺たちの思い出も、キャンセルされたのか...?」
フラッシュバックのように、静の脳裏に過去の記憶が走馬灯のように駆け巡る。理奈との出会い、音楽への情熱、別れの痛み。それらすべてが、ノイズに呑まれて遠くなっていく。
静は、抗うこともできず、闇の中へと落ちていった。
◆
再び目を覚ました時、静は薄暗いレコード店のソファで横になっていた。体の感覚は戻りつつあったが、心は重い鉛を詰め込まれたように沈んでいた。
目の前には、あの古びた自動販売機。「ノイズキャンセリング」「チル」「没入感」の文字列が、静の心を嘲笑うかのように光っている。
静は、諦めにも似た感情を抱きながら、自動販売機にヘッドフォンを返却しようと試みた。しかし、その瞬間、足元に何かがぶつかってきた。
「ニャー」
あの日の三毛猫、ノイズだった。
「ノイズ…お前…」
ノイズは、静の足元で何度も体をすり寄せ、甘えるように鳴き声を上げた。
「…現実から逃げるなって…言いたいのか…?」
静は、ノイズの丸い瞳を見つめながら、自嘲気味に呟いた。
その瞬間、静の脳裏に、走馬灯のように過去の音が流れ込んでくる。初めて人前で演奏した時の緊張と興奮で震える心拍。理奈と出会った日に二人で聴いた音楽。そして、別れの日の、理奈がココアのグラスを置く反響…。
楽しい音も、辛い音も、全てが静の一部であった。
静は、自販機の前に立ち尽くしていた。
ゆっくりと、ヘッドフォンに手を伸ばす。ヘッドフォンは、まだ静の頭部に食い込むように密着しており、生ぬるい熱を帯びていた。
「さよなら…。」
静は、ヘッドフォンに別れを告げるように、呟いた。そして、意を決して、ヘッドフォンを両手で掴み、ゆっくりと、しかし、力強く、頭部から引き剥がした。
その瞬間、静の世界に、激しいノイズが流れ込んできた。
ガァァァァン!!
巨大な鉄橋が崩れるような轟音。静の脳は衝撃に耐えきれず、意識が白濁する。視界が歪み、体が千切れそうになる。
しかし、静は、ヘッドフォンを手放さなかった。歯を食いしばり、ノイズの洪水に耐え続けた。鼓膜が破れそうになりながらも、目を閉じ、現実の音を全身で受け止めようとした。
どれほどの時間が経っただろう。
徐々に、ノイズは静まっていった。
◆
夜明けの街に、静の姿があった。ノイズキャンセリングヘッドフォンを外し、全身で現実を受け入れるように。
かつては拒絶していた喧騒が、今は心地よい音楽に聞こえる。車のクラクション、人々の話し声、自然の囁き。すべてが、静のLoFiに溶け込んでいく。
街を歩けば、あらゆるものが楽器に変わっていく。ビルの窓はシンセサイザーに、車のエンジン音はベースラインに、鳥のさえずりはメロディに。現実世界が、一つの壮大な交響曲となって響き渡る。
静は、指揮者のように両手を広げ、街の音を操り始めた。静の指先から、音符が流れ出し、街全体が、巨大なコンサートホールへと変わっていく。
道行く人々は、静の姿に足を止め、静の奏でる音楽に耳を傾ける。最初は戸惑っていた人々も、次第に静の音楽に引き込まれ、体を揺らし始め、笑顔を見せる。
そして、群衆の中に、見慣れた横顔が。理奈だった。彼女は、静の姿を見つけるなり、目を丸くした。静は、理奈に向かって、優しく微笑みかけた。
理奈は、何も言わず、静の音楽に耳を傾けている。
「素敵な音楽だね。」
そして、人波の中に消えていく。
静は、理奈の姿を見送りながら、再び街の音楽に身を委ねた。
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