見出し画像

市民のためのスカイウォーク SkyWalk for Citizen #2

前説については、引用元の通りです。

登場人物プロフ
T わたしです。世界史から離れて久しい30代男。
K 世界史の先生。論文は18世紀の海賊。30代女。
Y 島根に勤める右翼。論文は16~17世紀の神聖ローマ帝国。30代男。

T 今日(2021.6.6)は第2章 地域世界の再編を取り扱います。

K アジアが苦手だから、聞きたい。唐宋変革の取り扱いは昔と変わっている。昔は唐と宋の間に断絶があると捉えられがちだったけど、今は連続性を気にするというか。教科書会社によって唐と宋を離しているところと繋げているところがあって。

T 阪大の教科書は?

K 繋げている。東アジア史、中国史で一番ややこしいけど、ここが分かっていれば分かったことになるかな。なんでややこしいかというと、民族ですよね。民族がいっぱい出てくるからややこしい。教員になって改めて気づいたのは、隋と唐が意外と異民族の王朝だったということ。そのへんがテキストにも書いてありました。あと全体的なところでいうと、中世ヨーロッパの説明はけっこう分かりやすかった。そんな感じで、お願いします。

◆女性と絹と遊牧民族の唐

Y 非常にカロリーの高いというか、分量の多い項目だった。前半の中国の話で一つ思ったのは、唐の時代、女性の地位が比較的高かったという表記があった。敦煌の手紙のコラムもあって。

K 離縁状で女性が強かった。

Y それもあると思うけれど、隋と唐の時代に、遊牧勢力との和睦、平和を得るために婚姻関係を結んでいたというのが、テキストにも登場していたけれど、こういう言い方をすると悪いけれど、女性がモノとして重要だった。贈り物として価値という側面があったのかなと思った次第。

T 「唐では女性が強かった」という理由は、一般論としてあるんですか。私はそんなイメージを別に持っていなかったのですが。

K 「唐では女性が強かった」で私が思い浮かべていたのは、則天武后だった。統治者の話だけど。

T 統治者が女性を認める在り方が、民衆レベルでも関連していたということか。

K 「みなさんご存じの通り」みたいな書き方をされているけれど、「そうなんや」となったな。

T ちょっと不親切な部分はありますね。

K 楊貴妃も居たけど、それは楊貴妃が強かったというより、それを機に外戚の権力が強まったという文脈であって、当時の社会全体として女性が強かったという話ではない。

T 楊貴妃の親族は権力を握ったんでしたっけ。

K 玄宗の時に楊家の親族が権力を握っていた。日本で言うと藤原氏時代みたいな。

T 藤原氏が外戚として力を握ったのは時代的にはだいぶ後だけど、日本でも皇極天皇とか称徳天皇みたいな女帝はいたし、統治者に女性がいたのは、別に唐に顕著という訳でもないような気はする。

K まあいち早くやっていたというか。わたしは、統治者のイメージがある。でもその割に租庸調は男女で全然違う。唐が口分田を与えたのは丁男のみ。むしろ唐の民衆層では女性に権利が与えられていない。これは女性が強いから畑も耕さなくてよいということ?

T それは違うと思うけど。

K 普通は耕しているから、私たちにも同じ権利があるはず、労働力として値打ちがある、という話になってくるはずだけど。

T ここは引っかかったけど、そのくらいの理解にしておきましょうか。

Y あと、これだけソグド人に注目するようになったのは驚いた。高校のときには全く意識していなかった。疑問なのは、なぜ国家形態を作らなかったのかということ。あと唐の時代に中国によく入ってくるようになったのは何故かということ。テキストにも軍隊として入ってくるとか色々書いてあったけれど、考えてみると、もう一つはササン朝が崩壊したからじゃないかなと。

K ソグディアナ。

Y そう、サマルカンドを領有していたササン朝が642年のニハーヴァンドの戦いで敗れて。

K 虫に(642)刺されてササン朝崩壊ね。

Y それで統治していたササン朝が崩壊していたことで、安息の地帯がなくなって、より一層流浪の民になったんじゃないかなと思っています。

T 遊牧国家が分かりづらいのって、彼らには都市がないからなのかもしれない。やっぱり国を理解するときに一番はまず首都がどこやねん、首都はどんなとこやねんというのが、かなりイメージの形成に役立つと思うんだけど、中央アジアの民族って多分オアシスベースで移動していて、都市を形成していないが故に少しとっつきにくい感じはしました。

K それはそうやな。

T それでYの言う、なぜ国家を形成しなかったのかというと、それは必要なかったからなのかなと思った。農耕民族は自営して武力を持っても、自分たちの命は守れたとしても、土地を守り切るのは難しいことだった。だから税を吸い上げたとしても土地の保有を保護してくれる権力というものが必要とされた。

逆に商人は互酬関係によって、モノの交換をしていれば生きていけるのであって、遊牧民族の場合も財産を持って逃げられるから、保護の必要性は相対的に低かったのかなと思った。ソグド人がこれだけ勢力があったというのが今回コラムとして取り上げられているし、内陸アジアの人たちがむしろ世界史の中で大きな役割を担ったというのは、このテキストでもそうだし、最近の世界史でもそういう見直しがされていると思う。そこをもう少し分かりやすくするために何か象徴的な「都市」があったら良いんだろうと思ったけど、それが無いから、そのアップデートがしにくいな。

K そうやねん。

Y 高校生のときはこの遊牧民が国家という認識はなかった。

T 実際にソグド人は国家じゃないけれども、国家じゃないプレイヤーが実は世界史を進めるのに重要な位置を占めている。『商業から読み解く「新」世界史 古代商人からGAFAまで』宮崎正勝という本のタイトルにあるように、国家じゃない主体が経済を梃子にして世界史を進める、様々な人々に影響を与える、そういうことをGAFAが再び行おうとしている、現代はそれを一番理解しやすい時代なのかもしれない。

K ソグド人がGAFAで、それを統べてコントロールしようとしているのが諸国家という感じ。でもソグド人は多分国家に保護してもらいたがっている。GAFAはそうではないかもしれないけれど。

T 保護してもらいたがっているの?

K 最近の捉え方として、「遊牧民族」と「農耕民族」の間を取り持つのが「商人」だとして、まず遊牧民族と農耕民族は一応国家を作る。領域や拠点が移動しまくるからヘンな感じがするけれど、遊牧民の中にも軍をコントロールする制度とか、耕作はしないけれど馬を持っている量を管理する制度なんかはある。

次に商人の目的は「安全に商売をしたい」に尽きて、隊商を組んで移動しているときにモノを奪われるのが一番嫌だから、遊牧民族と農耕民族のどっちに保護してもらうかを考えたときに、遊牧民族の方が騎馬で強いから、遊牧民族の保護下に入る。だから商人は、自分たちを保護してくれる遊牧民族国家に付いていく、という関係性になっている。

でも遊牧民は、自分たちは遊牧しかしないから、食料をどこから供給するかというと、農耕民と戦うか、商人から奪うかしかないから、商人と遊牧民の関係は、保護と敵対の両方がある。保護して貰える場合と奪われる場合とがあって、そこを上手くやったソグド人は、保護してもらえて、発展した。

T なるほど、自分たちが国家を形成したい訳ではないけれども、保護はしてもらいたいということか。その理解で分かりました。

K 安全に商業をしたいという感じ。

T このコラムについては、一つ疑問があったのですが、「7世紀初めまで・・・毎年、大量の絹布を軍需物資として運搬させた」という部分。

K そこは私も気になった。「西アジアの銀貨が流通する経済圏に含まれていた中央アジアを、唐の絹や銅銭が流通する経済圏に転換させる」とかのくだり。

T 絹って、唐が作って、それを西アジアに送っていたんじゃなかったっけ。この書き方は、あたかも唐が使っているみたいじゃない? 「軍需物資として絹布を運搬させる」というのは、唐が軍需物資として絹布を使っている。

K ここ私もよく分からなかった。絹は軍需物資なの?

T ちょっと調べたけど、たぶん軍服に使っていたのかな。地方に駐留する軍隊のために服や食料を配給するのが、国家の役割としてあったということかなと思っていた。

K 絹を与えておいたら、それを食料にも替えられるということかな。

T 専ら着るのではなく、交換も出来ると言うことか。でも軍需物資ということは、着るのだと思っていた。

K えらい良い服着て戦うねんな。

T そうやんな。あえて絹の服にする必要があるのかなとは思ったけど。

Y 軍需物資という表現はそうですね。ニーズがあるものだから、現地で食料と交換するための貨幣代わりなら分かるけど。

K 銀は、中央アジアが銀の経済圏だったけれど、唐の絹や銅銭が流通する経済圏に転換させることに繋がったとあるけれど、銀の話ってもうちょっと近世に出てくるイメージがあったけれども、このとき既に西アジアは銀で、それがいったん銅に代わったのか。

T でも絹が流通すると書いてあるから、これは絹を交換価値として捉えているのか。

K 絹もいつからだったか、ビザンツ帝国で生産可能になっちゃうから、そのあたりから価値が下がるけれど、このときは唐でしか生産できないものとして希少価値があった。

T シルクロードという言葉もあるけれども、どういう動きだったのかを知っているようで知らないな。

K まだ値打ちがあったはず。

Y 銀に関して言えば、もう少し時代は下るけれど、宋の時代の北方民族と和睦していたときの贈り物は銀だったね。

T あれは銀だね。

K そう。だからそのときには東アジアの通貨はまた銀になっていた。

Y 同じ時代の、日本が輸入していた宋銭は銅銭でしょ。

K 東アジアで用なしになったから輸出していたのかな。

T なるほど、日本はアウトレットの捌け口だったんだね。

K 脱線するけど、日本はなんで鋳造しなくなったんだっけ。それまでは独自通貨を鋳造していたけど。

Y 富本銭とか。

T 和同開珎。

K 本朝十二銭とか、いつまでだったか忘れたけど。でもなんで宋銭を輸入するようになったんだろう。なぜ鋳造するのを止めたのかとか、日本史で習った?

T 覚えていないな。めんどくさくなったのかな。

K 管理するのが。

Y 日本にも造幣局紛いがあった。確か清少納言のパパ、清原元輔が周防国に造幣局長官として派遣されているはず。

K その時代の中国地方は東アジアに近いから強い。

T 「鋳銭司」ってやつか。令外官のひとつで、長門に置かれている。なんで長門なんだ。

Y それそれ。

K 平安後期に貨幣の鋳造は行われなくなった。なんで長門なんやろ。銅が採れる?

Y 日本で銅というと、足尾銅山しか思い浮かばないけれど。

K 歴史で出てくるのはそうやな。それかいったん大陸から銅銭を輸入して、溶かしていたのかな。

Y 品質が保たれていたとか。均一性があって、安心して使える価値があったのでは。

K なるほど、宋銭の方が偽銭を作りにくいとかはありそう。

Y 日本が真似できない。

T 宋銭の権威を使いたかったのかな。

K それもありそう。

Y 材料さえあれば、同じモノは出来そう。

K 借りた本に出てきたな。

T そんな本貸したっけ。ぼくが書いた小説には密銭の話を出したけれど。

K 密銭出てきたな。なんかで偽銭とか、オフィシャルじゃないお金を扱う話を記憶していたのはそれか。

T 銭にみなさん関心がありますね。

K 最近は銀とか金とか、いつから何がどうなっていたのかは気になりだしていた。

◆唐宋改革と遊牧民族

Y 唐宋変革は、今更学ぼうとは思わなかった(笑)分からないで終わろう。ちょっと調べようと思ったら、何と2008年の京都大学で唐宋変革についての論述が出ているんですよ。その試験、受けた人が近くに居るなと思って(笑)そいつに聞こうと思って。

T 全然覚えていない(笑)言われたらそんな気がしてきた。

K 二次試験、世界史だっけ?

T 世界史だったよ。37/50点だったけど。

K 十分。

T だから唐宋変革について話せってか(笑)

Y 「唐宋変革 論述」で検索すると2008年京都大学が出てきて、よし後で聞こう、と思ったわけ。

T p58で「節度使の自立に悩まされ」という記述があって、一方でP69で、軍管区制(テマ制)というのがビザンツの制度としてあるけれど、この二つは類似している。地方の遊牧軍事力を無理矢理帝国に食い込んだけれども、中央の求心力が低下したときにそれらが独立化し出す。軍閥化して割拠して、混乱が生じるという。節度使はトルコ系のトゥルク人だし、ビザンツのテマはバルカン半島にもあるから一概にそうではないけれど、アナトリアの東側に居たトルコ人も含まれている。だからこれらは全く同じ現象のことを指しているんですよね。

K ホンマやね。しかも両方引き金はトルコ人。

T やっぱり内陸アジアのプレゼンスはこういうところからも窺える。それとp59で気になったのは、五代十国が生じますと。これは節度使の独立や割拠状態が極端な形になっているのだけれど、結果的に「江南、四川、福建、広東などの各地の開発が進められた」のは、中心となる都市が散居したが故に、国土の様々な場所が開発の恩恵を受けるという地方分権めいた正の効用があったと思いました。例えば日本の場合も、近代化して以降の太平洋側重視という政策が取られたことで、島根県を始めとして裏日本が取り残されてしまったように、農耕民は国土領域津々浦々からの徴税によって富を収奪して、都市へと再分配するという構造の中にある。そのときに、どの都市に対して還元していくのかという優先順位の付け方によって一極集中がもたらされたり、地方分権になったり、開発の姿は変わりうるので、五代十国のように勢力が変化することによって投資が分散したというのは、良い悪いは別にして、影響としてあったと思います。

K 唐宋変革はテキストで言うと、p60の太字以降の部分を表にして教える感じ。大きい中国から小さい中国へ代わって、中央集権型でなんとか支配しようとしているところから、支配力が小さくて地方が割拠状態になったとか、政治勢力が唐は貴族社会だったけれど、そこから新興地主層を背景に持つ科挙官僚に代わったとか、そういう対比をしながら教えるけれど、今の説明に引きつけて言うならば、宋の時代に突然江南開発が進んだみたいに私たちは習ったように思うけれど、そうじゃなくて、唐から五代十国の時に、漢人が江南地方に移り住んだから、その頃に開発が進み出していて、いよいよ宋のときに更に発展した。だから唐から宋は断絶がなくて、繋がっているというふうにこの変化を捉えようとしている。

Y なるほど。

T 宋は漢民族ということよね。

K 宋は漢民族。でも唐は鮮卑系。

Y そこはびっくりしたよね。

K そう、びっくりした。唐は、昔はザ・漢人だと思っていたから。

Y 拓跋氏系と書いてあって、えー!? という感じ。

K 北魏だけとちゃうんかいという。隋も唐も。そう捉えると中国の王朝って外来王朝ばっかりだから。

T 漢以降で考えると、宋と明と中華民国以降だけだね。

K だから中国四千年の歴史とか言われても、冷静に考えるとちょっとどうやろ、めっちゃ入れ替わってるよなという。

T そこは易姓革命の主体には遊牧民も含めて大丈夫だったみたいな理念操作がされているけれど。最近読んですごく納得したのは、中国四千年という言い方もそうだし、「中国人である遊牧民が、ローマ帝国の興亡に影響を与えた」とか「チンギスハンはヨーロッパまで遠征に行った優秀な中国人である」とか、中国人が大真面目に言っている大袈裟なフカシを、日本人はちゃんと分かって「いや全然中国人とちゃうやろ、モンゴル人とかトルコ人やろ」「かわいらしいこと」とツッコミを入れているけれど、彼らはそれを、いまこれだけ軍事力を持った中で、軍事的プレゼンスや国際社会の中でのプレゼンスのために確信犯的に主張している。「世界各地に影響を与えよう」「一帯一路を形成してユーラシア世界の覇者になろう」と言うときに、「モンゴルもそうだったよね」というのをあからさまに中国の功績、「昔はそうだった」という事実であったかのように世界史を盗っ人猛々しく援用する。そうすることで、主に「国民を騙す」のが目的になっているんだろうということ。

Y でしょうね。

T 中国国内のネトウヨを騙している。「だからぼくたちはこれだけ進出しても良い、そのために税金をつぎ込むんだ」という。国際社会の中で主張しても総スカンだけれど、国民さえ騙せれば良い、そういう開き直りが生じている。

K そういう観点で言うとウイグルは本当にどうするのかな。今回の範囲にもp59に出てくるけれども。

T ウイグル自治区とチベット自治区と内モンゴル自治区ね。その三箇所はヤルタ会談で中国に入れることが決まった、遊牧社会の中で唯三の中国編入地域だから、それを同化するのは、ユーラシアの覇者になるためには彼らが中国人であってもらわないといけない。

K p59にちょうど揃っているな。ウイグル、チベットが揃っている。

Y 北京オリンピックのとき、チベットで動乱があって、ダライラマが出てきていたイメージがある。あの国はオリンピックのたびになにかやってくれる。

T 2022年もそうですか。

Y 2022年はウイグル問題じゃない。

K 次は中国なのか。

Y 冬季オリンピックね。

K 来年、じゃあ見物やな。

Y 来年は武力弾圧の時期になるかな。

K 武力弾圧しに行かないといけないところが多すぎる、今の中国は。台湾、香港。

T 台湾、香港、チベット、ウイグル、内モンゴル。五方全部囲まれている。

K 世界史っぽいな。各地で反乱が相次ぎみたいな。

Y 崩壊してくれるかな。

T 世界史ユーザーとしては易姓革命に期待しますよね。

K オリンピックイヤーに。オリンピック革命が起きる。

T 科挙の話があったけれど、p56で「普遍性の高い統治制度」とある。科挙は唐スタートだったっけ。

K 科挙は、唐から・・・清まで、いや。

T 隋か。598年。で、宋のときには殿試を始めたんだったね。「普遍性の高い統治制度」には科挙も含まれていると。同じページの下の方に、新羅、高句麗、百済の話があって、白村江の戦いを想起するけれども、最近刊行された『白村江』荒山徹という小説だと、日本が白村江に介入した理由は、滅び行く百済から官僚を収奪してきて日本の為に働かせようと思ったからという大胆な説が採用されていた。
K そうなんや。

T ただ、科挙のことを「普遍性の高い統治制度」って言っちゃって良いのかな。律令制、科挙、均田制っていうのは、法律、官僚制、税制のことをそれぞれ指すと思うけれど。そりゃ確かに『キングダム』原泰久の45巻で嬴政が法治国家の話をしたとき、読者たる我々は脳汁が湧き出るほどの興奮を感じたけれども、それは中国の歴史の中で秦が法治国家を始めたと知っているからそう感じるのであって、それは「普遍性が高い」のかどうか。ちょっとアジア重視の阪大史観過ぎないか。これだけ遊牧国家のことを言っている中で、法律も官僚制も税制も、さっき言ったように農耕民が土地の保護を受けるためのテクニックに過ぎないのであって、それは「普遍性のある」統治テクニックではないよね。遊牧民に関しては。

画像1

K 均田制は北魏スタート。

T 遊牧民が主語だったとしても、「(農耕民を支配するための)普遍性の高い統治制度」という括弧書きがある訳ですよね。

K 隋の前の南北朝の段階でどの制度も練られている。均田制も租庸調制も。府兵制は西魏から始まっているし。

T 租庸調制は北周(556年~581年)から始まって、唐で完成した。均田制は北魏の孝文帝。

K 北朝は鮮卑系で、遊牧民族の王朝だから、遊牧民族が農耕民族を支配する中で練られてきた諸制度の中で、良かったものを「普遍性の高い」ものとして認めたのが唐だった。唐が作り出したのは律令制だけ。

T そういう意味では唐が果たした意義は、それらのバラバラだった制度を、法である律令に体系的に書き込んだ点にあるということか。

K 北朝で実践されて上手く行ったものを「普遍性が高い」制度と見なした。

Y 普遍という言葉の意味からして、周りに輸出された制度というイメージはある。

T ぼくもそのイメージはあるな。でも具体例が日本しか思いつかない。

Y 科挙は朝鮮にも行ったのかな。

T 東側の相対的に弱い冊封国にしか伝わらなかったのか。

Y ベトナムの方に律令制が伝わっていたら面白いけれど。

K それはありそう。

Y あとは宋が滅んだ後、元に代わったときに、元は宋の制度を踏襲したと書いてあった記憶があって、そういう意味では遊牧民にも適用できる制度。唐がもともと遊牧民ということを知ったから、不思議ではないけれど。

T 科挙はベトナムに輸出されたと書いてあるな。日本、朝鮮、ベトナムに伝わった。

K じゃあわりと普遍性が高かった。ベトナムは唐の時代は唐に支配されていたから、そりゃ浸透するよな。そのあとベトナムの王朝が出来ても使ったりする。李朝時代に北宋から事実上の独立を果たし、独自の律令格式を制定するようになった、とある。それで19世紀まで継続する。

T 遊牧民が穀物の収奪先として眼差していたのは中華平原だけれど、そのために形成された諸制度が日本、朝鮮、ベトナムなど、必ずしも眼差されていなかった地域にも統治のテクニックとして普及していったという話。

K それが普遍性やな。唐宋変革は、結局はだいたい、テキストに書いてあるとおりかな。

Y 中国の最後、北緯40度線前後に同様の国家が成立した、中央ユーラシア国家の成立というテーマはワクワクしたな。遼とか西夏とかのイメージは湧くけれど、一番西にマジャールが書いてあって、マジャールでこの時代、記憶にあるのはレヒフェルトの戦いです。オットー一世がマジャール人を撃退したことによって西ヨーロッパの支配者として認められた、神聖ローマ帝国の始まりの出来事だけど、マジャールも同様の1000年前後という時代に強大な国家となっていた同じ系統の中央ユーラシア国家という括りになっているのは、なるほど、だから世界史は面白い、と思った次第。

T これは「蘇湖熟すれば天下足る」の時代だから、世界的には温度が上がっているんでしたっけ。温度が上がっていると、遊牧民族は移動するのかな。最近読んだ本ではツンドラ、ステップ、砂漠に塗り分けた地図が載っていた。

K 気候帯によって塗り分けてある。それが草原の道やな。

T ステップエリアは東西に広がっている。ユーラシアはヨコに長い大陸だから。そのエリアの草原の道を遊牧民が闊歩した。さっきテマと節度使の話もしたけれど、今まで我々極東や中華平野、西ヨーロッパを中心とした史観では辺境と思われてきたエリアが実は中央ユーラシアとして一体に理解されるという史観は持っておきたいと思った。

K そうやな。

T それで、彼らが10世紀以降くらいにいきなり登場したように感じるのは、気候の影響があったのではという仮説を立てたんだけど、どうなんだろう。

K 寒いときに移動するんかな。モンゴルも暖かい。

T 寒いときに移動するけど、熱いときにも移動するのかな。彼らが彼らから見た辺境である中華平原や西ヨーロッパに移動していった背景には何があったのかな。

K 熱すぎるとステップが枯れるのかな。

T 砂漠化したと言うこと?

K 活動拠点が草原だから、熱すぎて馬が食べる草がなくなって移動とか。熱いのは農耕民としては嬉しいけど。

T 豊かになった農耕民族のエリアに、ちょっと苦しくなってきた草原の人々が移動するということか。

K かな。でもフン人の移動は寒かったときで、寒すぎたからかな。だから両方ある。

◆文字による覇権・階層化

T ここで文字の話をしているけれど、これは極めて重要なテーマだと思っていて、ちょうどp57の敦煌のコラムで取り上げられている敦煌文書というのは、1900年代初頭に発見された、敦煌莫高窟に埋められていた資料で、『敦煌』井上靖という小説の題材になっている。宋代の科挙に挑戦して、待合の中庭で爆睡して科挙を受けられなかった進士崩れの漢人が主人公なんだけど、ずっと目指してきた科挙を受けることすら出来ず、失意の中にあって、開封の街のマーケットを歩いているときに、彼は西夏の女に出会う。西夏の女を助けて、そのお礼にもらった西夏の首都、興慶の通行証に使われていたのが西夏文字だった。西夏文字のエキゾチックな感じに惹かれて、興慶に行ってみたいと思って西域へと旅立つという話。西夏は11世紀の初頭でちょうど勃興している時代。李元昊への禅譲がなされるくらいの時代だったけれども、そのときに急ピッチで西夏文字の整備をしている。で、主人公は興慶に行って、経典の西夏文字への翻訳に取り組むことになった。

K それは資料集に載っている。西夏の文字に翻訳された仏教の経典。

T めっちゃ書いてるな。その話。

K そういうエピソードとセットでやると面白いな。

T だから、ソグド人がソグド文字で周辺世界を支配したというか、ここでは文字の形成による覇権の奪い合いをしている。

K 文字はよくテストに出る。突厥文字、ウイグル文字、パスパ文字、契丹文字、女真文字、西夏文字、字喃(チュノム)とある。

T それ全部比較させるの? すごいな。

K 私は出題しないし、文字をテーマにした出題は、これを見て「書きなさい」という問題はないと思うけど、「見分けろ」という問題が阪大の入試で出たことがあった。

T 西夏文字は画数がめちゃめちゃ多いという特徴があるけれど。

K 日本の西夏文字の研究の第一人者はウチの高校卒らしいで。同僚の先生がいるんやけど、その人の同級生が「西夏文字の研究をしたい」と突然言い出して、大学に入って研究して、データベースを作ったとか。調べたら出てくる。授業で西夏文字を見たときに「オレのやりたいことはこれだ!」と思い立ったらしい。

T 京大AA研の人? いや、東京外大か。

K 広島大学の人、西夏語リポジトリとか書かれている、小高裕次さん。だから最近私の中で西夏文字が繋がった。『敦煌』の話も含めて。

T 『敦煌』は良く出来てるよ。西域の王朝の末裔がギャング化している様子とか。

K フィクション?

T フィクション。莫高窟の文書も重要な経典を運び込んで埋めたという設定にしているけど、実は日常使いしていた訳分からん文書の方が多くて、それが面白いんでしょ。

K ああ、こういう離縁状みたいな。

T 残す価値のない文書が残っているからこそ面白いという。ただ井上靖が昭和三十年代の、西夏学の走りの時代に書いたこの小説は、そういうロマンに基づいている。文字ができたのは、ソグド人の話もあったけれど、顔の見える互酬関係の時代から、もう少し遠隔地であったとしても取引を成立させる条件として文字が必要とされたと。それって徳治国家から法治国家へのシフトとしても理解できるし、あとは文字による覇権の奪い合いに終止符を打つために、康熙字典が整備されたという見方もある。

K 清の康熙帝の。

Y 康熙帝の”熙”の字は今書けと言われても書けないと思う。

T 康熙字典は文化振興政策じゃなくて、中華こそが漢字を操ってコントロールする主体だと言うことを確定させるための、極めて政治的な政策だった。だから康熙字典は文化振興政策としてはすごく中途半端だと言われていて、それはやっぱり焦ったんだろうなと。長い時間をかけてゆっくりとちゃんとしたものを編んでいこうというより、早急に漢字のコントロールは自分たちで行うことを明確化する必要があった。

K 王朝による学術の奨励とは、学術のコントロール。

T 文字による覇権のコントロール。

K 康熙字典の時代には、五体清文鑑という文書も成立している。

T これは康熙字典とは違うのか。

K 違うけれど、同じような時代、清代に編集されている。

T これは少数民族の文字も自分たちがコントロールしているという話なのかな。

K 康熙字典の多民族いれちゃった版というか。

T 康熙字典がメインストリームで、漢民族の漢字はこれだというふうにして、一方で少数民族の文字も取り上げながら、あくまでそれは「中華の少数民族」だというフレームに入れてしまう。全く別の体系があるのではなく、あくまで一部という。そういう言語政策上の無理矢理の統合はあるよね。ちょっと違う話だけれど、天照大御神がメインストリームで、素戔嗚尊とか大国主命は確かに居るけれどもそれは少数民族ですよと、地方分権時代に様々に地域ごとに勃興していた神々を統合するために、メインの神と周縁化された神を整備したという意味で、五体清文鑑と古事記は似ているなと感じた。

Y でも五体清文鑑にはアラビア語とかモンゴル語とか、ポピュラーというか、少数民族というにはちょっと違うような文字も入っている。

K 世界的にはメジャーな言語やな。

Y イメージとしては中国版ロゼッタストーンかなと思った。

K なるほど。

T と、いうと。

Y ロゼッタストーンも神聖文字(ヒエログリフ)、民衆文字(デモティック)、ギリシャ文字で書かれている。同じ文書で書いてあるから翻訳に使えるという。

K ギリシャ語があったからフランス人でも読めたという話やな。

T じゃあ、五体清文鑑は辞書だったと言うこと。

Y 辞書というか早見表

K 早見表ではあると思うけど、早見表をどういう意味で作ったのかということやな。

T そうそう、だからロゼッタストーンもそうで、様々な言語があるけれど、それは体系化されるべきもので、ヒエログリフがあくまで最上級に位置するのだということを主張するためのもの。

Y なるほど。

T だからそういう、「文字による覇権や階層化」は、歴史の公式に認定していただけるでしょうか。

K そうやな。

T だからこそ同化政策というのが生じて、中国がチベットで「成功」させて、内モンゴルでまさに行っている、国語教育の中で中国語を強要して、自分たちの民族の言葉をあくまで外国語として単元に組み入れさせる。それによって言語的同化政策を行う。日本もアイヌに対してそういうことをやったけど。

K 標準語な。

T 関西弁も迫害されているけれど。文字や言語による覇権とか。

K 国民統合とか。

T もう少し深めるとしたら、そこに一石を投じるのがテクノロジーであって、SNSで同じ民族の言葉を話す人たちが繋がって、国民国家的な同化政策に対抗していくという話。最近読んだ話だとロヒンギャの話はそれにあたるかなと思って。

K 分断されているけれど、ロヒンギャ同士が繋がれば多勢になるのか。クルド人もそうか。

T クルド人もそうだね。

K 国家を持っていない。

T そもそもロヒンギャって話し言葉はあるけれど文字を持っていないから、ワッツアップとかYouTubeといった音声SNSを使って遠隔地と繋がっている。音声を遠隔地に伝えることが出来るようになったのが、彼らの統合に、今のところ「役立っている」とまでは言えないかも知れないけど、一つの対抗の手段となりつつあるかもしれない。

K なるほど、SNSは驚異やな。反乱が起こりそうな地域では。

T 出典不明なんだけど、キリル文字はSNSで人気がないという話があって。

K そうなん。わたしらの時代の顔文字だとДとかめっちゃ使ってたけど。口に。でもそれは古いってこと?

T いや、なのでキリル文字は人気がないというのは出典不明なんだけど、キリル文字に限らず、スマホフリックとか、文字数制限とか、西夏文字みたいに複雑な文字だったら解像度が追いつかなくて表示できないとか、そういう合理的なテクノロジー的な制約条件によって文字が選ばれなくなっていって、康熙字典が取り組もうとした文字の覇権が崩されていくという時代になっていくのかなというSF的空想はしていました。

K カザフスタンはキリル文字を止めた、みたいな記事はあるね。朝日新聞のネット記事で。キリル文字からローマ字に変える準備を進めている。

T カザフスタンがそっちに移動しているのは、ソ連の桎梏を逃れたいということだと思うんだけど。

K そうやな、そっちの文脈やな。

T 一般化して述べるなら、テクノロジーに合致しない言語体系がどんどん廃れていく。逆に英語はTwitterの文字制限でいうと漢字や表意文字に劣る言語体系だけど、でも英語が廃れることはない。

K 英語の人たちが作ってるからな。

T そういうデファクトに覇権を持っている言語は、そちらに寄り添ってテクノロジーが発展するから例外かも知れないけれど。

K 二番手、三番手の言語は危ないな。

T あとこれは授業向け豆知識だけど、良い意味をもつ漢字には「羊」がよく付いている。それは遊牧民族から伝わったからだ、という話がある。

K 「美」とか。

T 「善」とか。

Y 「祥」とか。

T あとは「義」とかね。そういう良い意味の漢字は遊牧民族にとって良い意味であった「羊」がそのまま採用されているという説があるらしい。

K 「義」とか紀元前とかありそうやけど、やっぱり遊牧民族の影響を受けている。

T そもそも「羊」をその文字で表すのは、甲骨文字スタートか。あと差別の「差」にも羊が入っている。

K ホンマやな、なんでいい意味なんやろ。

T その理由について、ぼくの仮説を聞いて貰って良いですか。

K どうぞどうぞ。

T それは商人たちにとって、「差」を価値に変えるのが生き方の基本だったからだと思うんです。例えば地理的な差を移動することで埋めるとか、穀物を遊牧社会に移動させることで、遊牧社会にあり得なかった差を埋めるのが、彼らの生きる手段だった。それで良い意味になった。

もう一つの例として、p65のコラムで「唐物と呼ばれる輸入品は権力の誇示や人間関係づくりに不可欠であった」というくだりがあって、遣唐使が廃止された後も私貿易が続いていて、それは権威の維持に必要だったという説明があると思うけれど、以前、漆のことを調べていた時期に知った話だけど、アイヌは漆を生産しなかったけれど、本州から漆器が伝わって権力の誇示によく使われたという話があって、そういう所有しているモノとか身体に纏うモノによって権威を表して、一般民衆と差別化する、差異化するというのは文物の輸出入の重要なモチベーションになっていた。だからやっぱり「差」は価値なのだと、「差」は、「羊」なのだと。

K 今はどうなんやろ。

T 今もそうじゃない? 資本主義は差を価値に変える思想だから、進んで意図的に格差を拡大させる。それは資本主義にとっては、格差が価値だからなのだと。

◆王権と教皇権の緊張関係

T と、まあ私のそういう与太話は置いといて、西洋の話はどうでしょう。

Y 西洋についてはこのテキストの記述は不満足というのが正直な感想。中国に比べると軽視されている。

K 中世って教えにくい時代で、政治史があんまりないからYは物足りないのだと思うけど、中世ヨーロッパ社会の、聖職者、国王、諸侯、騎士、農民という説明をするのがいつも難しいと思っていて、テキストのこの書き方は分かりやすいと思った。要は封建制の説明が二重になっていて、領主の中の話として、国王と騎士の序列があるのと、領主と農民の間の支配の体系もある。私たちは分かっているから大丈夫だけれど、初めて勉強する生徒に教えるときにいつもパニックになるから、このくらいのシンプルな書き方が逆に分かりやすいと思った。

でも確かにYが求めているマジャール人とゲルマン人の戦いみたいな面白味はないよな。せっかく遊牧民の話をするんやったらもっとノルマン人の移動とかもその関連テーマとして掘り下げても良いのにという感じはする。

T 前回のラストにヨーロッパの一体性って何なの? って話になったけれど、結局この、P68に書いてある「ヨーロッパの一体性の土台」というのは、p67で整理されているように、正教世界、カトリック世界、イスラム世界に分かれているけれど、彼らの生活様式が宗教によって統合されていたから、一体感が醸成されていたよね、という話をしたいの?

K 前回どんな話してたっけ。

T ヨーロッパの女王の絵を見ながらそういう話をした。

K ああ、そのアンサーはここにあったかもな。P67も分かりやすいな。地中海世界が一体だったのが三つに分かれたというのは、確かにその前は一体だったなとなった。

T 地中海世界が一体だったというのは、ローマ帝国のこと?

K ローマ帝国が一体と言えるかは分からないけれど、統治的には一体だった。

Y プトレマイオス朝を征服して。

T カルタゴはいつ? あれは紀元前だっけ。

K 紀元前202年、帝政が始まるずっと前。

T 今はパックスロマーナのことを言っているのね。その時代のことを、地中海世界が一体だった時期として捉えている。

K パックスロマーナは紀元後1世紀だから。

Y 皇帝がいるからね。

K 五賢帝とか。

Y 話が逸れるけど、教会大分裂はいつだっけ。

T いや、逸れてないよ。P68に関連する。

K 教会大分裂は11世紀かな。

T そんなに前だっけ。14世紀くらいじゃないの。

K 11世紀の東西教会分裂と14世紀の大シスマがあって、大シスマはカトリック内の話やな。

T 大シスマは1378年から1417年、ローマとアヴィニョンにそれぞれ教皇が立ち、協会が分裂していた時期。

Y アヴィニョンか。

T それがp68の「帝権・王権と教皇権は王国内の聖俗の任命権、裁判権、課税権などをめぐって競合し続けた。」という、「カノッサの屈辱」や「教皇のバビロン捕囚」をこういう絶えざる争いのフレームで捉えるのは分かりやすかった。

K これは懐かしいですね。

T でもそもそもカノッサの屈辱は名前しか覚えてないし、教皇のバビロン捕囚は訳が分からなかった記憶しかない。もう一度教えて欲しい。

K まずカノッサの屈辱は1077年。

Y 入れてくれ、いれなな(1077)だね。

K ハインリヒ四世とグレゴリウス七世。高校生の時はどっちが皇帝でどっちが教皇かがごちゃごちゃになるから本筋が入ってこないけれど、ハインリヒ四世が神聖ローマ帝国の皇帝で、グレゴリウス七世が教皇。このときは聖職叙任権をめぐって対立していて、ハインリヒ四世が破門された。当時はまだカトリック教会が権力を持っていたら、破門されるというのはヨーロッパ社会から追放されたのと同じくらいの重みがあって、特にハインリヒ四世は皇帝だけど領主も兼ねているから、領主という考え方で言うと、他の国王や諸侯とせめぎ合う立場なわけで、そんな中で「あいつ破門されたで」というのは痛手だった。それで「破門を取り消してください」とカノッサ城に出向いたと。カノッサ城を支配しているのが女城主マチルダで、マチルダに頼んでグレゴリウス七世との間を取りなしてくださいというのを行ったのがカノッサの屈辱。冬のくそ寒い北イタリアの都市にハインリヒ四世がひざまずいて何とかしてくださいというやつ。情けない絵が資料集に載っている。

Y 最近ネットに投稿されて爆笑したのが、猫が木戸から締め出されている写真に「さながらカノッサの屈辱」というキャプションがついていた。

K その人センス良いな。

T その絵のトスカナ女伯がマチルダさんね。

K そうそう。

Y いまだに覚えているのが、模試で出たマーク選択問題で、「南フランスのカノッサ城」という記述があって、それが間違いの選択肢。

T むずすぎるやろその問題。

K 寒かったから大変やったという話やもんな。南イタリアは寒くない。

Y 南フランスね。おそらく教皇のバビロン捕囚とごっちゃにしようとしていた問題だと思う。

K セコい問題やな。生徒にはカノッサの屈辱は人気やけどな。名前が面白いから。

Y アナーニ事件の「憤死」というフレーズは高校時代人気だった。

K ボニファティウス八世が憤死するやつな。憤死と爆殺はヤバい。

T 張作霖爆殺。

K その二つはヤバいワードやな。

T アナーニ事件は教皇のバビロン捕囚の前段だっけ。この辺の流れを思い出したいんですけど。

K アナーニ事件は、バビロン捕囚の手前やな。

Y 14世紀だね。

K アナーニ事件が14世紀の頭で、そのときは国王の方が強くなっていて、ボニファティウス八世がフィリップ四世に。

T フランス国王フィリップ四世が、ローマ教皇ボニファティウス八世をイタリアの山間都市アナーニで捕らえた事件。フィリップ四世はローマ教会へ圧力をかけ、クレメンス五世をアヴィニョンに移住させ、アヴィニョン捕囚を引き起こして、教皇権に対する王権の優位を確立した。

K それが教皇のバビロン捕囚。そんなこんなで教会大分裂。

T 大シスマは何なの。バビロン捕囚によってアヴィニョンにいっちゃったからということ。

K そうそう。カトリック世界にローマ教皇とアヴィニョン教皇が二つが出来てしまったこと。それが大シスマ。それをもう一回元に戻すのがコンスタンツ公会議。

Y いよいよ(1414)一体化しましょうコンスタンツ公会議。

K 15世紀に入ってから。

T それは王権と教皇権の競合ということから、どう理解されるの。捕囚する意味は何?権威を自分のところに持っているという形にしておきたいの?

K 捕囚する意味は、王権の誇示のためじゃないのかな。

T 誇示するの? 誇示のために自分のところに連れて行く。分かるようで分からない。

K うーん、違うかな。教科書的な説明を探してみる。

Y 整理すると、カノッサの屈辱あたりの叙任権闘争は、ヴォルムス協約で教皇にあるものとして確認される。

K そうそう。ヴォルムス協約で、叙任権は教皇にあると決まる。

Y それから200年くらい経ってアナーニ事件で教皇が捕まる。

K その頃は封建社会の衰退により、領主である教皇権の基盤が揺らぎ始めていた。教皇はそれまでとは違う支配の在り方を模索する中で、教会内に親フランス派が現れて、フランスに寄っていこうとする派閥の力が強まり、南フランスのアヴィニョンに移転したとある。

T だとすると教皇側もwin=winだったの。

Y 確かに。

K でも教科書も説明が微妙やな。アヴィニョンはナポリのアンジュー伯から買収された土地で、フランス王の領地ではなかった。またその後はカペー朝の勃興や百年戦争の勃発でフランス王権が弱体化し、教皇がフランス王に服従することはなかった。だからそんなに、ここでフランス国王に屈服したという感じではないな。

T むしろ教皇の権威が生きているからこそ、自分の勢力下に置いておきたいという意味合いなのかなと思ったけれど、それは「王権と教皇権の争い」じゃなくて、教皇という権威を、諸侯同士で争っている感じだよね。

K 捉え方が変わってきている部分もあるかも知れない。昔の歴史観だと「教皇と国王の争い」「優位の誇示」でも良いのかも知れないけれど、事情はもうちょっと複雑かも。

T 誇示のためにわざわざ連れてくるのは、合理的な意味が薄いよな。

Y 「皇帝」という称号自体が欲しかったというのはあると思う。後の時代になるけれど、神聖ローマ帝国のカール五世とフランスのフランソワ一世が争っていたのはそういう理由だし。

K どちらがヨーロッパを統べるのか。

Y 皇帝を任命するのは教皇だから。

T カール五世とフランソワ一世が争っていたのは、なぜでしたっけ。

Y 16世紀の初め、イタリア戦争のとき。

K ルネサンスの最初くらい。

Y イタリア戦争の時はウィーン包囲が重なって、オスマンのスレイマン一世からフランソワ一世がカピチュレーションを与えられたりして、フランスとトルコが手を組もうとしていた時期。

K 手を組んで神聖ローマ帝国を潰そうとする、凄い状況だった。

T それが教皇の奪い合いだった。イタリアという教皇がいる場所を、フランスとドイツが奪い合ったと。それは分かりやすいな。これまでもちょいちょいイタリア戦争の話は出てきていたけど、思い出していました。

K イタリア戦争はどこの単元でもちょこっとずつ出てくる。神聖ローマ帝国のことを言うついで、フランスのことを言うついで、オスマンのついで、ルネサンスのついでにも言うから、イタリアを主語にしてイタリア戦争の話がないから、捉えにくい。

T 時代としてはすごく長い。

K だからマキャベリがこのままじゃいけないと『君主論』を書いた。イタリアは大国に左右されすぎだと。

T ウィーン包囲も重なって、というのは訳分からないな。

K カール五世の人生がヤバい。並行して宗教改革もされているから。宗教改革あるわ、オスマン来るわ、フランス来るわ、イタリア行きたいわという感じ。

T フランソワのモチベーションは何?

K イタリアをゲットしたい。

T オスマンのモチベーションは?

K ウィーンとかあのへんに領土を拡大したい。

Y イタリア戦争は最終的に、なんていう講和会議だっけ。

T 全然覚えていない。クレヴィーの和約ってやつ? カトー・カンブレジ条約

Y あ、それそれ。カトー・カンブレジ。

K それそれ。

T そんなに有名なの? 全然知らない。

Y これは慶応の文学部の入試で出てくるのよ。超マイナーな条約。ヴォルムス協約を結んだときの教皇カリクストゥス二世とか。

K どこを見て勉強するの?

Y 一応用語集には載っているのよ。ハインリヒ五世とカリクストゥス二世は。

K 山川凄いな。☆1か☆2くらいやろ。

Y そうそう。

T アウグスブルクの和議が1555年で、カトー・カンブレジ条約が1559年。これで宗教改革も終わらせて、イタリア戦争も終わらせて、やっとドイツがまとまり始めたってことね。

K 一段落した。

Y 1556年にスペイン王を息子のフェリペ二世に譲って、カール五世は余生に入ろうとしている。

K カルロス一世を辞めてんな。

T フェリペ二世がフランス王アンリ二世の娘エリザベートと結婚したおかげで実現した。政略結婚したのか。

Y そういう婚姻外交で言うと、マクシミリアン一世の前に、「神聖ローマ帝国の大愚図」と呼ばれているフリードリヒ三世という人がいて、馬鹿にされた名前を付けられているんだけど。

K 「失地王」ジョンみたいなものね。カール五世が第四代ハプスブルク家の神聖ローマ帝国の皇帝。ハプスブルク家の皇帝はアルブレヒト二世が初代で、二代目がフリードリヒ三世。三代目がマクシミリアン一世、四代目がカール五世となっている。

Y そのフリードリヒ三世が藤原道長みたいな、婚姻外交と言われている。

K 道長は外戚による権力だから、婚姻外交はどちらかというと唐みたいな感じか。

Y フリードリヒ三世は好きな皇帝で、大したカリスマがあった訳でもないけど、五十年くらい神聖ローマ帝国の皇帝を維持し続けた。

T 在位1452~93。ここからイタリア戦争がスタートするの?

Y イタリア戦争はこの後。

T この人が死んでからスタートするのか。それで、フリードリヒ三世の婚姻外交というのはどういう良いところがあったの。

Y この人の最大の功績は、ネーデルラントを手に入れたこと。息子のマクシミリアン一世とブルゴーニュ公の娘を結婚させて手に入れる。それでマクシミリアン一世も息子のフィリップをカスティーリャ王家と結婚させて、スペインをかすめ取る。カール五世はそこで生まれる。

T マクシミリアン一世がイタリア戦争を始めて、最終的にはフランスに負ける。で、その後がカール五世と、繋がっていくのか。フリードリヒ三世→マクシミリアン一世→カール五世→フェリペ二世か。

Y フリードリヒ三世のモットーとして、A.E.I.O.U.というのがある。

T アニメみたいやな。

Y 厨二病心をくすぐるでしょ。

Austria est imperio optime unita.
"オーストリアは帝国によって最高に統合されている"
Austria erit in orbe ultima.
"オーストリアは世界で最後に生き残るだろう"
Austriae est imperare orbi universo.
"全世界を統べるのがオーストリアの使命である"

T 最後のヤツが一番かっこいいな。

◆港市国家の成立条件と「大脱出」の可能性

T 南アジアはどうですか、Yさん。

Y 何もないよ。世界史で一番面白くないところ(笑)サータヴァーハナ朝しか知らない。

K ボロブドゥールは懐かしい。

Y ボロブドゥールはどこにあるの。

K ジャワ島。アンコールワットはカンボジア。こういう感じや、ってうえたまがジェスチャーで教えてくれた。

T それがボロブドゥールのジェスチャー。アンコールワットは?

K アンコールワットは特にないかな。ボロブドゥールはとぐろ巻いてる感じ。

Y なんでボロブドゥールだけそんなことしたんだろ。

T 覚えにくいからやろ。

K 紛らわしいからかな。どっちかを印象づけるためにおそらく身体を張ってくれた。

T インドは今も中国と対抗して、紛争しているじゃないですか。

Y カシミールね。

T そう、カシミールもだし、核紛争というか。チベットのダライラマが亡命しているし。あれは仏教発祥の地とチベット仏教という繋がりという側面もあるかもしれないけれど、やっぱり遊牧国家としての繋がりを感じているのかな。インドはムガル帝国だから。

K ああそうか。ムガル帝国はトルコ系?

T モンゴル。モンゴルのインド読みがムガル。遊牧国家としての記憶を共有しているが故に、チベットやウイグルと親和的で、中国に対抗して彼らを庇護していこうというふうになるし、せっかく設けている中国とロシアの間の緩衝地帯としてのチベット・ウイグル・内モンゴルが、インドによってかすめ取られていくという世界も、世界史を見ているとありそう。特にチベットはインド化するかも知れない。

K ダライラマはインドに亡命しているし。

Y 南詔っていう国があったじゃないですか。今あそこは中国?

K どうやろ。

Y ちょうどあそこが南アジアとチャイナの国境線ラインだった気がする。

K 唐の時だっけ。宋のときはもう大理、いや、宋のときにも居るな。

Y ベトナムのギリギリ上。チベット、ビルマ系国家。現代でいうと中国雲南省とある。

K ミャンマーも若干重なっているのかな。地図並べても分かりにくいな。

Y どちらかというとタイ王国か。

K 分からんな。でも一応中華人民共和国に入っているような気はするな、という領域。

Y さっきまで出てきていたチベット、吐蕃と同じくらいの時期に南詔があって、それがいま中国の緩衝地帯になっているのかどうかを。

T 南詔は今、雲南省になってる

K ダジャレやん。漢字は違うけど。あと港市国家はまあまあ面白いと思った。今回は遊牧民と農耕民と商人という章だったから、その海上版だなと思った。農業ができない人たちが、貿易、商人的な民族と結びついて港市国家を作っていくのは、一緒だなと思った。

T ロヒンギャのエリアは実はそうなんですよね。あそこはラカイン州という海に面している地域で、17世紀から18世紀くらいにムラウー朝というのが成立していて、そこは交易国家だった。それが農耕国家であるコンバウン朝に滅ぼされる。

Y コンバウン朝ということは、ミャンマーの話ね。

T ロヒンギャはミャンマーの少数民族で、アウンサンスーチーが弾圧していて、ノーベル平和賞を与えたのに何してるねんと批判されている。

K 弾圧はしているのかな。

T 弾圧しているのは厳密に言うと軍事政権。

K それを容認しているということか。

T アウンサンスーチーがシビリアンコントロール出来ていない。しかも今年の2月に軍事政権がクーデターを起こして、アウンサンスーチーはまた監禁されているんだよね。

K せや。ミャンマーはいまヤバい。ロヒンギャだけじゃなくて難民多発やろな。普通のビルマ人も含めて。

T バングラデシュやパキスタンに今、信じられないくらいの人数が避難している。

K バングラデシュに避難して救われるのかな。

T コックスバザールっていう難民キャンプが出来て、もう町みたいになっている。

K ロヒンギャはいっぱい本が刊行されている。

T そう。『ロヒンギャ危機 「民族浄化」の真相』中西嘉宏という本を読んだ。一冊くらい読んでおこうと思って。

K 昨年の最後のセンター試験に、リード文でロヒンギャ問題が出た。

T そうなんや。けっこう攻めてるな。

K せやねん。最後ということで、作問者の好みがけっこう出ていたな。

Y 年度で言うと一昨年か。

T 港市国家という、貧困な地域であっても交易によって生き残る術が、前近代においては見いだされていた。農耕に適さない地域なりの知恵に基づいて形成されていた地域政権が、農耕民の論理による、やや広いエリアの政権に支配されることによって、貧困化する悲劇が起きる。

K 港市国家モデルをずっと続けていれば良かったのか。

T ただそれが近代以降にも出来たかは分からない。港市国家がなぜ成立したかというと、船の航続距離が短かったから。テキストにも書いてあるけれど、船を動かすための条件がまだ厳しかったから、造船基地、補給基地、風待ち港、避難港という機能が求められる港市国家が成り立ったのであって、現代において港市国家モデルは無理なのかも知れない。けど少なくとも、農業以外の方法で生き残る術は、何かあったのではないか。

K 現代において港市国家モデルでなんとかなっているのは、金融で生き残っているシンガポールくらいなのかな。

Y 東南アジアだと、マラッカは海峡の名前に落ち込んでしまったし。

T ケープタウンはダメ?

Y 先端過ぎる。

K 南アフリカの港市国家モデルかもしれない。

T 東アフリカの有名な港市国家、キルア・モンバサ・マリンディが生き残っている訳ではないけど、ケープタウンも一応。

K 喜望峰ルートを通る船は少なくなってるんじゃないかな。むしろそれで言うと、パナマの方が、国土が狭い割に海上交易で成り立っているから港市国家モデルっぽい。

Y スエズはどう。

T スエズはエジプトだから、エジプトは港市国家ではないかな。

K そうやな。もうちょっとナイル川沿いに都市がいっぱいありそう。

Y そう考えるとパナマだね。パナマ運河がパナマ最大の産業になっている。パナマ運河をギリギリ通れる船のサイズをパナマックス型というらしい。

K あれホンマにギリッギリで通ってるよな。

T 風待ち港というと伊豆大島を思い出す。ブラタモリでもやっていたけれど、伊豆大島の波浮港が風待ち港として栄えたから、伊豆大島の娘たちが『アンコ椿は恋の花』で、東京の本土に行ってしまった男に向けて手紙を書くという話が成立する。

K 一時的に船乗りが上陸する町だったからということね。

T そうそう、そういう文化も形成されたけれど、でも今、伊豆大島は風待ち港としての能力を発揮していない。

K イメージはないかな。

T 船が強くなったから。だから港市国家モデルはこの時代においてしか成立しなかったけれども、農耕民族に無理矢理抑圧される以外の生き残り方があったかもしれない。けど近代において、農耕民が圧倒的に成長しすぎた。

K 近代と言うより、近世かな。

T どちらかという近代のイメージ。『大脱出』アンガス・ディードンという本があって、格差の起源は何なのかということが書いてある。「脱出」というのは金銭的な豊かさと、健康、平均寿命を劇的に延ばすきっかけがあって、先進国はすでに脱出を果たしているけれど、いまなお脱出を果たしていない国々があるよねという問題意識。その理由は近代において科学の発展によって成し遂げられたけれども、その発展した科学の恩恵は一部の人たちから順番にしか受けられなくて、そういう中で港市国家モデルのエリアの人たちは立ち後れてしまって、それが2021年にまで残っている。港市国家の時代に科学が発展していれば、格差はなかったかもしれない。

K ああ、農耕民の時代になってから、科学が発展して、格差が生まれた。

T でもそれは因果が逆なのかも知れないけれどね。たまたま農耕民が力を持ちすぎたタイミングで科学の発展が果たされたという訳ではなくて、農耕民が技術革新によって少しでも生産性を上げようと思ったからこそ科学が発展していったということかも知れないけれど、その歴史の順番によって、いま格差が拡大して、ロヒンギャが立ち後れているという状況になってしまったとも捉えられる。

K 港市国家も意外と喋ることがあったな。

Y 東南アジアはほとんど覚えていないな。

K ○○朝が多くて、教える直前に必死に思い出している。

Y ミャンマーはピュー→パガン→コンバウン。

T そこにムラウー朝はない訳ね。

Y ないね。

K 世界史的には出てこないな。

Y ベトナムは李→陳→黎→阮。黎と阮の間に西山が入る。

T そんなけ覚えていたら十分やろ。一ミリも覚えてないわ。ラタナコーシンしか覚えていない。

K 自分のあだ名やからな。今もタイはラタナコーシンなんやな。

Y バンコクの正式名称にラタナコーシンは入っている。(クルンテープ・マハーナコーン・アモーンラッタナコーシン・マヒンタラーユッタヤー・マハーディロック・ポップ・ノッパラット・ラーチャタニーブリーロム・ウドムラーチャニウェートマハーサターン・アモーンピマーン・アワターンサティット・サッカタッティヤウィサヌカムプラシット)

K めっちゃ長いやつな。バンコクのフルネーム。

【終】

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?