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市民のためのスカイウォーク Skywalk for Citizen #6
中盤の章をアップロードします。序盤まではこちら↓
T 今日(2021.6.19)は第6章 アジア伝統社会の成熟を取り扱います。
Y 第11章をやる背景として、東南アジアがどういう状態になっていたかを把握しておきましょう。美味しい第11章は後に残しておく。
K エリア的には前回話した内容も多い。
T 今回の章は体感では短かったな。
Y 薄い訳ではないけど、短いトピックだったな。正直な感想として、重たいテーマではなかったのかなとは思った。
◆台湾・琉球・ジュンガル
Y 前半部分で、台湾が歴史に登場したなという率直な感想で、台湾って今回久しぶりに読んで思ったけど、17世紀にオランダが占領するまでの歴史って空白で、何も情報がないですよね。世界史の授業ではどう認識しているのでしょうか。
K 出てこない。オランダに見いだされるまで。教科書の出てき方としては、中国の一部として朝貢地域に取り込まれていたと思われがちだが、そうではなく、オランダ人がようやく支配した、みたいな説明。
Y やっぱりそうなのか。
K どうなってたんやろ、オランダ以前の台湾は。
Y 17世紀まで原始時代というわけでもないだろうけど。
K 人が住んでなかったのかな? でもこんな良いポジションだから住んではいるだろうね。
T p128で「オーストロネシア系の先住民」が居たと書かれている。
K ああ、そうや、わたしも「オーストロネシア系の先住民」って何やねんと思って線引いてるわ。
Y そのフレーズだけ聞くと、いかにもまだ未開の地という。
K そういう印象を持ってしまうよな。アボリジニみたいな感じということかな。
Y 寒冷時代にミクロネシアやポリネシアから歩いて渡った人たちがいるということかな。
T 「台湾は東シナ海上にある島として古くから中国人にその存在を認識されており、隋時代の603年に書かれた文献には既に台湾への探検の記録が記載されている。」「もっとも台湾に漢民族が大量に移民するのは17世紀以降のことである。」とあるので、基本は未開の地だったということなのかな。ちなみにお二人は台湾にいったことありますか。
Y ない。
K ない。
T わたしもないんですが、地図で見て認識しているのは、中央に脊梁山脈があって、北側はそこそこ開発されているけれど、南側はあんまり開発されていないというイメージ。可住地面積がそもそも少ないのかなという気はしていた。
Y 台湾の地理に関する知識はニイタカヤマしかない。
T ニイタカヤマノボレヒトフタマルハチ(新髙山登れ1208)ね。
K ホンマや、台湾、山がちやな。北に台北と高雄の街があって。台湾は、本当は修学旅行で行く予定だったけど。
Y 高校の?
K そう。調べ学習が始まる前にコロナでなくなったから。
T 事前知識すらないということか。
K そうやねん。事前学習を一緒にやっていたら詳しくなっていただろうけど。そして実際に行くチャンスがあったのに。
T Wikipediaだけ見ても、17世紀にようやく歴史の表舞台に登場するまでは、未開の地だったという感じだな。
Y 未開の地という認識なんだな。
K 用語集もそんなん。古代から中国による探検は数回あったが、1624年にオランダが占領し、後続のスペインを駆逐した。1662年になると鄭成功がオランダの勢力を駆逐し、対清島嶼の拠点となった。だから日本的に言うと北海道みたいな感じなのかな。
Y なるほど。
K 未開の地と呼んで良いかは分からないけど、先住民はいるけど、本州の人からしたらそんなわざわざ行く感じではないというか。
T 初期の方の回で『奇書の世界史』三崎律日に紹介されている『台湾誌』ジョルジュ・サルマナザールの話をしましたが、ご記憶ですか。
Y 覚えてないな。
K どの章をきっかけにだっけ。
T 第7章で、イギリスの博物学をきっかけに。
K ああ、『台湾誌』か。
T 「オレは台湾人だ」と主張して、台湾の博物誌を書物や講演活動で述べた大ペテン師がいたという話で、彼の認識の中でも「台湾人の祖先は日本人である、台湾人は蛇を食す、台湾では毎年2万人に及ぶ少年の心臓が神に捧げられている、台湾の庶民は上着一枚をはだけたまま着る、陰部は金属製の覆いでのみ隠す」といった未開の地のイメージだけで語られているし、日本との区別が付いていない。ヨーロッパの人からすると、極東の「島」というジャンルで認識されていたのかな。実際に日本が領有する時期もあるし。現代において、もうひとつの「中国」になっているのは歴史の偶然であって、「先史時代からずっと中国の持ち物で、たまたま日帝時代に日本が奪い取った」みたいな史観というより、「日本と中国の間で位置づけが揺らいでいる」という認識の方が良いような気がした。
K それは意外だったな。久しぶりに授業したときに、ずっと中国じゃないんだというのが意外だった。そこから掘り下げてなかったけど。
Y その後の歴史で言うと、ゼーランディア城のオランダを鄭成功が駆逐して、鄭氏台湾になって、それが三代くらいで終わって、そこからは中国領?
T そうやね、清国が統治する時代が、1683-1895、200年。
Y 下関講和までか。
T で、一時的に台湾民主国になって、1895-1945が日本統治時代。
Y なるほど。
K 日本統治時代に、皇民化政策をした結果、日本の支配から脱した後に台湾の外省人と本省人の対立問題が起こって、みたいな話は教科書に載っている。日本統治時代から住んでいる本省人と、戦後に大陸から渡ってきた外省人。
T 蒋介石一派ということね。
K 日本支配を経験していた人と、戦後大陸から来た人の中での認識の違いであるとか、中国大陸から来た人たちが重要な仕事を奪っていって、本省人が貧困状態が続いて、衝突が生じてとか。自分が高校生のときはあまり習った気がしないけれど、世界史Aの教科書にも対立のことが出ていて、今の状況に合わせてちょっと細かくなっているのかな。
T 対立ではないけど、トウサン世代の話とかは高校生の時に聞いたよね。今の台湾の人たちは、日本語を喋れる人は多いよね、みたいな。15年前の段階ではそういう人たちはいたけど、もうほとんど死んでしまったのかな。
K そうやな。でもそういう名残はあるんじゃないかな。外省人と本省人を区別する考え方はまだありそう。日本語を喋れるかどうかはともかくとして。
T 青色の銀行の中で興銀と勧銀が分かれているみたいな。この人は旧Tでこの人は旧Sの違いみたいな。
Y なんじゃそれは。
T 大和田常務と半沢は旧産業中央銀行(旧S)で、中野渡頭取は旧東京銀行(旧T)で出身母体が別になっている。
K そういうのは台湾にもあるんじゃないかな。
T あれは合併だけどな。もっと分かりやすいのは厚生省と労働省とか。
Y 第一製薬と三共製薬とか。
K それぞれの業界にあるやつやな(笑)
T 学校は・・・人が入れ替わるからそんなに無いか。
K 昔は出身校の派閥みたいなのはあっただろうけど。
Y 現場からは以上です(笑)
T 台湾からは以上ですか(笑)
Y p128で「清朝側は日本の銅を輸入する必要があったため」とあり、銅が日本の主力の輸出品であったかのように読み取れますが、そうだったのか。
K それ、意外だった。
T なぜ必要だったのかな。清朝の初期なら、まだ銀が流入している時期だよね。
Y 流入し始めじゃない?
K いや、明で既に流入が始まって、一条鞭法が始まっている。だからこの時期はまさに流入中という感じかな。
T その段階で銅を輸入する必要性がなぜ生じたのか、確かに疑問ですね。
K そうそう。そもそも日本が銅の一大産地だったのか。
T 日本の銅って、別子銅山とか?
K 昔、一緒に行ったな。
Y 銅山って名前じゃなくて、鉱山という名前になっているところが多い。
K 「江戸時代 銅山」で調べてみると、別子銅山は出てくるな。
Y 古くは708年に埼玉県の長瀞。
T ああ、長瀞ね。
K 江戸時代に国を支える資源になった足尾銅山。そうなんや。江戸時代の工業、幕府は積極的に工業を振興し、日本各地で生産を行った。銅の生産は世界で最大規模となった、とある。
Y 日本の銅の産地で検索するとめちゃくちゃ出てくる。
K ホンマやな。めっちゃあるな。でも世界最大の銅の生産国ってホンマ? これは日本史で出てくるの、銅山開発に力を入れたというのは。
T 全然覚えていない。銅のそのインパクトはあんまり理解していなかったな。
K 金山は覚えた気がするけど、銅山はそんなに覚えたかな。国立科学博物館のHPに書いている。江戸時代に世界最大だったと。なんでそんなに頑張ってたんやろ。何に使うの、そんなに。銅銭にそんなに使うのか。
Y 銅銭じゃなかったら・・・甲冑も鉄だし。
K 輸出するためだったのかな。「江戸時代の寛文、元禄の頃、銅は金銀に代わって長崎貿易の主力となりました。」とある。
T 日本側が輸出する商品として開発したというのはそれで分かったけれど、明清で必要とされた理由はなんだろうか。
K 世界史的に見て新大陸の銅山が未だ多く開発されていなかった頃の1697年。銅の生産高が世界一になる。だからライバルがなかったから日本の銅が必要とされた。
T 明清の通貨は、膨大な銀は流入したが、しかし、あくまで銅銭だった。だから銅銭は絶えず不足していて、その不足を補うために、税制を始めとして銀を流通させて、でもやっぱり不足しているので、銅の需要は常にあった、という理解かな。
Y ふーむ。
T 琉球の中継貿易について、以前の回でp99のコラムに基づいて話をしたと思いますが、そのときは明が海禁していたから琉球が栄えたし、清もマカートニーやアマーストへの態度にあったように、依然として高圧的な貿易をしていたから、琉球の繁栄が続いたという仮説を立てていたけど、清の貿易状況を見ると、けっこうちゃんとやっていて、琉球の出番が無くなったのではないかと思うけれど。まだ息しているの。
Y 琉球はこのときは一応日本の支配に入っているのかな。
T 薩摩口を経由して貿易している。
Y 日本と中国を両方宗主国とする属国。
K 両属やな。
T 海禁が緩まっているのに、琉球が依然として立ち位置を得ている。鎖国体制の中で、薩摩口がなぜ成立するのか。長崎口だけではダメなのか。
K それは、ダメじゃないのか。でもなぜダメなのか。長崎口の中国貿易ってどんな形式だっけ?
T 長崎奉行が仕切っていた公的な管理の下で、しかし朝貢貿易ではない形式をとっていたという理解ですが。
K 朝貢貿易の形式を取っていないから、貿易規模が小さかったということかな。琉球経由の薩摩口の方が日本の必要なものを取りに行くことができたということかな。
T 「1609年に薩摩藩が琉球に侵攻し、服属させた。幕府の許可のもと、薩摩藩が管轄する。琉球王国は中国と朝貢貿易を行っていたため、薩摩藩はその貿易の利潤を得るようになる。正規の貿易は幕府の統制下で品種と量が制限されていたため、江戸時代を通じて抜け荷(密貿易)が行われた。幕府の取締を受けながらも密貿易は続けられ、そこから得た利益をもとに薩摩藩は国力をつけていった」とある。
K 琉球の交易って、資料集に載っているけど、長崎からは来ない商品が琉球からは来ていた。
T 絹、丁子、生糸、鮫皮、象牙。輸出品は銀、昆布、いりこ、鮑など。
K 象牙はどこから来たのか。
Y 東南アジアやろうね。
T そういうことか。中国との貿易は内陸アジアからのモノで、琉球の貿易は東南アジアのモノだった。そんなにくっきり分けていた訳ではないだろうけど。なんとなくそういう傾向があったということかな。
K 琉球を通じて来る中国のモノは銅銭くらい? 東南アジアのモノを得るために薩摩口をやっていたのかな。
T 幕府からしたら薩摩が密貿易していることなんか、ある程度なんとなく分かっている訳じゃないですか。参勤交代とかお手伝い普請とかさせてまで国力を削ごうとしているのだから、幕府からすれば薩摩に国力をつけさせるよりは、それを取り締まっても良かったけれども、幕府側にも一定の利益があったから、この貿易は成立する訳ですよね。それが何だったかというと、東南アジアからの輸入品だったという理解なのかな。
K うーん、というより、将軍の交代の時や、国王の代替わりの時に、琉球からの使節を江戸に来させるということをしていたけれど、薩摩にはそういう接遇を担当させていただろうから、貿易も多少はOKしたのかな。
T なるほど、そういうトレードオフというか、アメとムチだった訳ね。
K 琉球からの使節が江戸に来るときに、江戸の街の人たちはみんな異国情緒ある集団を観に来るし、琉球の人たちも江戸の文化をおもしろがって、例えば歌舞伎を見て帰って、自分たちの演劇に歌舞伎の要素を取り入れたりしたという文化的交流もあるけれど、幕府としては、そうした異国情緒ただよう人たちがわざわざ将軍に挨拶しにやって来るのを江戸の街の人たちに見せつける効果はあったと思うから、そういう示威行為を円滑に行うために、薩摩に事務を担当させていたのではないかな。
T それは理屈に適っているな。
K それは朝鮮通信使と対馬の宗氏に対しても同じような意味合いだったと思うけれど。
T 明が行っていた朝貢という形式へのこだわりにも似ている。
K 小中華思想という話も今回出てきたけれど。
Y 朝鮮半島で。
K 小中華思想は朝鮮とベトナムが例として取り上げられるけれども、日本においても将軍が近いことをしていたように感じた。
Y なるほど。
K 次の節では、ジュンガルについて言及したいんだけど、ジュンガルってここで出てくる一発屋の感があるけれど、帝国書院の、市民のための世界史チームが作っている教科書では、ジュンガルと清帝国がチベット仏教の保護者の立場を巡って争ったみたいなことが書いてある。そんなことあんまり高校のとき聞いてなかった気がした。
このころ中央ユーラシア東方では、チベット仏教が急速に拡大した。・・・チベット仏教の指導者であるダライ=ラマの宗教的権威は、パミール高原以東の内陸地域の大半をおおうことになった。パミール高原以西ではイスラームが優勢だったので、17世紀以降、中央ユーラシアは東のチベット仏教世界と西のイスラーム世界という二つの宗教文化圏に分かれることとなった。ダライ=ラマ政権は軍事力や寄進の提供を受けるため世俗勢力と提携したので、モンゴル・オイラト諸部族や清はダライ=ラマの提携相手になろうとして競い合った。17世紀後半、オイラト部の一部族ジュンガルが勢力を広げると、清はジュンガルとチベット仏教の保護者の座を争うこととなった。
という、めっちゃ字数を割いて書いてあるのでこだわりを感じた。
Y そもそもジュンガルは地域名? それとも部族名?
K 難しいな。部族の名前だけど、彼らが支配する地域をそう呼んだとも考えられる。遊牧帝国と書いてあるし。明確な国境があったかどうかは、遊牧民族だから捉えにくいところだけど、宗教的権威があるチベット仏教のダライ=ラマの政治的な保護者の立場を巡って争ったというのは、あまりこんなふうに考えたことがなかった。
T p129では、清は「新疆ではイスラムの保護者」としての権威を利用したとある。新疆ウイグルあたりはイスラム圏よね。
K ウイグルはトルコ系だから、イスラムですね。
T イスラム人と儒教人が、仏教人の保護を巡って争っている。
K ジュンガルはイスラムではないかな。当時のユーラシアが、パミール高原の西がイスラム圏で、東がチベット仏教圏だったと教科書に書いてあったけど、清の立場は、チベット仏教圏についてはジュンガルと争って、イスラム圏のウイグル人は、また別で支配しようとしたという構図かなと。ジュンガルは何系やろ。オイラトだからモンゴル系かな。
Y オイラト・・・ややこしいのが、正式名称はジュンガル・ホンタイジ国になっている。
K ホンタイジが出てきた。
T ホンタイジは単に皇太子って意味だもんね。
Y あ、皇太子って意味なの?
K そうなん? 響きはそうやな。ヌルハチ、ホンタイジってそういう流れかと。
T ホンタイジはそもそもヌルハチの息子を殺して成り上がったよそ者だったんじゃなかったっけ。
K そうなの? それはショック。脈々と続いていると思っていた。
T 脈々だったのかな。とにかくホンタイジはかなり胡散臭い人物だったと思う。
Y 万世一系じゃないの?
T そうじゃないのかな。
K マジか。でも父はヌルハチやで。
T あ、そうなのか。じゃああれか、長男じゃないってことか。
Y それなら良かった。
K 本記事の人物以外にも、ホンタイジを名乗った者は多く、同時代だけみても複数居る。例えばホンタイジの死後乾隆帝によって滅ぼされたジュンガルの歴代王もホンタイジの称号を名乗っていた。そういうことね。だからホンタイジは称号なのね。
T だから、その人には名前がない。
K フワンディとか書いているけど、それは名前なのか。
T ヌルハチが後継者として見据えていたのはもっと長男寄りの名前のやつ、誰かおらん? 『蒼穹の昴』浅田次郎に確かそんなことが書いていた気がする。
K どれが本当の名前なのか、遊牧民の名前が複雑すぎて入ってこない。
Y テゲレ、マングルタイ、チュンケン、ダイシャン、タハーリャン。
K こいつら全部息子か。
Y 残念ながらどれもピンとこなかったようだ。
K でもホンタイジが皇太子だというのは知らなかった。
Y 知らなかったね。愛新覚羅家ではあるのか。
K 愛新覚羅ホンタイジとは書いている。
T で、結局ジュンガルがイスラムかどうかは分からんな。
K チベット仏教を信仰しているから、それを巡ってどちらが保護者となるかを争ったということなのかな。Wikipediaはどうなってるんやろ。
T Wikipediaはめっちゃ充実している。多すぎて分からん。でもトピック、経済・文化・軍事しかない。宗教がない。
K 最後の遊牧帝国。
T イスラム教に改宗しなかったオイラトのことをジュンガルと言っているのかな。
Y カルマーク(留まった者たち)の「カラクラ・タイシャ」がモンゴルとロシアの間にいて、改宗しなかったそいつらを潰そうという提案をジュンガルがしているから、ジュンガルはイスラムなのか。
T いや、カラクラ・タイシャというのがジュンガルの始祖となっている。
K ということは、ジュンガルはイスラムではない。
T イスラムではないということは分かったけど、だからといってチベット仏教かどうかは分からないな。宗教的な差は超えて、そのエリアを支配しようとして争ったということか。
Y 清の時代に、中国の歴史で初めてヨーロッパと国境的な意味で接触することとなった、ということでよいかな。テキストにある「ロシア帝国との国境が策定された」ことをもって。
T ネルチンスク条約ね。
Y ネルチンスクとイリとアイグンと色々条約があるけど、黒竜江とアムール川とかしか覚えていないな。大興安嶺山脈はどのときだっけ。
K 十分覚えているやん(笑)国境を接したのは、確かに清の時か。ロシアが来たから。
Y ということは、ロシアはようやくこの時代になって極東、ウラジオストックあたりまで支配圏を広げる王権になったということかな。
K 地図を載せておこうか。
T シベリア開発していくのはいつぐらいだったのかな。エカテリンブルグという都市もあるから、エカテリーナの頃だったのかな。
Y ああ、なるほど。
K エカテリーナ2世のときかな。
Y ネルチンスク、キャフタ。
K なんか良い覚え方ない?
Y ないな(笑)
K あったらええねんけど、2,3コやし、気合いで覚えるしかないな。
T Wikipediaによると、「16世紀には北極海を経てアジアに至る北東航路を開拓しようとするイギリス船やオランダ船がバレンツ海沿岸に出没を始める。17世紀にはこれらの勢力がシベリアに及ぶのを恐れたロシアはマンガゼヤへの海路の航行を禁じた。これ以後、ロシア人のシベリア進出は海からではなく陸から行われるようになる。」とある。
K 北極海って通れたんかな?
T 通れはするやろ。当時の技術で出来たかどうかということか。
K ロシアの南下政策の説明をするときに、北の方は通れないから南下したという説明をするから。
T それはあれでしょ、不凍港、凍らないことは重要だけど。
K 通ることはできるのか。
T そうそう、夏は通れる。
K そうかそうか。港がなくても、通ることは出来る。
T 「橇の道」もあるし。
Y そこで橇の道が出てくるの。ツンドラを走る。
T 16世紀くらいから進出を始める。コサックの首長イェルマークによるシベリア征服とか、あったな。
K そうやな、イヴァン4世の時に始まっているのか。
T シベリアの陸路とは言っても、大河がいっぱい流れているので、それを通じて東西連絡が出来た。
Y タイガ(針葉樹林)じゃなくて、大きな川の方?
T オビ川・エニセイ川・レナ川など。
K 川はめっちゃあるよな。
T それによって16~17世紀頃に進出が進んでいった。ネルチンスクは17世紀末で、キャフタが18世紀初頭、そのくらいで清国との国境まで辿り着いていると。
◆18世紀東アジアの類似性と差異
K 食生活のコラムは面白かった。
T 単純に面白かった。だからなんやねんやけど、ふーんとは思った。
Y 高校生には面白いだろうね。
K いつも授業で、キムチがあんな感じになったのは最近らしくて、大航海時代に唐辛子が来るまでは割と日本の漬物と変わらない感じだったみたいな話はするけれども、それ以上のなるほどネタやな。
T 科挙の思想が啓蒙思想家に影響を与えたというのは興味深い。それまでヨーロッパでは、人材登用制度はなかったの?と逆に思うよね。
K 官僚制が出来るのが、主権国家体制の形成期だけど、その官僚はどうやって選ばれていたんだろう。
T やっぱり王侯貴族の家柄の中で輩出していたのかな。だからこの点は隋の時代から科挙をしていた中国の方が優れていたと。
K ヨーロッパはこのときもまだ郷挙里選・九品中正の段階だった。
Y そういうことやね。
T 郷挙里選ですらない? いや、郷挙里選ではあったのか。
K 地元の有望なヤツをオススメする。これは確かに面白い。
T 典礼問題も高校のときに聞いたときは理解できなかったけど、現場レベルでの宣教師の努力を本国側が否定するというのは、営業あるあるやなとは思ったな。
K ああ、そういう言い方をしたら良いのか。典礼問題は高校生には分かりにくいよな。でもそのへんのイエズス会の人たちの葛藤は、大人になると分かってくる。
Y 現場のことを知らない本社がわあわあ言ってくる。
K 見に来いよじゃあ、みたいな。
Y お前ら代わりに売りこんでみろよ、という。
T このあたりでキリスト教の非寛容という特徴が正体を現して、雍正帝も禁止せざるを得なくなってくる。日本においては既に秀吉がキリスト教の非寛容に気づいて、バテレン追放令を出していたけれど。
K キリスト教の過激さに。
T 鎖国については、吉宗の話に少し触れたい。以前に明における六諭などの道徳強化の話をしたときに、人心の統制は規制緩和と一体になっていると指摘したけれど、吉宗がなぜ倹約令を発して、道徳的な強化を行ったかというと、吉宗が行った新田開発も規制緩和の一環で、ちゃんと石高を測っている本田畑は、田畑永代売買禁止令が出ていて、取引も出来ない状態だったけれど、新田は、最初は税制上の優遇措置がなされていたり、取引も出来たりという形の新しい枠組みになっていて、それによって開発を奨励した。だからそこに箍を嵌めるために、倹約令という道徳的な統制が必要だった、という整合的な理解が出来るかなとは思いました。
K 中国・朝鮮と日本の差異については以前、政府が家族に介入するのは財政難の時だという話になった回があったけれど、清と朝鮮は、政府が面倒を見切れなくなったからイエ制度が発達したのに対し、日本はp137にあるように、ヨーロッパで言うと社団国家みたいな、イエよりも団体型が発達した。
T 団体型社会というのは、そういうふうに読み取ればいいのか。なるほどね。
K 家族の塊で相互扶助をしてもらって、政府が面倒を見切れない部分を補おうとする清や朝鮮に対して、日本の幕府は面倒を見切れていたという差があった。
T それが19世紀に入ってくると日本でも各藩で財政改革を余儀なくされてきて、改革に成功した藩が倒幕へと動いていく。江戸時代の藩は、天明の大飢饉以降に農村が危機に陥っていくのもあるけれど、参勤交代によって財政が疲弊していく。でも参勤交代は、富が外国に流出していた訳ではなくて、国内で回しているだけだから、ある種消費を奨励する政策とも捉えられる。
K 確かに。
T 街道沿いでどういうふうにお金を落としていたのか、あんまりイメージが湧かないな。映画の『超高速!参勤交代』(2014年)くらいは観たけれども。
Y あったな(笑)
T あれも別に、旅籠には寄っているけれど、行く町々でどういうお金を落としたのかは分からなかったな。食を供出することでお金を貰えていたのか。
K 参勤交代によって儲かる業者はいるよな。
T それが例えば大阪とかの商人によって利潤が独占されていたのか、あるいは農村にもトリクルダウンされていたのか。
K よく分からないけれど、色々な道を通るから、色々な地域の人に行き渡るようには思う。学校における制服と教科書の指定みたいなもの。制服とか教科書というものがあることによって、各地の服屋や教科書販売業者という地域社会にカネが回るようになっている。
T 天竜川沿いだったと思うけれど、東海道沿いに、実はまっすぐ行った方が近いけれど迂回させて道が付けられているみたいな場所があって、幕府か藩か、ともかく規制する政府側が、まっすぐに付け直しをしようとしたら、迂回路側の商店街に反発されて断念したみたいな話があって、やっぱり参勤交代でひいきにする業者とか、街道の付け方とか、利権があったんだろうなとは思う。
K 利権やろなあ。でもそれが国内で経済を回すきっかけになっていたと思うと、理に適った良い制度だったのかもしれない。
T そのときに利益配分する組織として、中間団体が発達する。今の事例だと商店街の勢力が強くなる。
K 組合的な。
T 団結して規制する政府側に「付け替えてもらったら困る」とロビイングしていくことが重要になる。規制が経済を生んでいるとするなら、その規制に働きかけようとする中間団体が発達するということ。逆に中国・清の地方の特徴だと思うのは賄賂社会で、あれは団体で賄賂を渡して働きかけると言うよりは、個人でチップを渡して便宜を図ってもらおうとする。ロビイングしてみんなにとって有利なルールに変えていこうというふうにならないのは何故なんでしょうね。
K イエ社会だから。自分の一族に利益を誘導したい。
T 地域ではなくてイエに利益を誘導したいということ?
K 近現代でもイエが強いと思うけど、そうなったきっかけがこの時代かなと感じた。P130に「宗族」や「郷紳」の制度が出てくるけれど、人口がめっちゃ増えたから政府のサービスが追いつかなくなって、イエで相互扶助するようになった。郷紳制度は近現代史でよく出てくるから、このあたりからイエや氏のまとまりが強化されていったのはあるのかな。
T そういうボトムアップの部分もあったかもしれないけれど、ロビイングモデルと賄賂モデルの違いは、地方政府に与えられている裁量の余地によるのかなとは思った。幕藩体制で藩というものがあると、日本にもイエはあるけれど、イエは藩に所属して、禄を与えられて忠誠を誓うことで繋がっているので、藩が定めるルールは、ある種自分たちが定めるルールでもある。でも中国では中央から送り込まれる官僚が統制していたから、人々にとって、自分たちを縛るルールはあくまで中央が決めているもので、地方はその執行官として、お目こぼしはしてくれるけれど、ルールを変える能力まではないということ。だから賄賂になる。中央集権の場合は賄賂モデルで、地方分権の場合はロビイングモデルになる。
K そのまとめはすっきりするな。
T すっきりするよね。論文とかは読んでないのでテキトーだけど。
K あとは清朝が特殊なのは、中央が満州人で、地方に居るのが漢民族だから、満州人の言うことを聞きたくない精神もあって賄賂横行からのアヘン貿易、みたいな清末の流れはあるかもしれない。
T イエモデルと団体モデル。それと関連するのかもしれないけど、p134で民衆教育の話をした後、「こうした倫理を持つ人々に公共の仕事を下請けさせる仕組みが発展し」とあって、確かに言われてみると、民営化って現代でもよくやるけれども、その前提として「民に倫理観がある」というのは当たり前の話ですよね。民に倫理観がない状態で民営化すると統制できなくなる。わたしは現代の民の倫理観をあまり信用していませんが(笑)
K 民は信用できないよな(笑)
T わたしたちは公務員だから特にそう思うけどね(笑)歴史的に見れば官の方が信用できないから、民でできるところは民でやろうという話なのだけれど、今や資本主義に毒された民の方が信用できないから、官の方が信用できるという逆転が生じているよね。この時代においてはまだ、官にしか教育を受けたエリート層がいなかったけれど、それがようやく民衆にまで行き渡ってきて、資本主義に毒される前の、倫理観を獲得した民が公共の仕事に携わっていくという初期状態があったのだな、と懐かしく思いだしていました。
あとこのコラムの最後の論は奮っているよね。「18世紀前後の東アジア諸国の安定のもとで成熟した文化や社会の「伝統」は、各国で最近まで大きく変わらなかった。現在でも、それこそが各国・民族の大昔から変わらぬ特徴であるかのように認識・主張されることが多い。」とあって、これは現下の選択的夫婦別姓制度反対勢力への批判ですよね。
K そうやな(笑)でもこの「夫婦同姓は明治くらいからやで」みたいな話題って、前もどっかの章で出てこなかったっけ。
T そうだっけ。繰り返し述べているわけ。
K 既視感あるよ。よっぽど言いたかったんやな。せやな、大昔からの変わらぬ特徴ではないな。
◆最近のオスマン教科書事情、あと東南アジア
K オスマンがまた出てきて、ウィーン包囲とかはお二人に聞いてみたい。
T 『オスマン帝国』小笠原弘幸はもう買った?
K まだ買ってない(笑)でももう来週から授業でオスマンが始まるので。
Y 1299から始めるの?
K いや、そのへんはもう始まっているんやけど、まさにこのあたりの時代。ウィーン包囲の失敗後から、タンジマートまでが一区切りになっている。
T イエニチェリが単なる中間団体になっていく。彼らは、給金はさほど高くはなかったけれど、免税特権もあったし、年金や様々な一時金が支給されたり、日本で言う「講」にあたる相互扶助団体を組んでいたのでプールした資金から融資を得たり、都市のギルドがイエニチェリ軍団と深く結びついて、イエニチェリの身分に付随するこうした特権やコネクションを利用して、経済活動に従事する。イエニチェリ軍団はイスタンブル社会に根ざした中間団体として機能しつつあった、と。だからデウシルメ出身じゃないイエニチェリがどんどん増えていくんですね。
Y なるほど。
K キリスト教の子弟じゃない人が増えていく。
T 単にコンスタンティノープルの都市民がイエニチェリになっていく。加えて地方でも、アーヤーンが台頭してくる。テキストでも「地方の名士層の自立化が進んだ」とあるけど。
K それがアーヤーンのことやな。わたしもメモってある。
T それは税制がティマール制から徴税請負制に変わったからで、ティマール騎兵というのはあくまで騎兵なので、大砲が発達していくにつれて時代遅れになっていく。それでイエニチェリの役割が重要になって現金収入が必要になっていった。そうすると没落ティマール層というのが生じてきて、それが社会不安に繋がってくる。
K 没落ティマール層という言葉の響きが(笑)
T 没落ティマール層の問題と、徴税請負制によって台頭してきたアーヤーン。アーヤーンが何故台頭したのか、ティマールだって徴税権を持っていたんじゃないかと疑問に思うのですが、実はティマールは一代限りだった。
K おお。アーヤーンは何代もいけるのか。
T アーヤーンも最初は徴税権をスルタンから買い取っていたけれども、そうするとアーヤーンが短期的利益だけを考えて農民を絞り尽くしてしまうというのが問題になった。だったらもうちょっと長期的な視点で、持続可能な農村にするために、アーヤーンにも長い利益を考えるインセンティブを与えるため、徴税権を相続可能な権利へと制度改正した。
K それがいつ頃だっけ。
T 17世紀を通じて、という感じかな。
K 実は教科書でもそのあたりが思っていたより詳しく書かれていて、アーヤーンも聞いたことなかったけど、徴税請負権と農場経営を権力基盤とする地方名士として載っていて、これをどう説明しようかと思っていた。受験で時期までは出ないからだいたいのところでいいんだけど。あとセリム三世のニザーム・ジェディードとかも載っていてびっくりした。高校生の頃習った記憶が無い。この帝国書院の教科書が凝りすぎだと思う。資料集ですら「セリム三世が改革を始めた」くらいしか載っていない。ニザーム・ジェディードは、洋式の新軍団を創設して、近代的な軍事産業の創出とか書いていて、イエニチェリとの比較の絵まで載っている。
T この比較の絵は分かりやすいな。
K 頑張っているよな。なんでこんなにオスマンに力が入っているのか。セリム三世の肖像画とか他の教科書には出てこないし小文字レベルだと思う。
T こうした改革をされてしまうと、ニザーム・ジェディード軍がイエニチェリの利益と抵触する。ゆえにイエニチェリと結びついてきた都市民にとっても脅威であったために、不満が高まった。
K このような改革は守旧派の反対によってしばしば停止させられた。
T テキストのp140にも「守旧派の反対で大きな成果は上がらなかった」とある。
K これけっこう細かく教えなあかんなと。知らんし、アーヤーンとか。
T ニザーム・ジェディードによってイエニチェリやアーヤーンの反乱が起きる。それでセリム三世は廃位されて、ムスタファ四世が即位するんだけど、そのときに、この間も言ったようにオスマンは兄弟殺しの文化があって、即位した瞬間に他の皇位継承者を全員殺すのだけれど。
K 言ってたな。
T 17世紀くらいからそれはやめようとなって、トプカプ宮殿の奥地の「鳥籠」に監禁するようになった。セリム三世が廃位になった時点で、ムスタファ四世とマフムト二世が鳥籠の中にいたので、その二人を殺せば、形式的にセリム三世はスルタン位にしがみつくこともできた。でもセリム三世はその選択肢を選ばずに、ムスタファ四世を即位させて自分は鳥籠に戻った、という清廉潔白な人物として描かれている。
その後ムスタファ四世も短い期間で反乱が起きて廃位されそうになるのだけど、そのときは逆にセリム三世とマフムト二世を殺そうとする。結局セリム三世は、アーヤーンがコンスタンティノープルに入城してきて、ムスタファ四世が廃位されたときの混乱で死んでしまう。
でもマフムトだけは「女奴隷が石炭を追っ手に投げつけて時間を稼いでいる間に屋根に逃れて辛くも何を逃れた」という間一髪の状況で生き残る、そういう劇的なシーンがある。
K 教科書には、マフムト二世は、守旧派のイエニチェリ軍団を廃止し、西洋式の常備軍「ムハンマド常勝軍」の創設、徴税・行政制度の改革、寄進財産ワクフの改革をした。あとはヨーロッパ諸国に留学生を派遣、けっこう項目はいっぱい紹介されているな。
T そうそう。マフムト二世が19世紀に入ってからそれらの近代化改革を行う。セリム三世が18世紀末に失敗して、混乱した後で遺志を継いだマフムト二世が成功させるという流れ。
K いったんムスタファ四世が挟まっていることは教科書には出てこないけれど、エピソードとしては紹介したい。
Y そこまで要る? 高校生(笑)
T いやいや、このシーンめっちゃアツくない? 小説書けるで。
K せやな(笑)やはりその新書、買わねば。いよいよ来週からやるから。
Y 間に合わないで。
K そこだけ読もうかな。
T この本だけでめちゃめちゃ読みどころあるよね。
K その本の輪読会しよか(笑)
Y 第二次ウィーン包囲失敗の後、オスマン帝国がヨーロッパから撤退して、オーストリアやロシアにより領土を徐々に奪われていくとあるけれど、ロシアに目を付けられた理由がひとつあって、一般的に考えられているのは不凍港を目指して南下してくるロシアにぶつかったという説明ですが、実はオスマンは北方戦争に参加していて。
K え、そうなん!? なんで。
Y まあ参加していたというより、スウェーデン王のカール12世の亡命先がオスマン帝国だった。
K マジで? それ面白いな。
Y それによってロシアはオスマン帝国を攻める理由が出来た。
K あの時の恨み、みたいな。
Y 敵国を保護しているのだったら、お前も敵だという。
K 北方戦争っていつだっけ? この時代?
T 1700~1721だね。
Y 1721のニスタット条約まで。
K ホンマや、18世紀なんや。
Y 高校の頃は「ミスったミスった、ミスタット条約」と覚えていた。
K 年号関係ないやん。しかもミスじゃなくてニスやろ。
Y だからみんな間違える。
K 間違えるんかい(笑)でもこれはアツいな。
T 世界史の窓によると、カール12世は、「亡命先のオスマン帝国をフランスとともに動かし、1710年にロシアに宣戦させた。このオスマン帝国とロシアの戦争ではポルタヴァの戦いとは逆にピョートル1世のロシア軍が敵陣深くプルート河畔まで進撃したが、このプルートの戦いでは、オスマン帝国の大軍に包囲され、ロシア軍が苦戦に陥った。」と、あるから、だから、勝ったの?
Y 勝ったんじゃないかな。
T 「ピョートル1世はオスマンの首脳に大金を送り講話に持ち込んだ。その結果、アゾフを返還した」とあるから、その段階ではオスマンは勝ったと。
K 北方戦争、そうなんや。それはめっちゃ面白い。
T それによって攻め込む理由が出来て、実際に攻め込んだのはいつだったの。
K エカテリーナの時に露土戦争が一回あるよな。有名じゃない方の。
T キュチュク・カイナルジャ条約の時?
K いや、そのもうちょっと前かな。露土戦争って繰り返し行われているから。
Y クリミア戦争前後だっけ?
K クリミア戦争はアレクサンドル2世。農奴解放令とセットだから。
Y じゃあだいぶ時代が違うな。
T 露土戦争はめちゃめちゃあるな。
K そのうち一回くらいはエカテリーナがやっている。
T 北方戦争のプルート川の戦いが、第四次露土戦争にあたる。
K その時点で第四回なん!? やばいな。
T 第五回があって、第六回がエカテリーナで、キュチュク・カイナルジャ条約の時。クリミア戦争が第十回で、サン・ステファノの時が第十一回。
Y サン・ステファノは露土戦争の扱いになるの?
T サン・ステファノが一番有名な露土戦争じゃなかったっけ。で、第十二回が、第一次世界大戦。
K それカウントするんや。最後は何やろ。
T 今のところ最後は第一次世界大戦になっている。
K 今のところ、な。
T 露土戦争が12回もあったとは、面白いですね。
K 多いな。
T さすがヨーロッパの火薬庫、バルカン半島。いや、戦地は色々あるのか。
あとは東南アジアに西欧諸国がそろそろと忍び寄ってくる。『大脱出』アンガス・ディートンという本を以前にもご紹介しましたが、ここに書いてあるのが、アメリカ、オーストラリア、カナダ、ニュージーランドなど、イギリスは植民地とした国々の中で、自国民で構成された居留地を作るだけの力を奮えた地域に対しては、制度を一緒に持ち込んだと。
一方でインドなど、すでにある程度強かった国家に対しては、病気が蔓延していたという理由もあったかもしれないけれど、居留が難しかったので、本国の制度は持ち込まずに、搾取するだけの国家として温存したという対比があった。それで制度を持ち込んだところは、逆にその後国際社会の中で発展していって、ある程度貧困から脱出しているけれども、搾取構造になっていた国家は、今なお貧困が続いている。
イギリスの支配を転換点として、ヨーロッパ征服の被害を受けた国のうち、過去に裕福で強かった国は今弱くなって、過去に貧しくて弱かった国が今強くなっているという、歴史的な富と強さが逆転している。
Y インドとかマラッカとかは貧困に苦しんでいる。逆に先進国と言われるアメリカやオーストラリア。なるほど。
K でもインドは現地勢力のもともとの制度を利用したけれど、積極的に介入して現地エリートを育成し、親イギリス派を形成したというのは、別の章で触れたよな。
T うん。分割統治の話はしたね。
K だからインドに対してイギリスはもっと強めに関わったんじゃないかな。
T 『大脱出』の著者はイギリス系のアメリカ人なので、イギリス人がイギリスの歴史をそのように認識しているというのはひとつ興味深かったけれど、やっぱり現代のインドがまだ貧困の中にあるという意識が強いんだと思う。21世紀の初頭までまだ貧困で、この10~15年でだいぶ成長してきたということだと思うけど。
K インドの成長の要因はITやもんな。
T わたしが東京で住んでいた地域にも、インド人が多く住んでいた。陽気な人たちでしたが。
K それは高度人材?
T そうそう、IT業界だと思う。日本語も上手だった。
K イギリスのインド統治がそういう認識なのは、ちょっと違和感がある。
T 植民地の三機能である、マーケットと資源収奪と投資先で言うと、資源収奪に寄っていたということかな。資源収奪が多すぎて、投資が少なかった。
K 綿花とか? けど鉄道は作るよな。
T インドにも投資しているよな。そういう意味では、インドはあんまり例として良くないのかな。
K 現代でも全体としては貧困だけど、一部の人は目を見張る状態。
Y イギリスがマラッカとかシンガポールとかの港市国家を獲得して「海峡植民地」、いわゆる海峡帝国を形成するというのがテキストに登場するけれど、これは後にマレーシアの母体になった、マラヤ連邦とはどう繋がっているの?
K 場所が違うことない? 海峡植民地はどこだっけ。
Y マラッカとシンガポールとペナン。マラヤ連邦はマレー半島の方か。「海峡植民地」で検索したら、サジェストワードに「マレー連合州との違い」というのが出てくるから、みんな引っかかるんだね。
K 海峡植民地を拠点として、マレー連合州と合わせて、イギリス領マラヤになった。だから連続性はあるな。
Y でも、合わせて、なのか。海峡植民地の領域は小さい。
K そうか、両方イギリスやもんな。秋田先生に怒られるわ。こんなん忘れとったら。
Y 半島領土がマレー連合州で、海峡植民地と合わせる。
T 今日は短めでしたが。このくらいで。
K これで授業ネタはバッチリ。最近はクラスでも、やたら神聖ローマに詳しい、謎のわたしの友人が繰り出してくるネタが認知されていて、京法・文、阪文歴史、神文あたり志望の子らは特に興味持ってくれている。
【終】