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産業医からのにじいろ処方箋 #24 トランスジェンダー労働者の健康診断結果の解釈をどのようにすべきか

結論(現実的な運用案)

人事(あるいは健診)システムに登録された性別で判定を行うのが最も安全である。
その上でトランスジェンダー労働者の健診結果の解釈に関して、シスジェンダー労働者とは異なる注意点があることについて情報提供をする。また、事後措置については本人の身体の状況を踏まえて必要に応じて主治医との連携を図ることが望ましい。

前提:トランスジェンダー労働者は一様な集団ではない

トランスジェンダーとは男性・女性という出生時に割り当てられた性別に対する典型的なジェンダーアイデンティティを持たない人々のことを指します。これらの人々についての医療を論じる上で、出生時に主に外性器の形状から割り当てられた性別に基づく議論以外に関わってくるのが、性ホルモンによって特徴づけられる身体の状況です。
厚生労働省の調査では約2割のトランスジェンダー当事者がホルモン治療を受けている/受けたことがあると回答しており、これらの人たちについて医学的な側面でも検討が求められています。
逆に8割の方はトランスジェンダー当事者として様々な形で社会生活を送っているわけですが、医学的に性差を議論する際に重視される身体的特徴は、出生時に割り当てられた性別によって推測されることが妥当と思われます。

https://www.mhlw.go.jp/content/000625160.pdf

このように一口にトランスジェンダー労働者の健康診断結果の解釈を検討するにしても、集団の中のどのような人々を議論の対象にしているのかを十分に理解しておく必要がありますし、この多様性を無視して医学的な議論をすることはナンセンスだと思います。

まずは人間ドック学会の判定区分を見てみる

人間ドック予防医療学会の判定区分を見ると、男女で層別化されているのは腹囲とHb、Creのみです。それ以外は男女共通となっており、性別移行を行ったケースでも悩むことはそこまで多くなさそうです。

性ホルモンの影響を受けやすい項目について検討する

これらの論文を参考に読み解いてみます。



Hbについて

テストステロンには骨髄に作用することによって造血を促す作用があります。

おおよそ6ヶ月の女性ホルモンを使用することで、トランスジェンダー女性(出生時に割り当てられた性別は男性)のHbはシスジェンダー女性に近い値まで低下します。

反対に6ヶ月の男性ホルモンを使用するとトランスジェンダー男性(出生時に割り当てられた性別は女性)のHbはシスジェンダー男性に近い値まで上昇します。
多血症の弊害を防ぐためにHtが55%を上回らないように管理することが一般的とされています。

このような観点から考えるとHbについてはホルモンを使用している場合には移行後の性別で基準値を当てはめる方が合理的かもしれません。

Creatinine(eGFR)について

これらは筋肉量に依存するためCheungらの論文ではホルモンを使用している場合には移行後の性別をもとに判定することを推奨しています。
他方ではTiffanyらの論文ではトランスジェンダー女性の場合にはいわゆる男性の基準値に近い値を示しているようで、議論が難しいところです。

腹囲について

シスジェンダーの方と、トランスジェンダーの方との比較が見つけられなかったのですが、性ホルモンの投与により腹部まわりの脂肪がトランスジェンダー女性では42%増加し、トランスジェンダー男性では+1%とほぼ変化がないようです。
これらからするとトランスジェンダー女性も、トランスジェンダー男性もいわゆる女性の基準値を適用する方が自然かもしれません。


事後措置は検査値だけで決まるものではない

就業制限においては当然に健診の結果によって自動的に決まることはなく、自覚症状の有無や予測される業務への影響の大きさなどが重要となるかと思います。
このようなことからも、労働者本人とのコミュニケーションが重要となります。具体的にはホルモン治療を含めた性別移行の状況、異常値に起因する自覚症状の有無、具体的な業務内容などを聞き取り、必要に応じて主治医と連携しながら就業上の措置に関する意見を検討するのが良いでしょう。

また保健指導・心血管系リスクに対する治療の観点からも、心血管系リスクの評価を行うこともあるかと思いますが、これらの予測式の多くには性別欄が含まれています。

米国UCSFのTransgender Care & Treatment Guidelineではこのような場合には

"Depending on the age at which hormones are begun and total length of exposure, providers may choose to use the risk calculator for the natal sex, affirmed gender, or an average of the two"

「ホルモン治療の開始年齢やトータルの治療期間などに応じて、リスク算出に用いる性別を出生時に割り当てられた性別・性自認に基づく性別、あるいは両方の結果の中間値をとるのかを医療従事者は判断する」としています。

これについて労働者本人とよく状況聞き取ったうえで個別に決めていく必要があります。

運用上の問題点

このようにトランスジェンダー労働者の健康診断結果の解釈については、複雑で高度な医療判断が求められます。これらについて産業保健の場で、プッシュ型できめ細やかな対応をするのは残念ながら障壁が多い状況だと思います。

アウティングの可能性

現行の多くの人事システムでの性別欄は戸籍の性別が記載されているかと思います。前述のような個別化された運用を行おうとすると、出生時に割り当てられた性別/ホルモン治療の有無/性自認に基づく性別といった複数の情報を収集する必要があります。そしてこれらは戸籍上の性別として会社に登録されているものと乖離していることも考えられます。

これらの機微な情報を収集することはそもそも困難ですし、当事者の方が、会社・健診それぞれの場でどのような性のあり方で生活をされているかを把握していない状況ではアウティングにつながってしまう可能性も考えられます。

たとえばホルモン治療によって女性的な身体的特徴を持つ方の判定パターンを策定し、それを健診機関側がシステムに入力することで、健診を所管する人事担当者がその結果を見てトランスジェンダー当事者であると知ってしまう可能性もあります。

対応する医師の不足

ホルモン治療をしているトランスジェンダー当事者の医療的管理は非常に高度な専門的知識を要するものです。これらについて産業医や健診担当医が十分な知見を持ち合わせていることは現実的に想像しにくい状況です。

そのため普段から薬剤を処方している医師に健診結果について連携し、必要に応じてその解釈などについて意見を求めるのが妥当と思われます。

しかし、実際にホルモン治療を行っている当事者の中でも血液検査を実施して正しいモニタリングを受けている方は半数程度しかおらず、臨床側の受け皿も不足はしているのが現状です。

https://mhlw-grants.niph.go.jp/system/files/download_pdf/2023/202324043A.pdf

医療業界全体としての改善が必要な領域です。

まとめ

こういった状況を総合すると、ホルモン治療の状況に応じて血液検査の解釈については様々な考慮が必要なものの、冒頭に述べた下記のような運用が現時点では現実的と思います。

人事(あるいは健診)システムに登録された性別で判定を行うのが最も安全である。
その上でトランスジェンダー労働者の健診判定においてはシスジェンダー労働者とは異なる注意点があることについて情報提供をし、リスク管理については本人の身体の状況を踏まえて必要に応じて主治医との連携を図ることが望ましい。

産業保健職にカミングアウトをしていない当事者も多くいると想定されることから、社内のイントラネットにトランスジェンダー当事者向けの医療情報をまとめ、健診結果を見るときの注意点などについて周知し、必要に応じて個別に産業医や主治医に相談するように伝えるのも1つの方法かもしれません。

言わずもがなですが、そもそもトランスジェンダーの方々は健診を受けにくい状況に置かれていることも理解し、健診判定のあり方に拘泥するだけでなく、健診自体のアクセシビリティの向上などにも産業保健職には積極的に取り組んで頂きたいと思います。

下記のサイトに当事者の方の困難がまとめられていますが、検査結果の解釈のずっと手前で困っていらっしゃる様子です。こういった当事者の方のニーズにもっと思いを馳せていただきたいところです。

皆さんからのご意見もお待ちしております。
全ての人が適切な産業保健サービスを受けられるように議論を深め、よりよい社会を目指していきたいと思います。

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