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軌道のあった街 -京城軌道ものがたり 4-

ときは戦前、1930年代。朝鮮随一の大都市として成長著しい京城の町、その東の玄関となる東大門・興仁之門のすぐ前に、京城軌道の駅はありました。

京城軌道の当初計画は市街電車の終点であり朝鮮鉄道との接点でもあった往十里から郊外の渡し場・舟運の船着き場として賑わった纛島を結ぶもので、京城の街に直接乗り入れる路線は当初計画には無かったのですが、京城府(現ソウル市)の政府との様々な交渉があったようで、当初予定区間の開業翌年に往十里-東大門間の延伸が認可され、その翌年、1932年10月11日に開業となりました。この動きは、どうやら当該区間内にあった「とある事業」の郊外移設と絡めてのことのようで、その事業に使われた軌道を京城軌道はトレースする形で東大門まで延伸しました。

昭和11年発行の1万分の1地形図より

昭和11年、1936年の地形図…って、あれ?1932年には京城軌道が東大門へ乗り入れているはずだけど…。
まあ、こういう図は時々こういった更新が遅い場合があります。戦前の外地の一般地図は、こんなものなのかも知れません(苦笑)。
で、恐らくこれに記載されているのは京城軌道が東大門へ乗り入れてくる「直前」の、現地の様子。清渓川の北岸に怪しげな特殊軌道が敷かれています。それは東へと土手を進み、その先にあるのは、汚物留場。どうやら京城の街で出る屎尿を東大門の場外でとりまとめ、トロッコで町外れの留場まで運んでいたのでしょう。恐らくこれは、京城府営(市営)の事業用軌道。そして東亜日報1932年5月16日の新聞記事に、こんなものが…。

京城軌道へ汚物運搬を依頼する旨の議案が、府議会を通過したとのこと。京城府は、どうやら都市化の進展により近いうちに飽和するうえに市街地に内包されかねない汚物留場を更に郊外へと移転し、農地であれば様々な「活用法」もあろうと画策、清渓川沿いの特殊軌道を京城軌道に譲渡する代わりに、今後の汚物輸送を引き受けてくれぬか、というバーター取引があったのでは…と思わせる展開。真偽は分かりませんが、そんなこんなで、京城軌道は当初構想には無かった市街地近接までの路線延伸を果たすのです。この延伸について、上記の経緯を知らぬままだと「何故わざわざ川に架橋してまで北岸を通したのか」が謎として残るのですが(南岸で五間水橋までの延伸でも市街近接への乗り入れという目的は果たせるはず)、なるほど「既存の事業用軌道を転用」となると、そこへつなげるために架橋は必要だったのか、と…。

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さてそんなこんなで、色々あっての経緯で開業した東大門駅ですが、せっかく京城市街に面するところなのだからと思ったのか、結構立派な駅となっていました。

※伸び行く京城電気(京城電気の日本本土向け広報誌)より

開業当初から大きな屋根が架かる櫛形ホームを持ち、かなりしっかりした駅であったことが窺えます。そして1950年代の航空写真を見ると、立派な駅ビルと3線の着線が確認できます。

ホーム有効長こそ路面電車1両分と短いものの、ホームや駅ビルの様子は、まさに私鉄のターミナルそのもの。こんな立派な駅があったというのに。当時の様子を知る術がこの写真のほかに確認できないのが、残念でなりません…。
(この写真についても車番が怪しかったり画質が異様に綺麗なので撮影用のセットじゃないかと怪しんだりしています…)

※Newsisの報道写真より・裏焼きだったので補正…

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さて立派な駅ビルがあった東大門駅は、現在はホテルとなり、当時の敷地の形そのままに使われています。駅の背後にあった貨物取扱スペースとおぼしき土地も、その緩やかなカーブのある形そのままに雑居ビルに転用されています。廃止後50年以上経ちますが、今でもその名残があるのは、心躍るものです。

※東大門駅跡に建つホテル

※旧貨物取扱用地そのままに緩くカーブする雑居ビル

※東大門の城外俯瞰・旧駅のホテルそして貨物扱所跡のカーブが…

あぁ、すごい…。50年の時を越えて、その「形」は、当時の姿を私の心に訴えかけます。そして、その心に響く痕跡は、その先にも続きます。

駅跡のホテル、貨物取扱所跡の雑居ビルの裏手には、こんな雑然とした路地が延びます。これは、どうやら、京城軌道の線路があったこの路地が、廃止後に都市化の波に揉まれ、建物が増えてこんな姿になったようで…。

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